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10月, 2024の投稿を表示しています

見ている世界を曇らせる"慢"というもの

 我慢、自慢、慢心… 「慢」という単語が使われた言葉は多いのですが これらは仏教が語源(サンスクリット語のMāna) で、 意味は、自分を他と比較し優劣をつけること。 自分を他者より優れている 自分は他者より劣っている どちらも「慢」。 避けるべき"煩悩"とされてます。 自慢や慢心は、わかりやすいでしょうか。 自分をひけらかすヒトはあまり好ましく映りませんし、 慢心をすれば、油断して失敗をしやすい。 我慢は、我こそが優れているという「高慢さ」があるために 「自分の思う通りではない」と不快さを感じる状態。 つまりは「自分の思う通りになるはず」という、 いわばワガママがあるから 「我慢せねば」という気持ちにつながる。 「思う通りにならぬことだってあるよね」という心持ちで流せれば、 そもそも「我慢しなきゃ」と感じる心すら生まれない。 そしてオモシロイのは「自分はイケてない…」と 自身を卑下するような他との比較も、同じく避けるべき煩悩の「慢」。 他人は他人の人生を生きるのだし、自分は自分の人生しか生きられないのだから、 他と比較して落ち込んでも、自信を失うだけで、よいことはない。 さて、これらの「他との比較による優劣づけ」が起こる 原因も 仏教で語られてます。 それは、他と比較する「わたし」という錯覚があるから。 これが仏教的な「慢」の原因とされてます。 え、「わたし」という錯覚…? 何言ってるの?わたし、存在してるし!錯覚なんかじゃないし! と感じますでしょうか。 ここについては、別なブログ 「"わたし"という意識」について = 脳科学と仏教の視点より  に書かせて頂きましたが…。 少しだけ触れると、実は、最新の脳科学の知見からみても、 「わたし」という概念(意識)は、 実は確たる実体など持たぬ「脳が進化の過程で生み出した想定の概念」とされてます。 脳内の様々な解釈の集合のなか、つねに揺らぎ変化し続けるなか 自分に都合よく(合理的にまとめ上げられた)イメージとして 「わたし」という概念が意識に浮かんでくる。 なんじゃそりゃ? でも、わたしの身体、 錯覚じゃなく、確かにここにあるし。 そうなのですが、物理的な身体の「わたし」ですら 常に大量の細胞が入れ替わっていて、確たる一つのものとは言いがたい。 イメージとしては、空中の雲のように、...

生きた宗教

  インドの佐々井上人は 「ここナーグプルでは生きた仏教がある」 「インド仏教に触れ、生きた仏教徒になるという希望を持つんだ」 など 「生きた仏教」という言葉をおっしゃいます。 「日本ではお坊さんになる人も減り、 寺も空き始め仏教が滅びつつある。 一方で、インドでは仏教が息づき、盛り上がっている。 この原因は何なのかということを、日本の方はよく考えてなきゃいけない。」 そういった問いかけもありました。 「生きた仏教がある」という言葉は、何度もナーグプルを訪れている自分には とても実感として感じるものがありますし、 これまで一緒にナーグプルを訪れた多くの方も、感じられていることではないかと思います。 改めて「生きた仏教」、「生きた宗教」と言い換えて 「生きた宗教がある」というのは一体どういう状態なのか、考えてみました。 とはいえ、 前世の自分は、そもそも宗教は必ずしも必要ではなく、 特に科学が発展した現代においては、時代遅れですらあるような考えを持っていたような人間です。 得度して2年しかたっていない人間にすぎません。 また、このブログをご覧頂いている方にも、宗教に対する抵抗感や嫌悪感 疑問を持つ方がいるかもしれません。 なので、ここではさらに言葉を変えて 「生きた宗教がある」という言葉を 「心おだやかな生き方が息づいている」と置き換えて見たいと思います。 なぜなら、あくまで自分なりの考えでしかありませんが、 仏教はじめ、キリスト教やイスラム教など主要な宗教は 個人の心の平穏と、集団の安寧を求めていると理解しているからです。 それら宗教が「生きている」というのは、つまるところ 個人や集団の心の安寧が実現されている、ということではと思うのです。 なので、「心おだやかな生き方が息づいている」のが「生きた宗教がある」ことと言えるのでは、と。 宗教の定義は議論が様々にあると思いますが、 人が心おだやかに生きるための道しるべである、といえると思います。 それが無くても困らないかもしれないが、 あると「道しるべ」として頼りにもなる。 それが「道しるべ」の役割として息づいているのが、「宗教が生きている」状態といえるのかもしれません。 経済成長ばかりを追い求めて、周囲との比較や競争ばかりを意識し 認めあい支えあう心を失っていったり、 自身の拡大のために周囲を蹴落としたり、暴力...

