怒りとは
「怒り」をテーマにしたオンラインでのセッションを持たせて頂く機会があったため、自分でも改めて「怒り」について考えてみました。
すでに様々な偉大な先人たちが、「怒り」について語り思索をまとめていると思うので、興味ある方はそれらを学べば良く、自分がココで書き綴るものは、あくまで自分の思索をまとめるためのメモを公開しているモノ、とお受け取りくださいませ。
(皆様にとってはゴミのようなモノです。いつでもこのページをお閉じ下さいませ)
まず「怒り」を含めた、負の感情は「思う通りにならない」状態から起こる。
と、考えてます。
そして、その解消のカギは、実は、自分の中に答えがあります。
実は、「思う通りにならない」モヤモヤは、自分の脳内が生み出した「思う通り」のイメージとのギャップにすぎず、「思う通り」のイメージへの囚われを自ら流していく(そのイメージから離れていく)ことで、モヤモヤ/怒りは流れていく(消えていく)のです。
そう、考えております。
もう少し、詳しく書いていきます。
「思う通りにならない」という状態は、「思う通り」にならない/ならなそうな時に生じる。
いわば、自分にとって「こうあってほしいイメージ」に対して、現実が違った時に「なんでだよ!」と感じる。
これが「怒り」含めた「思う通りにならない」、負の感情の根っこでは、と。
「こうあってほしいイメージ」は、脳内で「こうだといいな」(期待)、「こうあるべき」(理想)、「こうありたい」(希望)、といった前向きな感情から生まれる。
これらは「欲」とも呼べますが、これらは前向きな成長を促しうる感情で、決してそれ自体が悪いものではない。
でも、「思う通りにならない」ことは、とてもよく起こるもの。
だって、自然は常に予測不能で刻一刻と変わるのだし、関わる様々な人達の中では、自分とは違う感情や意識や意図で、自分とは違う「こうあってほしい」「こうあるべき」という状態に向かって進むことも、よく起こるものだから。
そもそも、残念ながら、我々は必ず死んじゃうし、いつどこでどう死ぬかというのもワカラナイもの(「知っておきたい!」は、思う通りにならない)。
だけど、時に起こる感情
「なんでこうじゃないの」
「なんでこうなっているの」
「自分にとっての『思う通り』」に囚われると、怒り、という負の感情が膨らみやすい。
まず、ここで大事な事は、これらの出来事は全て「自分の感情/心の中だけで起きている」という事。
「こうあって欲しい」とイメージしたり、「なんで、そうなっているのだ」という捉えたりは、自分の中だけの現象(想像/解釈)。
他の人には、その人なりの別の想像/解釈の中で生きているし、それは他人の中だけの現象なので、自分には分かりっこない。
ゆえに、人間同士の間でこそ「思う通りにならない」事は、「怒り」として膨らみやすい。
自然相手だったら、「思う通りにならない」と諦めやすいのだが、人に対しては「相手も同じ人間なんだし、自分と同じような感性や考えをもっているハズ」と、勝手に想定しがちだから。
「相手のAさんも、自分と近い考えの人だから、自分と同じ考えだよね」という、自分の考え自体が、実はすでに「こうあってほしい」イメージの産物。
ですが、繰り返しですが、他人は自分とは違う考えを持ったとして、本来何の不思議もない(自分ではないのだから)。
そもそも、自分の中でさえ、世の中の多くのことに対し「YesかNoか」と単純に区別がつけられない事が多いのでは。状況によって解釈が変わることも多いのでは。
視点/立場によっては「Yes」だけど、ちょっと視点/状況が変わると「NoよりのYes」という事も起こりうるもの、と皆さんも経験はないでしょうか。
(殺人はもちろんだめ!でも自分や大切な家族が襲われてたら「正当防衛」も必要かも、など)
そして、自分にとって、今大切だと捉えている「こうあったらいい」という事が、
