不便利のすすめ - 龍光ブログ

 みなさん「便利」な事は好きですか?


さて今日は、「便利」について…。


ネ申(妻)のお犬様は、💩をしたあと

大層ハイテンションになられます。

スッキリ、開放感を感じるからでしょうか。

猛ダッシュで、ネ申の元にご報告にあがるのです。

「ぼく、💩できたよ!!」って。嬉しそうにアピールするのです。

そして、ネ申にも「💩できて、エラいねぇ〜」と褒められます。

我欲を捨てきれてない自分にとっては、

それは有難き、うらやましきことに感じる時もあるのです。

なにせ、ネ申(神)から褒めて頂けるのですから。

浅ましく、精進の足りない自分は、

お犬様にならって

ネ申に「💩でたよ!」とご報告申し上げるのです。

…ですが、ガン無視を頂きます。

良くて、細い目でチラリと一瞥を頂くくらいです。

それだけでも、大変に有難きことですが…。


ブッダ先生のおっしゃるとおり

「生きていくというのは、思う通りにならぬことだ」と

日々有り難い学びを頂く次第です。


おや。。。みなさま、なんだか反応が微妙ですが…。


「あのハゲアタマ、いよいよアタマおかしくなったのでは…?」と…?

いえいえ、「便利」についてのお話ですよね…。

だって、「便利」はもともと「便の通じ」という意味だったようで…。

💩の通じがすんなりいくほうが善い。

物事が、すんなりいく状態が善い、ので、便利という言葉が生まれたのでしょうか
(仏教語であるという意見も含め諸説あり)。



さーて…、気を取り直して…。

時間や労力が少なく、すんなり物事をこなせるの方の"便利"について。
(大変失礼いたしました🙏)