どこかに達するのが人生というわけではない

 「道を実践することのうちに解脱がある 道によって解脱に達するのではなくて 道そのものが解脱なのである」 — 今回のブッダ最後の旅路を辿る旅に向けて 旅のお供になってもらった本 中村元先生著 「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤI」での 中村先生の解説文より。 これは、僕の今回の旅で一番感じた事でもあります。 今回のインドの旅は ブッダが35歳で悟りをひらいたといわれるブッダガヤから始まり、 ブッダが多くの時間を過ごし 様々な教えを残したラージギルを巡り、 最後の旅の雨季を過ごしたヴァイシャーリーを経て、 ブッダが80歳で息をひきとり 火葬されたクシナガラまで。 お陰様で、無事に全て辿る事ができました。 通常ですとチャーターバスやタクシーで巡るような アクセスがしにくい場所が多く 限られたお金で旅をする僕には 目的地への行き方が定かではなかったり 辿り着けるかわからない時もありました。 が、有難くも、 行く道すがらで様々な人たちに支えられて巡る旅となりました。 たどり着いた各目的地は ブッダの聖地でありながら 寂れた雰囲気も多く 残された遺跡や仏像を見ても 正直、それほど心打たれるものではありませんでした。 ですが、そこに至るまでの道のりで体験した 素晴らしい自然の景色や 時に厳しい自然のありさま その中で逞しく、でも他人にやさしく生きる 美しい人たちの姿。 そして、何かを願い一生懸命になって祈る人の姿。 そういったものに触れる度に 自分が今も生かされている事、 名も知らぬ多くの先祖や ブッダからの2500年に渡り教えを紡ぎ生き抜いてきた 数えきれぬ先人達を想い、 それらの方々が居て今の自分の姿や生き方があるのだと 深く感じあるものがありました。  「道を実践することのうちに解脱がある 道によって解脱に達するのではなくて 道そのものが解脱なのである」 ではありませんが  「目的地へを目指すことのうちに旅がある 目的地に着くことによって旅が完成するのではなくて そこへの道すがらそのものが旅なのである」 と言った、ありきたりとも言える実感でした。 と同時に、 最終目的地であったクシナガラで ブッダが荼毘にふされた地に訪れても 旅の終わりの感覚はなく むしろ旅が始まるのだ、 いや、ずっと前から旅の途中でしかないのだ、 そんな感覚が沸き起...

