人生とは、想いを紡ぐ「事業」

 昨日、地元である札幌にて

経営者の方々に向けて「真に価値ある事業とは」というテーマでのご講演をさせて頂きました。


実は、最初はお断りしたものでした。

資本の競争から逃げ出し、すでに無職の人間ですので、

事業について語る資格など無いです。という理由で。


ですが、半年ほどのやり取りの中で、幹事の方より

「それでもぜひ」ということでお言葉を頂き

「みなさまの業績に役立つ話にはならず、

人によっては不快感を感じる内容をお話するかもしれない前提でご容赦くださいませ」

とのことで、お受けさせて頂いたものでした。


結果、たくさんの方々にお集まり頂き、お役にたてたかは自信がありませんが

大変有難きことです。有難うございました。


その内容のスライドはまたこちらのブログでアップをと考えておりますが、

ざっと、下記のような趣旨をお話させて頂きました。


歴史をみても、栄えるときもあれば衰退するときがあるもの。

事業も環境の変化のなかで、拡大がずっと続くことなどなく

これからの人口減の時代では、むしろ縮んでいくことが多くなるかもしれない。

行う事業の内容も変わっていくかもしれない。

でも、事業の本質は「誰かの何かを満たす」という点では変わらないかもしれない。

そして、様々な事業を起こしたり閉じたりをしながら生きていくという、

我々の「人生」というものこそ、一生を通した"事業"と言えるのでは。


人生でも、浮き沈みも当然有るなかで、

まずは自身やその家族が生き延び、

その上で、自身や周りの人の「心の満たされ」を行っていく。

その時の環境や状況に応じて、その努力を続けていく。

その中で、誰かへの「満たされ」が生まれて、そこに価値を感じてもらえれば

事業でいう「ビジネスパートナー」となり「対価」を頂く相手になることもあれば

人生においての「善き人間関係」になることもある。


そして、何より大切なのは、我々の全ての事業/人生は

過去を生き抜いた先人たちの「生き様」という事業の上に成り立っている。

現在も生きている誰かの「生き様」という事業の上に成り立っている。

このブログも、誰かが電力を作ってくれて、誰かがサーバーを管理してくれているから、行えている。

その電力も、エジソンが発明し、誰かが技術を高め、今の技術に繋がっている。

今日たべるご飯も、誰かが食物を育ててくれているから、頂けている。
(もっというと、食物となるべく生き抜いてくれた動植物の生き様があるから、頂けている)


つまり、事業をしていれば、もしくは、ただ生きていれば、

すでに我々は、たくさんの誰かからの「満たされ」に支えられている。

それらは、たくさんの「生き様」や「想い」の上に成り立っている、とも言えるのでは。


「家族の安全と平和」を願って、戦争で生命を落とした方の想いもあれば

「ただ、今日生き抜くため」と、困窮のなか畑を耕し続けた過去の飢饉の時代の農家さんの想いもあれば

「このご飯が誰かの笑顔につながるといいな」、という現代の農家さんの想いもあれば

「この仕事で稼いで、なんとか一旗あげてやる」というサーバー管理者さんの想いもあれば、

「年老いた親のために、少しでも支えになれば」という電力会社の現場の方の想いもあれば…。


我々の人生は、そんな様々な「想い」を知らず知らずに受け取り、

それらを元に、新たな活動や事業を行えており、

その結果がまた、知らないところで誰かの支えとなって…。

そのように、「想い」を循環させている、とも言えるのでは。


生きているだけでも、様々な「想い」に支えられているのが現実な以上、

自分だけが「満たされ」を求めた事業や生き様は、長続きはしにくく

摩擦にも出逢いやすいかもしれない。

だから、誰かの何か「満たし」になる行為をするのは、

なんら特別な事でもなく、むしろ当たり前かもしれない。

誰かを思いやり、やさしさを向けることは、

「すでに受けすぎている誰かからの恩を、少しでも返し

巡らせていく」ことでもあるかもしれない。


そして、誰かへの「満たされ」をするほどに、時に自分の知らない誰かにも価値をもたらし、

自身にも回り回って「満たされ」をもたらす行為につながるかもしれない。

さらに、誰かへのささやかな「満たされ」への行為も、自身の人生が閉じたあとも、未来の誰かの心に生き続ける「想い」と、知らぬところで紡がれていくかもしれない。

「会ったことはないけれど、ひいじいちゃんが頑張って生き抜いたから、我が家があるんだよな。有難う」

とか

「何気ないご飯も、農業技術や物流や冷蔵技術や、様々な人たちの努力の上にあるのだよなぁ。当時がんばってくれていた人たち、有り難いななぁ」

とか。


自分の生き様や、おこなう事業がもたらす、誰かへの「満たされ」が

「有り難い」と価値が認められ、広く認められた結果が

事業の「業績」や「規模」としてつながるもので、

規模や業績を「数字ありき」で求めると、時に軋轢や不自然さが生じうるかもしれない。


自身が、ほどよく物心を満たし生き延びられ、周囲もほどよく物心を満たせる行為があれば

それだけで十分価値のある事業であり生き様といえるのでは。


そんなお話でした。

また、機会があれば、スライドとして共有させてくださいませ。


ということで、今日も、さりげない誰かへの何かを満たす

やさしさ、や思いやりは、思わぬ未来への大切な土台になるかもしれません。

という気持ちで、今日も参りたいと思います。

今日も、お付き合い頂き、有り難うございました。







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