実はAさんにとっては、今「そんなに大切じゃない(どうでもいいこと)」ということもよく起こりうるもの。
(自分が大切など思う様々なニュースに対し、無関心な人だっているもの)
だって、Aさんも生きてる中で、いろんな感情や精神状態が変化しつつ生きているものだから。
もしかしたら、Aさんには全然別の「いま大切だと思うこと」に集中しているかもしれないのだし。
自分ですら、今は大切と感じている事に対して、ひょっとしたら数時間前は、違う話題のニュースに気を取られていたかもしれない。
思念も、感情も、流れて変化していくもの。
それによって、一人の中でもタイミングや状況によってYes/Noなどの解釈や判断も変化しうるもの。
人が違えば、その人の数分、様々な解釈や判断もあるもの(変化もしていくもの)。
「なんで自分が一生懸命作った食事をスマホ見ながら食べるの(自分の努力を汲み取って食べてほしいのに)」
「なんで真面目に勉強してくれないの(あなたの将来を考えて言っているのに)」
「人が作ってくれたご飯に感謝を込めて向き合って頂くべき」
「(勉強など)物事に集中して努力する経験は生きていくにおいて大切」
「そりゃYesでしょう」という方も多い「常識」かもしれません。
でも、食事の直前に、親が重病にかかってしまったというメールが届いてスマホに夢中になっていたりだとか、学校でいじめにあって苦しんでいて勉強に向き合うどころじゃなかったとか、それぞれ、彼ら彼女ら自身にとってすら「こうあるべき」となりにくい状況にあった可能性もあるかもしれません。
だけど、そこで「思う通りにならない」という負の感情を、怒り/不満として膨らませ
「理解しておくべきでしょ」「こう考えて当たり前でしょ」「こうするべきでしょ」
など、相手に対し、負の感情としてぶつけてしまうことが起こりうる。
でも、実はこれは、自分にとって「思う通りにならない」ことによって生まれた
自分の負の感情(怒りetc)を片付けたくて(負の感情から離れたくて)、
その手段として「怒りを爆発させる」選択をしてしまっているのでは、と。
怒りをぶつけて、果たして、自分や、相手との関係において、良き方向に向かうのでしょうか。
怒りを示したことで、相手が「自分の思う通りになったように見える」ことは起こりえますが、本質的に「思う通り」になった訳では無いのかもしれません。
「食事をつくってくれた人に対して感謝を示して頂くべき」という気づき無しに「怒られるのメンドくだいから、とっとと食べてスマホに戻ろう」だとしたら、どうでしょうか。
「いじめで苦しんでいて、どうしたらいいか相談したかったのに、親を怒らせた」と感じさせてしまったら、どうでしょうか。
誰だって、怒りをぶつけられたら、イヤな感情が生まれて反発しがちなものではないでしょうか。(だって、それは自分にとっては「なんで急に」と感じさせる「思う通りにならない」現象かもだから)。
自分が信じる価値観や考えを相手にも同意してもらいたいのであれば、もしくは相手に自分の考えに賛同はしてもらえなくても理解を示してもらいたい(自分の考えを尊重してもらいたい)のであれば、まず大切なのは、他人だから完全に理解などはできないものの、相手の状況や背景を汲み取ってあげようとする姿勢を示すことが大切だと思います。
その上で、「自分としては、こういう理由で、そういう時は「こうあるべき」と考えている」と伝えていくのが、対人関係として望ましい。
そもそも、誰だって、生きている中で様々な状況の中で、興味の対象の度合いも代わり、それに対する判断もYes/Noハッキリせずに揺れ動くものである。
「勉強すべき」「感謝してご飯を頂くべき」と頭で分かっていても、ついついニュースに気をとられたり、悩み事でそれどころでなくなってしまったり、してしまう事だってある。
自分にとって今「こうあるべき」と感じているものが、相手がそう見えない/全く違うように見える事も、起きうるものである。
