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7月, 2024の投稿を表示しています

「平和」は空気ではない

  「戦争は悪」と、言葉で発することは 平和な環境では、簡単かもしれない。 だけど、目の前で、愛する家族や大切な仲間が暴力を受けたり 生命を奪われそうになっている状況に巻き込まれたとしたら、 相手に暴力をもってでも止めようとせず、 抵抗せずに いることなど、 果たしてできるのだろうか。 周囲の人々が強い信念とエネルギーを持って 「セイギ」を掲げ、「テキ」を倒すべしと声高に叫びながら、 集団で止まらない暴走列車のように走っている中で ひとり、じっと座っていることなど、 果たしてできるのだろうか。 黙って座っていては、自分やその大切な家族まで 引きずり出されて「ナカマ」であったはずの集団に 「テキ」と罵られ叩き 殺されてしまいそうな環境下で。 戦争は、ヒトの集団同士の暴力のぶつかり合いなのだから、 集団のエネルギーの状態が変わらない限りは収まらない。 一度燃え盛り、転がりはじめてしまうと、集団がゆえに、 簡単には軌道修正はおろか、止まることも難しい。 その集団の渦中にいない人間が 安全な場所から「戦争は悪だ」と語ることはできても、 燃え盛りぶつかりあう暴走列車のような集団に対して、一人の声は非力である。 周囲が声を揃えて「やめろ」という強いエネルギー呼びかければ ぶつかり合う集団のなかで、炎も収まっていくかもしれないが、 ヒトの心は様々で、「声を揃える」という行為はなかなか起きにくい。 これまでの貧乏の苦しみにあえいでいた人にとっては、 暴走列車をさらに走らせる燃料を運んでお金を手にする行為は、 貧乏からの解放という、 希望に満ちた輝かしい行為かもしれない。 代々先祖が守ってきた「トチ」を侵されたと感じ、嘆いている人にとっては、 その「トチ」を守ろうとする集団に資金援助する行為は、 祖先への敬愛と感謝に満ちた喜びの行為かもしれない。 それぞれが必死に生き延びようとしている中では それぞれの立場や価値観も異なるのは避けられない。 それがゆえに「声が揃う」ということは難易度が高い。 「その立場や価値観は間違っている」という一方の声の集団は、 「そちらこそが間違っている」という他方の声の集団を大きくし かえって新たな分断と暴力につながることもある。 本来、トチ、ミンゾク、コッカや それを守るメイヨとかホマレといったものは セイギ、タイギや アクマ、テキと同じように あるようで

「ダイジョウブ、息して、生きてますよ」と思い出す

オーストラリアに戻り、早朝の瞑想を行うルーティンの日々です。 先日までの日本滞在中では、深夜バスでの移動や、公園などでの野宿もあり、 ゆっくり座っての瞑想ができる機会は限られておりました。 座って瞑想ができない時でも、 テクテク歩いている最中に瞑想状態を作るようにしておりましたが やはり、座って行う瞑想が、深く自身に入り込みやすいのだなぁと、 だから数千年も、この「座って自身に向き合う」という行為が続いてきたのだろうなぁと、 改めて感じ入っております。 さて、先日までの来日では、 富山での講演で「内観療法」についての本を寄進頂いた方がいらっしゃいました。 直接お礼をお伝えする機会がなく、この場でのお礼となってしまい大変失礼いたしました。 拝読し、大変勉強になると同時に気づきも多いものでした。 有難うございます。 「内観」という言葉自体は、様々な意味があり、一般的な意味で言うと 「内なる自身に向き合い、観察する」行為で、 瞑想においても、自身の体内での様々な感覚や思念を観察する機会が生まれ、 「瞑想でも内観が起きている」とも言えると思います。 ですが、今回頂いた本での「内観」は、より具体的な手法でもって 自身の様々な悩み、自閉症や引きこもりなどの課題、精神的な不調に対する 「療法」として日本で体系化されており、各地にセンターもあり、 西洋医学では見られなかった心身の改善の報告も多々あるものだそうです。 「療法」といっても、とてもシンプルで、1週間泊まり込みで テレビやスマホなど一切ない空間で、ひたすら自身と向かい合う行為です。 その間に、例えば母親、父親、など自身に近い人に対する自身のあり方を 過去から現在に近づきながら振り返っていくという作業を行います。 ポイントとしては、例えば小学校時代の自分が母親に対して 1 : お世話になったこと 2 : してお返ししたこと 3 : 迷惑をかけたこと 3点についてを、具体的な情景を思い出していく、といったものです。 最初はなかなか昔のことなど覚え出せないでいるけれど、 何日か続けていくうちに、過去の自分の誰かに対するわだかまりを思い出し 自身の心をほどくキッカケが生まれる、という心理療法と理解しています。 西洋の心理カウンセリングでも、過去の出来事について思い返していくことで 心のわだかまりを解きほぐすというアプローチはあると