「公平・平等」の追求の先にあるもの

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 インドへ向け、経由地のベトナム・ハノイ空港におります。 空港はとても賑わっており多くの方が床に座って楽しそうに過ごしてます。 そんな中、見ていてほのぼのと感じたのは、 空港の床の電源をスマホの充電に使おうと苦戦していた人を見かけた空港スタッフが 一緒に床の電源を開けるのを手伝ってあげていた光景です。 ベトナムでの法律は知りませんが、日本だと 「電気の窃盗」と言われる行為でしょうか。 そもそも、日本では電源が使える場所がちゃんと塞がらて開けられない事が多いかもしれませんが。 でも、ここベトナムで目にしたのは、電源を開けようと困ってる方をみて、 空港スタッフがニコニコしながら助けてあげている行為でした。たまたま、かもしれませんが。 開けてもらった方も嬉しそうに、周りの方々も電源に群がる。 そのニコニコ助け合う姿を「あぁ、なんだかいいなぁ」と感じて見ておりました。 法律などのルールは、様々な価値観や倫理観をもつ人たちが集まる集団で 「勝手な、ワガママな行為」で集団に迷惑をかけぬよう作られたものであり それを守るのは大切な事だと思います。 でも現実の生活では、法律やルールがありながらも バレないところで、”違反”は行われている。 時に、法律を作る側の人や、法律を取り締まる側の人が、”違反”を隠れて行う。 これはおそらくあらゆる国でも集団でも起こり続けてきて、今も起きている事でしょう。 残念ながら、人は強くなく、誘惑や集団での行動に流されがちなもの。 もし「公平・平等」を徹底させたいなら あらゆる例外を許さず、ルールを適応させて行くこともできるでしょう。 ただ、個人的には、平等や公平の徹底は、果たして「自然」なのだろうか、思うのです。 そして、その徹底は「自然ではない」ゆえに、徹底された環境は「生きにくい」、幸せを感じにくい環境となるのでは、とさえ思うのです。 コロナが全世界で蔓延していたころ、 「コロナ警察」という言葉が流行りました。 コロナ禍の中、法律ではないものの生まれたルールとしての「自粛」を「守ってない」と指摘する人をそう呼んでいたと理解してます。 自分が守る以上、他の人だってそのルールを守らなければ、「守り損」となる。 自分も我慢するから同じく周りも我慢するべき。 これは、純粋な感情なのではと思います。 でも、多くの方は、そのような「相互監視」の環境で ...

「成功」という”呪い”

このブログは「成功」を目指さなくて良いとか 成功を目指すのはよく無いという事をお伝えする目的のものではありません。 ですが、一方で 「成功は人生に必須」とか 「成功しないと幸せになれない」 と強く感じている方へ 「そんなことないかもしれませんよ」 「その考えから離れることが 実は幸せになれる一歩かもしれませんよ」 という可能性を 一緒に考えてみる目的のものです。 もしかしたら ”成功せねば”という想いが 「自分を苦しめる”縛り”」 のようなものになっているかもしれない。 幸せになりたくて「成功」を求めているはずなのに 「成功せねば」の想いが かえって自分が幸せを感じにくい状態に追いやる「呪い」のような役割になってしまっているかもしれない。 そんな可能性について考えてみるのが目的のものです。 「 成功はしたいですか?」 と問われたら 多くの方は「したい」と感じるものだと思います。 本来、自然の中で生存競争を求められる環境では、「失敗」は時に死を意味する。 ライオンに追いかけられ、逃げるのに失敗すれば、喰われて死んでしまう。 特に周りに仲間が少なく、周りから足が遅ければ、なおさら「餌食になる」可能性が高まる。 つまり、失敗(死亡)しやすくなる。 人間社会でも、ジャングルや荒地など、 食べ物や安全な居場所が限られているリスクの高い環境では、 自分の食べ物や住処を勝ちとる事に成功できなければ、 時に死のリスクが高まる。 だから、「失敗」は恐怖を感じさせる。 だから、「成功」は、できればしたい。 でも、それは、あくまでジャングルのような、安全を確保できなければ死んでしまうほどの危険な状況でのお話です。 ですが、現代の我々はどうでしょうか。 もちろん、災害や紛争の前線のような悲しく辛い現場では、安全の確保を「成功」しなければ生死に関わる状況もありますが、現在地球上に住む多くの人にとっては、餓死や紛争や災害による死のリスクより、自死や糖尿病による生死のリスクの方が、はるかに高いのが、数字の上での現実です。 ですので、「失敗」は、実は他者からの脅威によるリスクよりも、自ら招くリスクがあるものに変わって来ているかもしれない。 一方で「成功」も、現代ではほとんどが、生き死にに関わるほどのリスクのものではなくなってきているのでは。 できるなら スポーツや芸術に秀でた能力がある方がよい。 ...