人生を通して変化が少ないであろう「正義感」や「信念」というものですら、人によっては、生まれてきた環境やそれまでの経験が違えば、全く違う「正義感」「信念」もあるかもしれない。
自分の道徳心や信念から、相手の状況を汲み取って理解してあげようという姿勢を伝えたうえで、「こうあるといいのでは、と自分では考えているよ」と自分の考えを伝えることはできるのだけど、「なんで思う通りじゃないの」という負の感情(怒り)をぶつけては、互いの信頼関係にマイナスになりうる。
なので、怒り/憎しみに怒り/憎しみで戻しても、益がない。批判としてぶつけるだけでは、話し合いどころか、人間関係の構築すら、前向きに進みにくくなってしまう。
自分が相手に信頼されているのだ、自分の考えに真剣に向き合ってもらっているのだと感じなけ相手に対しては、信頼しようと/真剣に向き合おうという感情が生まれないものだから。
それぞれの立場、考え、心情、状況があるのだろう。
それを賛同するとか良いと認めるとかはさておいて、
「他人なのだし、違う心情/思念もあるだろう」と、まずは
「違いがある」(自分にとっての「思う通り」ではない)という事態そのものをありのまま受け止める。
受け入れる(賛同する)のではなく、あるという状況を事実としてただ観察するように受け止める。
その状況も、固定のものではなく、変化の途上にあるものである事実を受け止める。
そうして、「思う通りにならない」負の感情を流して、冷静なおだやかな心を持った上で、相手の信念や考え/状況に対してまずは理解をしめそう(賛同ではなくとも)という態度で望んで、初めて双方前向きな関係のスタートラインに立てるもの。
そんなふうに捉えてます。
思いのままに書き綴ったので、あまりまとまりはないですが。
我が家には、ネ申(ヨメ)がおりますが、
「人にはそれぞれ、いろいろと有るんだよ」
「オマエの信じるモノが、他の人にとっても正しいと思うなハゲちゃびん」
など、時にそんな有り難いお言葉を頂いております。
その通りだなぁ、と有り難い限りです。
人それぞれ、信じるものや感じ方など、様々に違うのが当たり前のうえで、
「自分が正しい」もそれぞれ違いがあって当たり前なうえで、
「ゼッタイにこれであるべき」も、時代や場所や状況で、変化しうるものだという前提のもとで、
「思う通りじゃない」という負の感情に心を燃やさないよう、
「そういうこともあるのだ」と、おだやかな気持ちで受け流し、
「考え/解釈の違いがある」事態に向き合っていく。
それが「怒り」というものに対して、大切な心構えでは、と考えております。
とは言っても、頭ではなんとなくわかったように感じても、
このモヤモヤした怒り/負の気持ちが起きてくるのは、どうしたらいいの?
そんな、キレイに流れてくれない!
そういうものです。
誰もが、いきなり筋肉ムキムキにはなれません。地道な筋トレで負荷がかけていかなければ、筋肉が育たないように、心もいきなり負の感情をうまく流せるように強くなんてなれません。
いろんな、苦しい、思う通りにならない体験の中から、徐々にうまく「とらわれない心持ち」を育てていけるものです。
なので、苦しい、怒りも、体験を通して自分を育てていけるものです。大丈夫です。
でも、じゃあ、今は耐えるしかないの?
瞑想は、その解消の有効な方法と思います。
そして、腸内の環境や、生活習慣も、とてもとても大切かと!
瞑想だとか、腸内のおハナシは長くなるので、また今度。
明日すぐできることならば、
早起き、散歩、挨拶、掃除。
この4つは、どんな環境でもほぼ全ての方が日々できて、
小さなトレーニングをできて、「思う通りにならない」負の感情から離れやすくなる手法と実体験を通して感じております。
これについても、ブログでそのうち書くかもしれません。
書かないかもしれませんが(汗。
と、自分の思索メモにお付き合い頂き、有難うございました。
以上、あくまで、ハゲボウズの戯言です。