何にも無いから たくさん気付ける
この1ヶ月ほど、毎朝目覚めてから就寝するまで、ほぼ何も予定が無く、ネットやニュースにふれることもほぼ無く、ほぼ誰ともコミュニケーションも無い日々を過ごしてみております。
ひたすら、活字と自分に向き合う時間で、退屈そうにも聞こえるのですが、多くの気づきに溢れた、とても充実した時間を頂けております。
起床し、まだ暗い空を見上げると、星空の中で、月は位置も姿も日々変えていく。
うっすら東に薄紫色が出始め、徐々に様々なオレンジのグラデーションが刻一刻と生まれては消えていく。
朝の散歩に出かけると、色々な方とすれ違い挨拶をし、時にとてもステキな笑顔に出会える。
そして、風のニオイ、草木の様子、様々な鳥の鳴き声など、美しく眺める。
畑では少しずつ、植えた野菜たちが日々育っていく。雑草も増えていく。
毎日、雲の様子で様々な夕日を眺める。
特に大きな変化が何も無いような毎日なのですが、実に多くの自然の変化に気がつけて、それに心おもしろく過ごせる自分がおります。
大変に、有難きことです。
日々の生活で、やるべき仕事がなく、自由な時間が多いから、それらの事柄に気がつきやすいだけかもしれません。
でも、講演などで様々な人と出会い、コミュニケーションや移動など刺激が多い毎日が続く1か月前の日本やインドにおいても、空を見上げたり草木に意識を保て、そこに喜びを感じられておりました。
一方、得度前の生活では、何かをしていないと価値が無い自分のような、常に次々と何か心を満たしてくれそうな出来事を追い求めていないと、人生を損してしまっているかのような、そういった焦燥感に駆られていた。
そんな心持ちの中では、自然の変化を、おだやかに眺める意識はほぼ持てておりませんでした。
「何か常に新たな刺激を」と追いかけていた前世(得度前)では、満たされ無さがずっと続き、それが苦しみに感じ、その苦しみを埋めようと、さらに「何か」を求めて、慌ただしい(=心が荒れた)状態になってしまっていた。それは自分が望む状態ではなかった。
今は、時に刺激に少ない退屈や孤独にも感じるような時間にあふれているものの、何もない分、ちいさき様々な事柄に気づきと、おもしろきと感じる時間が、おだやかな時間の中に溢れている。
どちらの状態が絶対的に良いとか悪いとか、そういった事ではなく、
自分としては望ましい状態を、今頂けているという事がただ有り難い。そう、感じております。
「何か」を求めれば、時に「もっと」とキリなく苦しみが生まれうるもの。
「何か」を求めようとしないからこそ、そこに元からあったものに気がつきうるもの。
そう、改めて感じております。
おだやかな呼吸があるだけで、有り難い。
今日も、おだやかでおもしろき時間を、有難うございます。