「成功」という”呪い”

このブログは「成功」を目指さなくて良いとか

成功を目指すのはよく無いという事をお伝えする目的のものではありません。


ですが、一方で

「成功は人生に必須」とか

「成功しないと幸せになれない」

と強く感じている方へ

「そんなことないかもしれませんよ」

「その考えから離れることが

実は幸せになれる一歩かもしれませんよ」

という可能性を

一緒に考えてみる目的のものです。


もしかしたら

”成功せねば”という想いが

「自分を苦しめる”縛り”」

のようなものになっているかもしれない。

幸せになりたくて「成功」を求めているはずなのに

「成功せねば」の想いが

かえって自分が幸せを感じにくい状態に追いやる「呪い」のような役割になってしまっているかもしれない。

そんな可能性について考えてみるのが目的のものです。



「 成功はしたいですか?」

と問われたら

多くの方は「したい」と感じるものだと思います。


本来、自然の中で生存競争を求められる環境では、「失敗」は時に死を意味する。

ライオンに追いかけられ、逃げるのに失敗すれば、喰われて死んでしまう。

特に周りに仲間が少なく、周りから足が遅ければ、なおさら「餌食になる」可能性が高まる。

つまり、失敗(死亡)しやすくなる。


人間社会でも、ジャングルや荒地など、

食べ物や安全な居場所が限られているリスクの高い環境では、

自分の食べ物や住処を勝ちとる事に成功できなければ、

時に死のリスクが高まる。

だから、「失敗」は恐怖を感じさせる。

だから、「成功」は、できればしたい。


でも、それは、あくまでジャングルのような、安全を確保できなければ死んでしまうほどの危険な状況でのお話です。

ですが、現代の我々はどうでしょうか。

もちろん、災害や紛争の前線のような悲しく辛い現場では、安全の確保を「成功」しなければ生死に関わる状況もありますが、現在地球上に住む多くの人にとっては、餓死や紛争や災害による死のリスクより、自死や糖尿病による生死のリスクの方が、はるかに高いのが、数字の上での現実です。

ですので、「失敗」は、実は他者からの脅威によるリスクよりも、自ら招くリスクがあるものに変わって来ているかもしれない。

一方で「成功」も、現代ではほとんどが、生き死にに関わるほどのリスクのものではなくなってきているのでは。

できるなら

スポーツや芸術に秀でた能力がある方がよい。

勉強が得意な方がよい。

良いと言われる学校に合格できる方がよい。

稼げる職業に就ける方がよい。

エラいと言われる立場に立てる方がよい。

安定した企業に正社員雇用される方がよい。

良いと言われる結婚相手を見つけた方がよい。

これらの「成功」は、確かにその後の人生を「より安心」させてくれるものかもしれません。

ですが、それらは、

あくまで「その後の可能性を広げる」だけであり、

必ずしも「生き残りやすくなる」かは分からず、

さらには「幸せな生き方になるか」に繋がるとも限らない。

かえって「成功したのだから」と、その後のさらなる「成功と呼べる何か」を掴みたくなり、苦しい生き方になるかもしれない。


現代の我々ヒトの生活においては、「成功」は、あくまで、可能性をもたらす一つの出来事に過ぎないのでは。

それがなくとも(つまり「失敗」しても)、喰い殺されるなど、死ぬワケじゃないのでは。


失敗があっても、逃げ遅れて片脚が喰われるとか、片腕を怪我で無くするとか、その後の人生において多大なるダメージが残るほどの重大事ではなく(それでも生きていけるのですし)、あくまで可能性のいくつかが見えにくくなっただけでは。

しかも、可能性がゼロになったワケでもなく、実は新たな可能性が広がっただけでは。

それにもかかわらず、目指していた「成功」が手に入らない事が、人生の大いなる失敗であったり、その後の可能性が大いに潰れてしまうような感覚が生じるのだとしたら、それは「成功の呪い」という縛りを自らに掛けているのでは。

そう、感じるのです。


「それは、成功を掴んだアナタだから、言えるのでは」

というご意見もあるかもしれません。


しかし、それはあくまで「比較」のお話なわけです。

例えば自分は引きこもりで登校拒否も起こしていれば、その事で入院もしていれば、受験の不合格や会社の不採用の経験もしていれば、下剋上やクビに近い体験もあれば、離婚もしていれば、会社の倒産も何度かしていて、いわば「失敗」もたくさんしているとも言えるかもしれません(決して不幸自慢をしたいのではなく、ただの事実です)。


