「平和」は空気ではない

 

「戦争は悪」と、言葉で発することは

平和な環境では、簡単かもしれない。

だけど、目の前で、愛する家族や大切な仲間が暴力を受けたり

生命を奪われそうになっている状況に巻き込まれたとしたら、

相手に暴力をもってでも止めようとせず、

抵抗せずにいることなど、果たしてできるのだろうか。


周囲の人々が強い信念とエネルギーを持って

「セイギ」を掲げ、「テキ」を倒すべしと声高に叫びながら、

集団で止まらない暴走列車のように走っている中で

ひとり、じっと座っていることなど、

果たしてできるのだろうか。

黙って座っていては、自分やその大切な家族まで

引きずり出されて「ナカマ」であったはずの集団に

「テキ」と罵られ叩き殺されてしまいそうな環境下で。



戦争は、ヒトの集団同士の暴力のぶつかり合いなのだから、

集団のエネルギーの状態が変わらない限りは収まらない。

一度燃え盛り、転がりはじめてしまうと、集団がゆえに、

簡単には軌道修正はおろか、止まることも難しい。


その集団の渦中にいない人間が

安全な場所から「戦争は悪だ」と語ることはできても、

燃え盛りぶつかりあう暴走列車のような集団に対して、一人の声は非力である。

周囲が声を揃えて「やめろ」という強いエネルギー呼びかければ

ぶつかり合う集団のなかで、炎も収まっていくかもしれないが、

ヒトの心は様々で、「声を揃える」という行為はなかなか起きにくい。


これまでの貧乏の苦しみにあえいでいた人にとっては、

暴走列車をさらに走らせる燃料を運んでお金を手にする行為は、

貧乏からの解放という、希望に満ちた輝かしい行為かもしれない。


代々先祖が守ってきた「トチ」を侵されたと感じ、嘆いている人にとっては、

その「トチ」を守ろうとする集団に資金援助する行為は、

祖先への敬愛と感謝に満ちた喜びの行為かもしれない。


それぞれが必死に生き延びようとしている中では

それぞれの立場や価値観も異なるのは避けられない。

それがゆえに「声が揃う」ということは難易度が高い。

「その立場や価値観は間違っている」という一方の声の集団は、

「そちらこそが間違っている」という他方の声の集団を大きくし

かえって新たな分断と暴力につながることもある。


本来、トチ、ミンゾク、コッカや

それを守るメイヨとかホマレといったものは

セイギ、タイギや

アクマ、テキと同じように

あるようで実体が無い蜃気楼のような「概念」でしかない。

どれだけ、血湧き肉躍るような、エネルギッシュで

整合性や正当性に溢れるように聴こえる"名演説"を行い、

拍手喝采を浴びた所で、

戦場の現場で行われるのは、単なる「ヒト同士の狩り合い」にすぎない。

肉と肉の喰らい合い、殺し合いにすぎない。

そして、戦場での多くの死は

ただ、雨でずぶ濡れになり、泥まみれになり、ケガや病にかかり、

空腹や寒さで、誰もいないような場所で死んでいくように訪れる。

「ユウカンにたちむかったメイヨあるセンシ」などは、

立派に飾られた「ファンタジー」でしかない。


だけど、繰り返し自覚したいのは、この考えだって、

平和で安全な中で教育を受けて育った自分の個人的な価値観でしかないということ。

(仮に「そのとおりだ」「みんなそう感じるべきだ」と想いながら読んでいる方にとっても、
あくまでその方個人の価値観でしかないということ)


