生きてる証拠
オーストラリアの山の中で一人っきりの時間を過ごし半月が過ぎました。
ソーシャルメディアだけでなく、インターネット自体から離れるようにして、「龍光ポスト」より頂くご相談や、今後の講演会などの最低限のご連絡に限り他とのコミュニケーションと距離を置いて過ごしてみています。
「なんで?修行なの?バカなの?」
「ネ申」(我が家の唯一絶対神=ヨメ)からは、そのようなお誉めのコトバを頂きますが、ぜんぶ当たってます(ネ申のコトバゆえに)。
様々な苦しみや不満といったものは、「思う通りにならない」から沸き起こるモノ。
「こうあったらいいな」が生まれ続ける限りは、どこかで「思う通りにならない」ことは起こるモノ。
とはいえ、苦しみたくない = 「思う通りならない」事から離れたい。
なら、「こうあったらいいな」という「欲」から全て離れなきゃいけないのか?
でも、そうもいかない。
だって、生きてる限り欲など無くなりはしないモノだから。
空気も吸わなきゃ、すーぐ死んじゃうし、たまに飯も食わなきゃ生きていけないし。
「欲」は生きるエネルギーとしても、成長へのエネルギーとしても大切なモノ。ムリに遠ざけては、「成長する生き方」になりにくい。
じゃあ、どうするか。
自分なりの一つの答えが
「足りなく感じる環境を、たまに持つ」
事です。
「当たり前、と感じているモノたちから離れる時間を、たまに持つ」
と言い換えてもよいかもしれません。
たとえば、夏の四国を限られた荷物とお金で野宿しつつ歩き回る、とか、冬の北海道を素足に雪駄だけで歩く、とか、オーストラリアの山の中で、ネットにも触らずほぼ誰とも合わずに過ごすとか。
そうした体験の中では、冷たい水を飲めるだけでも、温かい場所に身をおけるだけでも、誰かとお話しをできるというだけでも、どれだけ有り難いと感じられることか。
でも、それが当たり前に手に入る環境にいると、その環境に慣れてしまい、それらが実は「有り難い」(有る事が簡単ではなく、難しい事もありうる)事と実感しにくくなる。
でも、「欲」はキリなく膨らみうるモノなので、「もっと」が膨らむと、どこかで「思う通りにならない」事態にぶち当たりがちになる。
そうすると、怒りや不満(「思う通りならない」感情)が生まれる。
常に冷たい水が当たり前に飲めたり、寒い時は温かい思いをできたり、退屈で孤独を感じたら誰かのコミュニケーションを眺めたり加わったり。
それらは、必ずしも「当たり前」にならない時も、生きてりゃ起こるかもしれません。災害、紛争、病気、などなど。
起きた時は「まさか自分が」かもしれませんが、起きてしまったら、イヤでもそういった「足りない」と感じるかもしれない状況で生き延びなきゃいけない。生きてる限りは。
そういうモノでしょうから、時に、あえて少し「足りない」という環境に身を置くと、「あぁ、これらって、当たり前じゃなく、有り難いことなんだよな」と、アタマだけじゃなく、身体で実感し、ついつい「もっと」「手にできて当たり前」とワガママになりがちな自分に「気をつけろよ」と思い出させやすくなる。
そんなカンジです。
わざわざ外部とのコミュニケーションから離れるほど、少し極端な状況に身を置かなくたってよいのかもしれませんが、振れ幅を作る(極端に足りない状況に身を置く)ことで体験による学びも得やすいもの。
ということで、一人自分実験みたいなモノです。
まぁ、つまるところ、ネ申から言わせると
「ようは、ヒマなのね」
はい。仰る通りです(汗。
生きているというのは、退屈なのでしょう。
だから、何か刺激を求めて、ニュースやソーシャルメディアや、ゲームやお酒や、はたまた、ひたすら読書で知識取得かにハマるのでしょう。
目の前の紛争や災害や飢餓から、必死に逃げ惑わなくても良いからこそ、「退屈」が生まれるのでしょう。
ですから、「退屈」と感じられるのは、実は、とても幸せな事なのかもしれません。
このブログを始めたのも、結局「半月以上ヒトとのコミュニケーションを制限して、退屈になったから」なのでしょう。
有り難いことじゃあ、ないですか。
それもこれも、生きてる証拠、なのでしょうかね。
ということで、落書きはこの辺で。
今日もおだやかでおもしろき時間に溢れますよう。