なんなら、親からすれば「50歳近くまでなって、突然経済的な活動から離れてコジキのような生活をする」自分は「失敗」にも感じさせるものかもしれません。


比較すればいくらでも「成功」とも「失敗」とも名付けられる。

でも、有難くも、今日も生きられて、おだやかな気持ちで、

有難うという機会もあれば

有難うと言って頂ける機会を得られるかもしれない。

ゲンキに楽しく幸せを感じつつ

今日も息をしてある程度の食を得て

大切と思える人との繋がりがあって

思いやれる人や自分を思いやってくれる人がいて。

それは、自分にとっては

とても有難く満たされた生き方を頂戴しております。

確かに、過去の様々な経験があって今の生活があるのは事実ですが、

それは「過去に成功をしてきたから」ではなく

「過去に様々な体験をさせてもらえたから」なのではと思うのです。


生き死にに関わる事でなければ

離婚だって「その後の幸せに繋がる貴重な体験」とする事もできるし

「失敗」として人生の十字架のように背負う事だってできる、

他人様は様々な「解釈と評価」はあるでしょうが、それは他人様の価値観によるものでしかなく

結局は自分がどう受け止めるか。解釈するか次第で、あらゆる体験は

「失敗」とラベルを貼ることもできれば

「人生の滋養となる体験であった」と

ほろ苦く小っ恥ずかしいけれど抱きしめたくなる大切な経験と評価する事もできる。

つまりは、現代における多くの状況では、「失敗」と名付けられる出来事は、生き死に関わるほどのものでは無く、あくまで解釈次第なのでは、と思うのです。


「あなたは成功できているから、そう感じる」と感じる方も、もしかしたら、80年前に、戦火で燃え盛る家に押し潰され泣き叫びつつ家族を何もできずに泣きながら自身も朽ちていった方から見れば

「あなた、生きているだけで十分、成功じゃない」

という生き方かもしれません。

津波に家も家族も流され、家族の安否すら分からず寒さに震えた夜を過ごした人から見れば

「家もあって話せる誰かがいるだけで幸せじゃない」

と評価されるものかもしれません。


繰り返しですが、比較はいくらでもできて、「成功」か「失敗」か「どちらでもない貴重な体験」かも、全て「自分の解釈」しだいなのでは。

生死に関わる出来事でもなければ、仮に病気などでその後に重い障害をうむ事態となっても「生き延びてはいる」点では、その後の可能性は引き続き持っていると言えるのでは。


「成功」はあくまで、その後も続くであろう人生の一点における、可能性の変化の話でしかないのでは。

どのような分岐に進むとも、必ず、その先の新たな可能性は広がっているのでは。

どの分岐が良いかなど、行って見なければ、味わってみなければ、本人にしかワカラナイ。

他人様はアレコレ言うかも知らないけれど、他人様の人生を味わうことができないように、他人様も自分の人生の味わいは分からない。

味わい方は自分次第でしかないのでは。


と、そう思っております。


何かの成功を目指さない方が良い、という事ではありません。

新たな可能性は、何かのチャレンジを目指すから広がるものだと思います。

つまり、何かしら成功と呼ばれるものを目指すからこそ、自身の可能性は広がるもの。

成功を目指す過程があるからこそ、自身の努力や内なる成長も起こるもの。

そのチャレンジの結果、目指していた立場や資産を得る事だけが「成功」なのではない。なぜなら、その「成功で得たもの」は自然災害や世の中の変化の中で、時に流されうるかもしれないから、

けれど、ソレを目指した過程で得られた自身の内なる成長や、周りの誰かとの絆は、その後も自身の内なる財産として、死ぬまで残りうる。それだって「成功で手にしたもの」なのでは。

仮に「目指していた立場や資産」を得ることは「失敗」だったとしても。

なので、成功を目指すのは何かしらの善きものをもたらす素晴らしい機会にはなるけど、「成功と一般的に呼ばれる何か」は手に入れ無ければならないものでもなく、成功は「体験を得て生き延る」事で達成とも言えるような「解釈しだい」なものでもあるのでは。


「成功が無いと幸せになれない。」

「人生において成功こそが、勝敗を決めるようなもの。」

というのは、未だ来てない未来の、実は空想上の「とらわれ」なだけかもしれない。

それは空想かもしれず、無くても死にはしないものと感じられれば、実はとても清々しく前を向いて、また新たな希望を探して生きやすくなるものでは。

だって、まだ生きていられているのですから。

事実、この先の未来など、誰にも分からぬ物なのですから。

その先の未来は自分がどのような分岐へ脚を踏み入れるかでしか決まらないのですから。

まだ、どの道へと脚を進めるかは、ご自身が可能性を握れているのですから。


この姿(オレンジまとったハゲアタマ)になってから、有難いことに

余命宣告を受けたガンを「新たな人生をぬれたエンジェル」と呼んだり

生後まもなく亡くなった赤ちゃんを「人生の有難さを教てくれた天使」と呼んだり

虐待や差別で人を殺したくなる憎しみを感じる過去を「自分を変えてくれた大切な体験」と満面の笑みで語ってくれる方に出会えさせて頂いております。


そういう方々は自らの可能性を自ら広げていらっしゃる。

過去の体験や今の状況を、苦しく見える角度から眺めるのではなく、楽しく見える角度から眺めて、その先の楽しそうな分岐先を見つめるようにされていらっしゃる。

そんな風な方々に出会えております。


つくづく、人生は、都度つどの体験の連続にすぎず、成功も失敗も、刹那な解釈でしかない。そう感じております。

それを、成功/失敗とラベルを貼ることに忙しく、後ろに向かうことにエネルギーを費やすこともできれば、あらゆる体験を笑い飛ばして前へと進むエネルギーとして、次なる可能性へ前へ向くこともできる。

それを決められるのは自分次第でしかないのでは、と感じております。

苦しく感じる方は、自分で自分を縛ってあるだけかも。

そう、疑ってみて、鏡を見てニッコリ作り笑顔をしてみて

「アンタ、なーに自分で自分に呪いかけちゃってるの!大丈夫、すぐ解いてあげるから!わたしが!」

と笑い飛ばしてみても、良いかもしれません。

今日もお付き合いくださり、有難うございました。


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