この10-20年でも、随分"便利"になりましたね。

💩が出なくなると困るものですが、

「便利」は無くても実は困らないかもしれない。

時に「便利」さから離れた体験は大切かもしれない、というのが

このブログの趣旨です。

とくに、不安や悩みを感じる方ほど、個人的にはお勧めしたいのが

あえて「便利でない」体験です。



便利さは有り難いですし、否定するツモリはありませんが、

ヒトは実に環境に慣れる生き物のようで

便利さは、あるのが「当たり前」になる。

そうすると、「無いと困る」と"錯覚させる"モノにもなってしまう。


いまや、スマホが無いと、多くの方が困るのではないでしょうか。

たった30年前は、携帯電話すら無いのが日常でしたが、

それでも、日常では、そこまで「無いと困る」感覚は無かったと思います。


たしかに、知らない場所で歩く時は、看板の地図や、地図帳がないと

人に道を聞くなどしないと目的地にたどり着きにくかったのですが、

その当時は「他にどうしようもない」ワケで…。

今では当たり前な「ネットで道を調べられる」という選択肢が、

その当時には存在しなかった(想像にすらなかった)から、

当時は、そこまで「困る」感覚は起きなかったのだと思います。


「選択肢が他にもある」という認識によって、

「それが選べない」ことが「困る」と感じさせるだけであって、

「目的地にたどり着く」という点では、別になんとでもなるかもしれない。

つまり、スマホで目的地を目指すのが当たり前の現代でも

別にスマホが使えなくても、本来の目的達成のためには困らないかもしれない。


考えてみると、便利さ、というのは、

新たな選択肢を与えてくれているとも言えると思います。

目的地へ行くのに

地図帳をみたり人に道を聞いたり探しながら行く選択だけから、

スマホに従うだけでたどり着く選択も新たに増えた、というように。


さて、新たな選択肢を与えてくれるという便利なモノ、の代表格としては、

今や当たり前になりすぎて実感は無いかもしれませんが

「お金」の存在だと、感じております。


「お金」は、様々な物事と交換が可能です。

とっても便利で、選択肢を広げてくれる。

行きたい時に、そこへ行く。

読みたい時に、好きな本を買う。

などなど、お金があると、様々な選択肢を手に入れられます。


そんなお金は「足りない」と不安にさせる代表格かもしれません。

でも結局は、今手に入るお金で選べる選択を取るしかないのが、実態です。

そんな時、

お金が無く、その選択肢が「手に入らない」という心持ちだと

満たされない感覚が生まれるかもしれませんが、

お金が無い前提を受け入れる心持ちが生まれると

不思議と不便さも感じなくなるのです。

だって、「無いものは無い」。

余計な選択肢が無いのですから(笑)。

30年前に道で迷ったら、人に聞くか頑張って目的地を探すかしか方法が無かったように、

「他にどうしようもない」。


ですが、お金にまつわる悩みは多いのが実情です。

「足りるのだろうか」「やっていけるのだろうか」などなど。

「老後、医療費とかに必要だろうから…」

「子供の教育に必要だから…」

など…。

でも、これらは、すべて、「将来の選択肢」のお話ではないでしょうか。

その選択肢は、具体的に、いま見えているわけではない。


「あるほうが嬉しい」かもしれないけれど、

具体的に見えてない、あるか無いかもわからない選択肢について

「足りないかもしれない」と感じているだけかもしれない。

だって、冷静に考えれば、将来の選択肢は無限に起こり得るものだから。

現時点でそれを考えても「もっとあるほうがいいのでは…」という不足感は

どこまでも収まらない。

結局は、いざ、その選択が必要な状況が生まれてはじめて、

その時点でとれる選択肢の中で「どうにかするしかない」のが現状ではないでしょうか。


もし山で、地図もなく、電波もなく、道に迷ってしまったら、

「どうにかして乗り切るしか無い」ですよね。

ほかに選択肢が、無いのですから。

そこで「電波が入れば…」「スマホのバッテリーを持ってきていれば…」

と悩んでも、その時に「無いものはない」ので、どうしようもない。


選択肢は多いにこしたことはない、とは言いますが、

どれだけ選択肢が多くても、

人生で実際に辿れる選択は常に一つしかない。

選択肢が多いほど、悩ましさも生まれるし、

時に「あっちにしておけばよかったのでは」という後悔にも繋がりうる。

そして、選択肢が多いほうがいいと言っても、

まだ起きてない「将来の可能性」はいくらでもリストアップできるから、

そのための準備(お金や能力など)は、考えても「どこまでも足りなく感じさせる」。

それは、常に「足りないのでは」「やっていけるのか」という不安に繋がりうる。


でも、現実の人生は、時に思いがけず現れる状況のなかで、

"いまこの瞬間"で取りうる限られた選択肢の中で選ぶ積み重ねでは。

その時に、「もっとお金があれば…、能力があれば…、他の選択肢があるかもしれない…」

と考えても、「今自分に取り得る」選択肢のなかでしか選べないのが実態なワケです。

「もっとお金があれば…」という仮定は、

30年前に地図なき道で「鳥になって空から見れる能力があれば…」と願うようなものかもしれません。

今、空を飛べないんだったら、地を這って、目的地をなんとか目指すしか無い。


それでも起きる「足りないかも…」という不安や、

「足りてない…」「不便だ…」という苦しみや不満は、

「選択肢があるハズのに、手に入らない」と"感じる"から起こる感覚なのでしょう。

ですが、今ここにない物事にいくら意識を注いでも、今ここにはないので

どうしようもありません。


ある程度予測をたてて準備はできますが、常に不測の事態は起こりますし

選択肢をあげてもキリはありません。

どこまでいっても、未来は未だ来て無くて、今ここにはありません。

どこかで「迷わず行けよ、行けば分かるさ」の覚悟が必要なのです。

今は分かりようがありませんので。

「アレがあればできるのに」の「ソレ」も、

今ここに無いのなら、今あるものでなんとかするしかありません。

過去も過ぎ去り、あの時こうしていれば…と考えても、それは今ここにはありません。

健康も、今の身体からしか生まれません。悩み多ければ、かえって心身悪くします。

結局は、今あるなかでなんとかする「覚悟」や「勇気」がどこかで必要なのです。


じゃあ、どうするか?

