瞑想について - 龍光ブログ

瞑想について - 龍光ブログ

エラそうなタイトルですが、まず皆様にお断りとお詫びです。

自分は決して「瞑想とはどういうものか」を知っているのかすら、分かってない、というコトです。

自分なりの学びや実践はしてはおりますが、果たして、その行為は「瞑想」と呼んでよいのか、「ただポカーンと座っているだけ」なのか…。


「食事」という体験を言語で説明しつくすのが不可能なように、「瞑想」という体験も、言語化しきれるものではない。

そもそも「食事」という体験には、味、見た目、匂い、音、食感、その場の環境や一緒にいる人達などトータルの雰囲気、その時の自分の気分や体調などなどなどなど…。

実に様々な情報が合わさっての「体験」なワケで、単語を順番に連ねることでものごとを表現をする「言語」というモノでは説明がしきれないモノ。

同じように、「瞑想」という体験も、その時の場所の雰囲気、変化する五感の情報、体内の気分や体調などで、実に様々で、かつ刻一刻と変化するモノ。とても、言語化しきれない。

じゃあ書くなよ!

なのですが、有難くも瞑想の体験会をご依頼を頂く機会が増えてきている中、限られた時間で少しでも自分なりの「瞑想の効果」を皆様にもできるだけ分かりやすくお伝えできるよう、自分なりの「瞑想について」をまとめてみました。

あくまで、現時点での、自分で表現可能な範囲での「瞑想」(と自分が感じているモノ)にすぎませんが、少しでもお役に立てば幸いです。

ながーい前置き(言い訳)はともかく、こちらです。

瞑想についてver0.2 by 小野龍光

この資料は、自由に活用頂いても全く問題ありませんが、あくまで一人のハゲボウズの「感じるコト」でしかありませんのでご容赦くださいませ。



内容としては、資料にまとめさせて頂いた通りなので、それに付加した説明はできますが、言葉を尽くせば尽くすほど混乱も生むものなので、まずは一旦ご笑覧頂き、ご意見やご批判などありましたら、龍光ポストにご遠慮なく頂けましたら幸いです。


改めてお伝えしたいこととしては、「瞑想」という単語を聞くと、なにやら特別な人が行う特殊なモノのように誤解を与えてしまいますが、「雑念から離れて何かに集中できている」「無に近い感覚」という状態は、ほとんどの方の日常でも起きている現象だと思います。

掃除、料理、裁縫、薪割り、などなど、単純作業の繰り返しをしている状態では、時に作業のため意識を向けなくても「自動運転」で作業がされている状態が生まれ、そうすると脳内は瞑想に近い状態になっている。

それを、無自覚で体験する変わりに、呼吸という、日常で無意識に自動運転できている作業に意識をあえて向けることで、無意識に反応してしまいがちな様々な雑念(仕事のメールやネットニュースや動画やSNSの更新などに気になる思念など)からの意識を引っ剥がす(呼吸に向ける)ことで、雑念から離れやすい = 「無に近い感覚」を意図して目指す。

そんな感じです。

なので、「瞑想」がスゴいとかじゃなく、呼吸に意識を向けると、雑念に囚われにくい = 集中を作りやすい、何かの思念(特に負の感情)に囚われにくい = ココロが楽に感じやすい、というコトだと思ってます。

その上で、あらゆる思念も感情も流れていくものだよな、と身体で実感できていくと、時に欲に流されそうな時でも「いやいや、流されつつある自分がいるし、今この欲が強いだけで、そのうち流れて忘れていくでしょ」と、欲を流しやすい自分が育ちやすい。その気づきのキッカケを「呼吸への意識」でリマインドされやすい。

そんな感じでしょうか。


やはり、言語化しきれないので、やってみてください!

ふと、仕事でパソコンに向かっている時、台所に立っている時などに、1分でもいいでので、目をつぶって呼吸に意識を向けてみる。


そのうち、慣れてきて、補助輪無しで自転車に乗れるように、

手放しで自転車に乗れるように、うまくなっていくものだと思っています。


少しでも、お役に立つ内容であることを願っております。


ご覧頂き、有難うございます。


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