人生をやり直すキッカケ - 佐々井秀嶺上人について

自分語りなどすべき立場ではありませんが、

このブログが生まれた背景として、佐々井秀嶺氏との出会を少々。

自分は、2022年10月、旅行で訪れたインド・ナグプールにおいて、ご縁があって出会った、佐々井秀嶺上人の生き様に触れた事で、得度をし、人生をやり直す大きな転機を頂き、今に至ります。

それまで、得度前の人生(「前世」と呼ばせて頂いております)では、ひたすらに「成功」といった実態が無いものへとひたすら自分を駆り立て、立ち止まったら負け、死ぬまで前のめりだ、と、「成功」たるものの実態の無さに苦しんでおりました。

いわば、自分が薬物中毒でありながら、その状況を自覚できておらず、中毒の苦しみの解消をさらなる刺激の追求によりハマっていっていたかのような。

時におごり高ぶり、他人を蹴飛ばしても結果を出せばいいかのような錯覚に陥り、決して人様に胸を張って生きられるような人間では無くなっていっていたにも関わらず。

そんな苦しみから、生き方を見直そうと決意し仕事を離れ、でも、その先にどう生きていいか分からず、さまよっていた時に出会ったのが、佐々井上人でした。

佐々井上人は、1935年、岡山県の山奥で生まれ、自身の生き方に散々苦しみ、悩み、日本で仏教僧として得度した後、仏教発祥のインドに単身乗り込み、そこで出会った壮絶な差別や貧困にあえぐ人々に、仏道を示すことを通し、ひたすら人々に寄り添い、力になり55年間を過ごされていらっしゃる。

今でこそ、1.5億人にも広がったと言われるインド仏教徒の最高指導者として政府より任命されるような存在になっている方だが、いまだに、トイレはバケツ一つといった粗末な小さな部屋に暮らし、毎日、ただ求める方の力になるべく、89歳の高齢の身を一切顧みずに、人様のために時間を重ねていらっしゃる。

その結果、佐々井上人の周りでは、かつて治安も教育水準も悪かった地が、道徳心に溢れ教育レベルも高い地に生まれ変わり、とても幸せそうに暮らす人々にあふれている。

ビジネスやテクノロジーなど振りかざさずとも、人々の生き様をここまで善きものに変えていく、このような生き様があるのだ。そう、全身での体験を通して示して頂いた。

そんな佐々井秀嶺上人から、たまたま旅人としてインドに訪れた自分に「お前も得度してボウズになれ」「オレが衣と名前を授けてやる」とのお言葉を頂き、得度をさせて頂き、新たな人生の方向を示していただき、一から人生をやり直すキッカケを頂いた。

何ができるかなどワカラナイものの、ただ、佐々井上人に恩返しをしたい。佐々井上人を見習い、仏門からの学びを通して「人様のお役にたつ生き方をしていこう」、そう決意をした。

これが、2022年10月の出来事でした。

とはいえ、妻も手放せず、資産も完全にゼロにできたワケでもなく、こうしてインターネットの利用も続けており、寺に籠もる生活をしているワケでもないため、インド仏教における「出家」などしておらず、「仏教僧」でも、その「見習い」などという立場ですらございません。

文字通り、何者でもない。

ならば、前世での経験を活かし、俗世でビジネスを通しての方が「より多くの人様のお役に立てる」かもしれない。

もしくは、どこかの寺に入るほうが、より仏門としての学びを得られ、人様のお役にたてるかもしれない。

日本の様々な仏教宗派お寺や、他国の仏教寺院にも参らせて頂き、お話しを伺い、悩み、考えました。

「規模」を求めると、「人様のお役にたつ」本来の目的を忘れ、規模拡大が目的化され、時に人を蹴落としたり、求めてない人に価値の押し付けが生まれうる。そう、前世で経験し苦しんだではないか。

寺といった「立場」を求めると、安定や「組織の中での肩書」に惑わされ、組織や個人の保身が目的化し、同じく「人様のお役に立つ」本来の目的が忘れてしまいうるではないか。そう、前世で経験し苦しんだではないか。

立場や規模などに惑わされず、「人様のお役に立つ生き方」を目指す本来の目的を違わぬよう、ひたすら仏道の教え、生き方からの学びを軸に、佐々井上人や、その他先達の様々な方々からの知恵を学び、自分の生活での実践や体験を通じて、自分なりの「人様のお役に立つ生き方」を精進していこう。

そう考えるにいたり、結論、どこかの寺への所属も考えず、規模も考えず、

「ただご縁が生まれた方に、自分が得た学びからお伝えさせて頂けること、できうることを、ただ精進させて頂く」

という自分なりの生き方をしていこうと、たどり着きました。

前世において「成功」「称賛」といった、定量化できず実態も存在しない、追いかけてもキリないものを目標に据えてしまったことで苦しんだ経験から、「できる限り多く」「より称賛される立場」といった、実態のあるようで実は無い目標も捨てました。

ただ、ご縁があって出会った人に対し、何かしらお役に立ったと感じてもらえる瞬間が生まれればよい。

そして、そういった瞬間が今後もつながるであろう方向に顔を向けてさえいれば、いつ朽ちても、それでよいであろう。

そうして、自分の使命の定義をさせて頂きました。


その考えについて、佐々井上人にもご相談させて頂き「そのままで行け」と仰って頂きました。

そんな背景で、今の自分や、このブログも生まれました。

長くなってしまいましたが、つまるところ、ここでダラダラと戯言を書いているのも、もしかしたらここで呟く内容が、どなたかにとって「役に立つ」かもしれない「ご縁」の一つになれば。

その、可能性が少しでもあるならば、として恥ずかしげもなく晒してみております。

ただ、それだけのことです。

ご覧頂き、有難うございます。

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