大丈夫 これでいいのだ
「天才バカボン」は実は仏道に関係がある?
そう耳にした時はビックリしました。
「西から登ったおひさまが東に沈む」「これでいいのだ」
すぐキレてピストルをガンガン撃ちまくるお巡りさん
なんでしょうか。なんだか、とてもメチャクチャな世界にしかみえません(笑。
仏教の生まれたインドでは Bhagavan (バガヴァン)はお釈迦様を表すサンスクリット語だったり、
バガボンのパパは生まれた時、お釈迦様の誕生神話と同じく、「天上天下唯我独尊」と言ったり。
ひたすらお掃除と挨拶をする「レレレのおじさん」は、賢くは無いけどひたすらお掃除をして悟りをひらいたとされるお釈迦様のお弟子さんを彷彿させたり、
「太陽が西から上り東へ沈む」という「常識のハンタイ」とされる事を「これでいいのだ」と受け入れるという姿勢は「両極端な(端に偏った)考えから離れ、両端の関係性をふくめて全体としてあるがまま受け入れる」という仏道の考え(「中道」といいますが)にも通じたり…
まぁ、御本人の公式サイトでも、バカボンの由来は「謎」としているので、ただ僕自分が仏教に紐づけて解釈したいという「極の端っこ」の見方に囚われているからなのかもしれません(汗。
でも、あらためて「これでいいのだ」というのは、とても愛のあるコトバだなぁと思うわけです。
なんでもかんでも「いい」というワケではなく、天才バカボンのストーリーの中は、メチャクチャにも視えるバカバカしいシーンがある中で、人に対する愛がある。
その上で、一見不条理や常識外れにみえることすらも「これでいいのだ」と受け入れる姿勢はステキだなぁと思っております。
生きていると、不条理に感じたり、思う通りにならない事がたくさん起きるもの。
自分の意見や価値観が受け入れられない人たちが、罵り合ったり、争ったり殺し合ったり。そういった悲しい事が目につきつつも、それに対して無力で何もできない自分がいて苦しかったり。
でも、今できることは、今、という瞬間を有難く、顔を向ける方角さえ間違えずに、できうることをしようと生きていくこと。
「今」を生きられているだけでも有り難い。
その「今」の瞬間に、感謝のココロを持ち、その恩返しとして、誰かへのやさしさのココロを育てていこうと、前を向いて、上を向いて、息をする。
悩ましいこと、苦しいことは生まれても、下を見ても明るい方向は見えてこず。
起こった事、過去ばかりを見ても今は変わらず、未来を見確かめようとしても確かなモノなど見えるはずもなく今は変わらず、むしろ、そうしてココロを痛めている間に、大切な「今」はどんどん過ぎしてしまうだけ。
できるできないは、ワカラナイのだから、ひとまずは、やってみたい、行ってみたい方向に、前に、顔を上げてみる。
自分ばかりに目を向けず、自分の持ち物やお金や地位ばかりに目を向けず、今自分が存在できているのは誰かのおかげなのだと理解し、誰かのためにできることを探そうとする自分になるべく、周りの人へ顔を向けていく。
でも、時に下を見ちゃったり、後ろばかり見てしまったり、先ばかりに気を取られてしまったり。
そういう時も、あるもの。
でも、それじゃいかんよね、というココロも持ちつつ。
そんな瞬間を積み重ねて、生きていく。
それだけで、なんて素晴らしい人生ではないかと。
その積み重ねの中に、「華々しいシーン」があろうがなかろうが、
少なくとも、「誰かへのココロ」をもって生きた積み重ねがあるのであれば、
それは、大変に有難き事ではないか。
そういったココロを求めて苦しみつつも前を向こうとしている瞬間があるのであれば、
それは、大変に有難き事ではないか。
そう思っております。
今、呼吸はできて、生きている(これを読めていらっしゃるのですから)。
大丈夫ですよ。
素晴らしいじゃあないですか。
その「今」があるという事は、それでいいのでは(素晴らしき事では)ないでしょうか。
幸いに、頭上にロケットが飛び交ったり、災害で寒い外で震えて電気さえ無い場所で震えているというわけではない。
苦しい病気を抱えている最中かもしれないけれど、今この瞬間は、まだ「息」を持って生きている。
それだけで、実に有難き事ではないでしょうか。
と、そう思っております。
大丈夫ですよ。
これでいいのだ。 by バガボンのパパ