人生とは、想いを紡ぐ「事業」

 昨日、地元である札幌にて 経営者の方々に向けて「真に価値ある事業とは」というテーマでのご講演をさせて頂きました。 実は、最初はお断りしたものでした。 資本の競争から逃げ出し、すでに無職の人間ですので、 事業について語る資格など無いです。という理由で。 ですが、半年ほどのやり取りの中で、幹事の方より 「それでもぜひ」ということでお言葉を頂き 「みなさまの業績に役立つ話にはならず、 人によっては不快感を感じる内容をお話するかもしれない前提でご容赦くださいませ」 とのことで、お受けさせて頂いたものでした。 結果、たくさんの方々にお集まり頂き、お役にたてたかは自信がありませんが 大変有難きことです。有難うございました。 その内容のスライドはまたこちらのブログでアップをと考えておりますが、 ざっと、下記のような趣旨をお話させて頂きました。 歴史をみても、栄えるときもあれば衰退するときがあるもの。 事業も環境の変化のなかで、拡大がずっと続くことなどなく これからの人口減の時代では、むしろ縮んでいくことが多くなるかもしれない。 行う事業の内容も変わっていくかもしれない。 でも、事業の本質は「誰かの何かを満たす」という点では変わらないかもしれない。 そして、様々な事業を起こしたり閉じたりをしながら生きていくという、 我々の「人生」というものこそ、一生を通した"事業"と言えるのでは。 人生でも、浮き沈みも当然有るなかで、 まずは自身やその家族が生き延び、 その上で、自身や周りの人の「心の満たされ」を行っていく。 その時の環境や状況に応じて、その努力を続けていく。 その中で、誰かへの「満たされ」が生まれて、そこに価値を感じてもらえれば 事業でいう「ビジネスパートナー」となり「対価」を頂く相手になることもあれば 人生においての「善き人間関係」になることもある。 そして、何より大切なのは、我々の全ての事業/人生は 過去を生き抜いた先人たちの「生き様」という事業の上に成り立っている。 現在も生きている誰かの「生き様」という事業の上に成り立っている。 このブログも、誰かが電力を作ってくれて、誰かがサーバーを管理してくれているから、行えている。 その電力も、エジソンが発明し、誰かが技術を高め、今の技術に繋がっている。 今日たべるご飯も、誰かが食物を育ててくれているから、頂け

不便利のすすめ - 龍光ブログ

 みなさん「便利」な事は好きですか? さて今日は、「便利」について…。 ネ申(妻)のお犬様は、💩をしたあと 大層ハイテンションになられます。 スッキリ、開放感を感じるからでしょうか。 猛ダッシュで、ネ申の元にご報告にあがるのです。 「ぼく、💩できたよ!!」って。嬉しそうにアピールするのです。 そして、ネ申にも「💩できて、エラいねぇ〜」と褒められます。 我欲を捨てきれてない自分にとっては、 それは有難き、うらやましきことに感じる時もあるのです。 なにせ、ネ申(神)から褒めて頂けるのですから。 浅ましく、精進の足りない自分は、 お犬様にならって ネ申に「💩でたよ!」とご報告申し上げるのです。 …ですが、ガン無視を頂きます。 良くて、細い目でチラリと一瞥を頂くくらいです。 それだけでも、大変に有難きことですが…。 ブッダ先生のおっしゃるとおり 「生きていくというのは、思う通りにならぬことだ」と 日々有り難い学びを頂く次第です。 おや。。。みなさま、なんだか反応が微妙ですが…。 「あのハゲアタマ、いよいよアタマおかしくなったのでは…?」と…? いえいえ、「便利」についてのお話ですよね…。 だって、「便利」はもともと「便の通じ」という意味だったようで…。 💩の通じがすんなりいくほうが善い。 物事が、すんなりいく状態が善い、ので、便利という言葉が生まれたのでしょうか (仏教語であるという意見も含め諸説あり)。 さー て…、気を取り直して…。 時間や労力が少なく、すんなり物事をこなせるの方の"便利"について。 (大変失礼いたしました🙏) この10-20年でも、随分"便利"になりましたね。 💩が出なくなると困るものですが、 「便利」は無くても実は困らないかもしれない。 時に「便利」さから離れた体験は大切かもしれない、というのが このブログの趣旨です。 とくに、不安や悩みを感じる方ほど、個人的にはお勧めしたいのが あえて「便利でない」体験です。 便利さは有り難いですし、否定するツモリはありませんが、 ヒトは実に環境に慣れる生き物のようで 便利さは、あるのが「当たり前」になる。 そうすると、「無いと困る」と"錯覚させる"モノにもなってしまう。 いまや、スマホが無いと、多くの方が困るのではないでしょうか。 たった3