足るを知れば 満たされる

嵐による停電で、電気が無い生活をしました。

真夏のオーストラリアはクーラーが無いと暑いです。

山に籠もっているので、太陽が沈むと真っ暗になります。

かなりの広範囲で停電がおきており、他にも嵐による倒木などの災害被害が出ているので、

年末年始ということも有り、しばらく電気が無い生活が続くかなと考えてました。

幸い、水はあるし、山にはパパイヤなっている木もあるし。

まぁ、死にはしないだろう。死んじゃったら、腹も減らず暑くも感じないし。

そんな感じで、ポカーンと停電生活を楽しんでおりました。

はるか先では激しそうな雷雨を起こしている雲をバックに、美しく色を変えていく夕焼けも堪能しつつ。


電気がないので、暗くなると本を読めなくなる。

充電ができないので、電子書籍も控え、このようにスクリーンに向かう時間も無くなる。

そうすると、自然を見る時間も増えます。

日常でも、朝焼け、夕焼けは楽しんで眺めているつもりでしたが、

停電という機会で、いつも以上に自然と向き合う時間が生まれる。

そうすると、いつも以上の、細やかな自然の変化の美しさに気がつける。

とても、有り難い時間だなぁ。

結果、自分のいる場所は24時間で電気が復旧しましたが、まだ停電の箇所も広範囲で残っています。

あらためて、日常に「ある」ものは、当たり前ではないのだ、という良い体験を頂きました。

まさに「足るを知る」だなぁ。

そう感じました。


と、ながーい前置きとなってしまいましたが、今日のタイトル、

「足るを知る」 

好きな言葉です。


アレもコレも、もっとほしい。

モノ、カネ、名声、地位、賞賛、愛情、権力…。

今は手に入ってなく、手に入るなら「ほしい」。

誰か、自分よりもっていそうな人が目についたら、自分も、ほしい。

そう思っても、いざ手に入れると「もっと手に入るなら、ほしい」とキリなくムクムクと膨らむ。

どこまでも「もっと」とキリなく求めるココロが生まれると、「満たされない(手にいれられてない)」と感じ、その満たされなさが、苦しみとなる。

そして「もっと」のココロが強まる中で、誰かからの搾取や、誰かを蹴落としてでも、など、他人の気持ちに無頓着になってきてしまい、かつ、「持てている」自信が何か特別な存在かののように傲慢なココロが生まれて、人にやさしくないココロの自分が膨らんでいく。

怖いのは、そのような変化が自分でも気づかぬうちに起こっていくこと。
自分の中で徐々に起きている変化なので、自分では気がつけない、というのが正しいかもしれません。

最初は、「あるといいな」と、小さな欲だったのかもしれないものが、
いつのまにか、貪り(むさぼり)へと育ってしまって、自分でも抑えが難しくなっていく。

そんな自分に苦しんでいた時に救われた考えが、「足るを知る」のコトバでした。
「知足」と書かれたりもしますね。

「もっと、ほしい」

そのココロの根っこには「もっと頑張りたい」など、純粋な向上心もあると思います。
高みを目指すからこそ、今の自分では「足りてない」と自信が持ちきれず、
それが「満たされてない」というココロにつながっていく。

今は手にできてなくても、手に入れたい。
そして、ついに手に入れた瞬間に生まれる「喜び」「満たされ」の快感。
が、その快感(心地よさ)はすぐに消えてしまう。
それは悲しく切なく、苦しい。
燃え尽きのような。
なので、「またあの快感がほしい」と、「もっと」が強くなる。
「もっと頑張りたい」という向上心が、時に「あの快感がもっと」にすり替わっていってしまう。

これは、おそらくドーパミンの、脳内のホルモン物質の分泌による神経の電気信号の発生のお話。刹那で終わる体内の電気的な興奮状態のお話し。

なので、「満たされ」の実感は続かずに、すぐ終わる。でも、また欲しくなる。
そして、次に「満たされ」を実感するには、より強い刺激(電気信号)でないと「満たされ」の実感が得られない。