自分のオススメは

あえて「不便利な体験」です。

とてもは有効ではと感じております。


悩み、という「心」に関わることは、アタマでいろいろ学んでも、

このようなハゲアタマのブログをいくら読んでも、

高額な情報商材を買っても、それだけではなかなか解決してくれません。

「覚悟」や「勇気」を育てるのも、心の問題です。

心は、体験/実践がなければ育ちようがない、と考えています。


筋肉も、知能も、体験の蓄積で育っていきます。

心も、同様だと思っています。

一時的な知識や「納得感」では、育たない。

いくらYouTubeで動画を見ても、訓練を重ねなければ筋肉は育たないように。

心や筋肉の成長に、ショートカット可能な「便利な方法」など無いのだと思います。


じゃあ、なぜ「不便利な体験」が有効なのか。


便利な時代になって、

より簡便に物事をできる選択肢が増えた時代では、

「選択肢が無い中で、なんとかする」体験が減っているとも言えるのでは。

わざわざ火を起こして料理しなくても、ご飯を手にする選択肢はたくさんありますし、

わざわざ地面に水まいて風の通り道を作らなくても、涼しさを手にする選択肢もあります。


便利なのが悪いわけではないのですが、便利な世の中で

「なんとかする」という能力が弱くなってきているかもしれません。

いまや、思い出せない漢字も、分からない事も、ご飯を用意してくれるのも、

行き先へたどり着くのも、AIやスマホが全部こなしてくれます。

最近は、恋人までスマホが探してくれて、口説き方まで教えてくれるようですね。


それが良いとか悪いとかを話したいのではなく、

「便利なことが当たり前」になると、「なんとかしてもらう」ことに慣れて

いざ、「自分でなんとかしなくてはならない」時に、力を発揮できないのでは、

という事です。

そして、「なんとかしてもらう」ことが「当たり前」まで慣れてしまうと、

その選択肢が手に入りにくい時(お金が足りない、電波が入らない、スマホだけでは解決してくれないなど)、

なんで、なんとかしてくれないのか、という不満にも繋がりかねません。


「お金さえあればなんとかなるのに、お金が足りないかも」、と不安になるのは、

最終、どこかで「自分んでなんとかしなくてはならない」覚悟に向き合おうとせず

「お金があればできるのに」と、お金に甘えているのかもしれません。

そこでお金があれば解決できたとしても、それは「(便利なお金に)甘やかされている」だけで、

いずれ、お金でもどうしようもならない、病や老いや死などに向き合う必要が出てくる。

それらは、スマホでは(今のところ)回避しきれない。


人は、簡単に慣れて、忘れる。体験を通して思い出さないと、

「あるのが当たり前」の意識で満たされて、それが無いとすぐに

不満や不安の対象として意識を埋めていく。

そして「なんとかしてくれる何かがある」と甘えがちになる。

その甘えに満たされすぎると

その「なんとかしてくれそうな何か」(カネや能力や運や健康など)が

「足りるのか」気になり、不安になる。

具体的にどのような状態になった時に

何がどう足りるのか足りないのか、は、その時にならないと見えない。

そこへ行かないと分からない。


だからこそ、時に「今ここにある中でどうにかするしかない」体験は

覚悟を固めたり、勇気を出したり、自ら考え、取り組む心やアタマを育てる機会となる。

便利にあふれ、実は様々な事に支えられている事実を思い出させてくれる。

自分でなんとかするしかない事もあるのだと思い出させてくれる。

体験しないと、心も脳も身体も育たないのだから、

体験を重ねる努力をしていく。


そうしないと、便利さが広がる中で、

それらへの依存が強まっていることにすら気が付かず

時に起こる「自らでなんとかする」心の耐性も弱くなるかもしれません。


あえて便利じゃない体験は、日常でたくさん可能です。

移動に徒歩をいれたり、エスカレーターの代りに階段を使ったり、

限られたお金で生活してみたり、ご飯を減らしてみたり、

スマホから離れる時間を作ってみたり。

非日常でも、キャンプやハイキングなども良いかもしれません。

ちょっとの「努力」が必要な体験というとカジュアルかもしれません。


💩出す時だって、ちょっと踏ん張るものじゃないですか。

便利って言ったって、多少の努力は必要なのですから。


ということで、無駄に蛇足や横道に入る内容のブログとなってしまいましたが、

時に不便利(な体験)のすすめ、でした。


お付き合いくださり、有難うございます。


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