自身やその家族が殺められるかもしれない恐怖の渦中にあったり、

その恐怖からの解放から起こる暴力的な衝動でうごめく集団の中で育った立場としては

自身を守るための「テキ」への暴力も

メイヨあるセイギの行為となるのは、

いかんともしがたいものなのかもしれない。


大切な事は、止めがたい集団の「憎しみ」のエネルギーが広がる前に

いかに「連鎖を広げないか」でしかないのでは。

憎しみは憎しみを広げることにしか繋がらないのだから。


個ができることは、小さな個のレベルで、

特に、まだ「集団での炎」が広がる前に

集団での暴走が始まるとどのような結末に至るのか、

戦争が起こると、どのような悲劇が起こるのか、

それを正しく見極めて、語り継いでいくことなのだろう。

繰り返し、大切なことは「安全な平時」にいる時こそ

集団の狂気が起こす恐ろしさを正面から見つめ、学び、

忘れぬよう心に刻むことなのだろう。


ヘイワ、というものも、「概念」でしかない。

だから、ヘイワの渦中にいても、それが「ヘイワ」とは気が付きにくい。

当たり前すぎて忘れてしまう。

でも、それは空気ではない。当たり前の存在ではない。


そういう時こそ、もしかしたら「ミンゾク」や「トチ」も

「テキ」も「セイギ」も、あるようで実体の無いものかもしれない事実を

ありのままに学ぶ事が大切なのではないだろうか。


我を捨てろとか、奪われてもガマンしろとか、

先祖から護られてきた大切な何かをないがしろとか言いたいワケではない。

ただ、もともと、われわれは同じ場所の同じ先祖をもつ生き物でしかないのだからと

確認したいだけ。

同じく、アフリカ大陸からきたホモ・サピエンスとも言えるだろうし、

同じく、地球という星から生まれた生き物とも言えるだろうし。


そして、誰もが、当たり前に「死」という、ただ呼吸が止まり代謝が止まるという

自然の現象を迎える、「同じ立場」の存在でしかない事実を

ありのままに学ぶ事が大切なのではないだろうか。


「死」は、体験したことがないゆえに、恐ろしく特別な出来事に感じるだけで、

それは、あらゆる生き物がそうであるように、ただ、動きが止まる、

というだけのことかもしれない。


でも、不安だからこそ、その「死」の時は、大切なひとたちの近くにいたいもの。

自分を想ってくれているひとたちの側にいたいもの。

誰もいないような、寒く、雪が降る泥まみれの荒野で、

だれも癒やしてくれない傷の痛みに苦しみ続けながら、ひとり死んでいくよりも、

ひたすら蒸し暑く、蚊のかゆさや、虫や枝からの傷まみれのなか、

食べるものもなく、空腹と病に苦しみながら、ひとり死んでいくよりも。


誰だって、自分は大切で、我が家族や仲間は大切に思うもの。

自分や家族が暴力を振るわれたり、苦しい思いをするのは、避けたいもの。

そして、できれば、おだやかに、誰かに囲まれて死を迎えたいもの。

だって、恐ろしいことは、避けたいものだから。


でも、「暴力を避けたい」想いが集団となると、自身が受けたくない暴力も、

「テキ」から身を守るための「セイギ」へとすり替わり、

その「セイギ」の概念が集団に浸透していくほど、

集団としての炎が大きくなり、膨らんで、戦争に繋がっていく。

一度、その暴走が始まると、新たな苦しみを作り、さらなる暴走を起こしていく。

そして、肉を喰らい合う、殺し合う、悲しい負の連鎖が生まれていく。


集団が火の玉のように転がりはじめてしまっては、

個人が抗うことは、とても困難だから、

抗うには、自身の安全や生命だけではなく、

その大切な家族の安全や生命をも危険に晒す可能性になるから、

だからこそ、平時な時こそ、

ヘイワを当たり前の空気にせずに、

「それがあることの有難さ」を学ぶべく、

戦争の悲惨さ、その実態に正しく向き合うのが大切なのだろう。

それを、小さな個々がおこなっていくことが

未来のヘイワにつながっていくと信じて。


友人より紹介頂いた

第二次世界大戦での敗戦後、

タイやミャンマーに残った日本人の方々を描いたドキュメンタリー映画

ドキュメンタリー映画「花と兵隊」

を拝見して、改めて、自戒とともに。

そして、国家や名誉を信じ、

あるいはそれに悩み

あるいはそれを憎しみながらも、

必死に誰かを想い、

生き抜き、去っていった

数多の先人たちに敬意と感謝を込めて。



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