結果、どこまで求めても「もっと」がキリなく続き、満たされない。

他人から見て「成功者」「有名人」と呼ばれる人が、時に自死や麻薬やお酒などで身を崩してしまうのは、この仕組みが原因になっているのでは、と思っております。

それまで積み上げてきた努力や体験が多いほど、目指していた何かを得た時の「満たされ」の刺激も大きくなる。
それが故に、「さらに高みを」「満たされたい」欲求も大きく膨らみ、「満たされてない」苦しみも大きくなりうるのでは。

そうなると、とてもとても、苦しいのでは。
そう、思います。


それを止めるには、「実は満たされている」ということに気付くこと。

実は今の状態でも、十分に「足りている」と「知る」こと。

それが「足るを知る」。

そのように解釈しております。


なんだそれ、単なる逆転の発想じゃないか。

アタマでは、そう感じるかもしれませんが、それを「実感」できるかとなると、簡単ではない。
新たに「もっと」と苦しまずとも、今の状態でも「満たされているなぁ」と幸せに感じられるか。

例えば、電気が無くても、クーラーが無くても、食事も限られていても、「満たされている」と実感できるか。

「スマホが楽しめない」
「涼しい場所がない」
「冷たい飲み物がない」
「無い」はキリなくあげられる。

「スマホみない分、夕焼けの美しさに気がつけた」
「普段、クーラーにどれだけ助けてもらえているのか」
「冷蔵庫って、偉大なモノだな。有り難いな」

これらは、ある種の「感謝」から生まれる感情と、幸せ感なのではと思っております。
オキシトシン分泌による幸せと解釈されつつある現象では、と。

「無い」状況に直面するからこそ、普段なにげなくお世話になっているもの、
無意識だったけどそこにある有り難いものに、意識が向けられて、
「いつも、有難う」「全然、感謝の気持ちも持たずに、「当たり前」ってテキトーに扱っていてゴメンね」
といった、感謝の気持ちが沸き起こる。

これが「足るを知る」で生まれる、満たされた心地よさでは。

「無い」モノあげるのではなく、「ある」コトに目を向ける。
そうすると、無意識に頼っていたコト/モノへの感謝が生まれやすい。

「無い」と不満を感じ、満たされてないと苦しんでいた自分が、
実は十分に満たされているのだと実感でき、感謝に溢れる。

おそらく、ドーパミン分泌による幸せの刺激を求めていた自分が、オキシトシンなのか違うタイプの「幸せの刺激」で、満たされている現象なのではと、勝手に解釈しております。

こういう感じ方がココロに生まれてくると、いかに自分が「有り難い」「当たり前だと勝手に思い込んでいた、当たり前ではないもの」に囲まれているかが、実感してくるのです。

電気はもちろん、ネットも、いま利用しているパソコンも、机も、椅子も、家も、道路も、誰かが汗を流して作ってくれている。

これから今日頂くかもしれない様々な食材も、それぞれの生命を燃やして生き続けていて、縁あって自分の生命につながる「食物」として存在してくれていた。

もしかしたら、今日頂くかもしれない豚肉は、家族や恋人との別れを悲しみながら屠殺されて食肉となった豚さんのものかもしれない。

感情、というものがあるかわからないけど、レタスも豆も、生命であったものを、頂いて、自分の生命に繋げさせてもらっている。

大変に、有り難いものたちばかりじゃないか。

有難う。生きてきてくれて、有難う。
そして、会ったこともない誰かかもだけど、自分の元にこれらの食事や、机やパソコンを届けてくれて、有難う。

そうして、日々の自分の、何気ない「当たり前」に勘違いしがちな日常が生まれている。
有り難い。感謝でしかない。


究極、「呼吸」ができているだけで、とても有り難い、感謝の気持ちが湧いてくるのです。

そうすると、生きている限りは「有り難いなぁ」と満たされるワケです。


バカみたいな話ですが、本当に、そう、感じております。
有り難い限りです。

ということで、ネットも復旧し、ブログを書くくらいの時間、電気に甘えさせて頂き、
少しでも何か皆様にお役にたちうるものになれば、とダラダラと戯言を並べてしまいました。

今日もお付き合い頂き、有難うございました。
みなさまの今日も、おだやかでおもしろき時間に溢れますよう。

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