「ダイジョウブ、息して、生きてますよ」と思い出す

オーストラリアに戻り、早朝の瞑想を行うルーティンの日々です。

先日までの日本滞在中では、深夜バスでの移動や、公園などでの野宿もあり、

ゆっくり座っての瞑想ができる機会は限られておりました。

座って瞑想ができない時でも、

テクテク歩いている最中に瞑想状態を作るようにしておりましたが

やはり、座って行う瞑想が、深く自身に入り込みやすいのだなぁと、

だから数千年も、この「座って自身に向き合う」という行為が続いてきたのだろうなぁと、

改めて感じ入っております。


さて、先日までの来日では、

富山での講演で「内観療法」についての本を寄進頂いた方がいらっしゃいました。

直接お礼をお伝えする機会がなく、この場でのお礼となってしまい大変失礼いたしました。

拝読し、大変勉強になると同時に気づきも多いものでした。

有難うございます。


「内観」という言葉自体は、様々な意味があり、一般的な意味で言うと

「内なる自身に向き合い、観察する」行為で、

瞑想においても、自身の体内での様々な感覚や思念を観察する機会が生まれ、

「瞑想でも内観が起きている」とも言えると思います。


ですが、今回頂いた本での「内観」は、より具体的な手法でもって

自身の様々な悩み、自閉症や引きこもりなどの課題、精神的な不調に対する

「療法」として日本で体系化されており、各地にセンターもあり、

西洋医学では見られなかった心身の改善の報告も多々あるものだそうです。


「療法」といっても、とてもシンプルで、1週間泊まり込みで

テレビやスマホなど一切ない空間で、ひたすら自身と向かい合う行為です。

その間に、例えば母親、父親、など自身に近い人に対する自身のあり方を

過去から現在に近づきながら振り返っていくという作業を行います。

ポイントとしては、例えば小学校時代の自分が母親に対して

1 : お世話になったこと

2 : してお返ししたこと

3 : 迷惑をかけたこと

3点についてを、具体的な情景を思い出していく、といったものです。


最初はなかなか昔のことなど覚え出せないでいるけれど、

何日か続けていくうちに、過去の自分の誰かに対するわだかまりを思い出し

自身の心をほどくキッカケが生まれる、という心理療法と理解しています。


西洋の心理カウンセリングでも、過去の出来事について思い返していくことで

心のわだかまりを解きほぐすというアプローチはあると理解していますが、

この「内観療法」では、自身でひたすら自身の過去を思い出す中で、

自発的に自己を見つめる、という点が特徴だと感じております。

また「お世話になった時に、自分はどういう対応をしたのか、それは相手にとってはどのように感じる行為だったのか」

という点に集中させることも特徴的に感じました。


僕自身は、この「内観療法」プログラムを実際に行った事が無いので

あくまで本で読んだ情報としての薄っぺらなご紹介でしかありませんが、

ご興味ある方は、独自に調べてみてくださいませ。


そして、この本を通しての学びで大きかったことは、

多くのご相談や苦しみの根っこにあるのは

自身の中に「赦せてない自分」がいることに気がつけてない、

ということではないかと感じた事です。


下記の解釈は、心理学や心理療法などを体系だって学んだことの無い自分による、

あくまで、シロウトの感覚のお話としてお流しくださいませ。


多くの人にとって、過去にこのような体験があったのではないでしょうか。

過去、何かを望んだけれど「してもらえなかった」と感じた(解釈した)。

そして、悔しさや悲しさを感じた。

うまく「悲しい」「悔しい」など言語化できないけれど、

とにかくなんだか胸が苦しくなった。

それがイヤで、苦しみから逃れたくって、

まわりの大切な人(たとえば親など)に

ひどいことを言ったりしたりしてしまったり。


そんな体験は、覚えてないだけでおそらく、たっくさんあったのでしょう。

だって、ただおギャアおギャア喚いて、

散々困らせた時代が必ずあったのでしょうから。

もちろん、本人には、その自覚が芽生える前の時代だったり、

そもそも記憶になど(意識の中では)のこって無い時代の体験として。

当時は、腹が減っていたり、おしっこがしたかったり、なんだか不安だったり

そもそも、それらの「現象を自分で言語化して理解できてない不安」だったり

様々な理由があったのでしょうが、平たく言うと

「思い通りにならない」からぎゃあぎゃあ騒いだ。喚いた。


最初は、空腹や、下腹部の違和感(💩で気持ちわるいとか)でぎゃあぎゃあ言っていたのが

そのうち、「誰もどうにも(あやしたりなだめたり)して救ってくれない」という

新たな「思う通りにならない」苦しみや不満や怒りが生まれて、

それに対して、さらにぎゃあぎゃあ喚く体験もしてきたのでしょう。


「誰もすくってくれない」という事実が許せなくて、だからこそ、親や周りの人に

ぎゃあぎゃあ喚いて「自分、納得いってないし!!」と

なんとか不満や怒りをアピールしようとしたときも

恐らく、たくさんあったのでしょう。(当人はそう自覚してなくても)

自分も、そう、わめきまくっていたのだと思います。

かーちゃん、ゴメンよ、あらためて、有難うね。

あ、でも、貧乏だった家庭から、

少しは経済的に恵まれた生活ができる息子が生まれたと喜んでくれたのに

最近も50歳近くにもなって、勝手に無職のハゲアタマになんかなって、

いまでもまたやらかしちゃって、ゴメンよ🙏。


…そんな体験は恐らくみんなあったのではと思うのですが、

そんな時、多くのケースにおいては、

何かしら「あやしてなだめようとしてくれる存在」が

あったのではと思います。


自分の親があやしてくれた時もあれば、

もしかしたら、ただ外の空の雲の様子がそうさせてくれたかもしれず、

誰かが近くに置いてくれた、お人形さんや、おもちゃだったりかもしれず、

もしくは、ペットや外で鳴く虫や鳥の音だったりしたかもしれません。

もしかしたら、単に泣き疲れたことで生じた「眠気」や、ただ流れた時間が、

満たされないと感じる不満の心を癒やしてくれていたのかもしれません。

そんな風に、結果的に、我々を癒やしてくれたものに、

我々は囲まれて、今にいたるまで育ってきているのかもしれません。


物心がついてからも、

過去の「ぎゃあぎゃあ喚けば、なんとかなった」経験も、

そうとは言語化はできてないながらも、記憶として脳に刻まれていたでしょうから、

おそらく「(わめけば構ってくれる)」「泣けば言う通りにしてくれる」など

自覚があったかなかったかも分からぬレベルで「意図的に」ぎゃあぎゃあ言った時もあったのでしょう。

そんな時(覚えておらずのあくまで妄想ですが)、

常に「あやしなだめてくれる何か」を

無意識に求める自分もいたのではないかと思います。

そして、あやめたりなだめようとしてくれる「誰か」が近づいてくれても、

何かどこか「思い通り出ない」(服の着ずれとか、ささいなことで)ことで

ぎゃあぎゃあわめき続けたり、

「この人は自分をあやそうとしてくれている」と、なんとなく感じながらも、

でも収まらない内蔵(胸や腹)のモヤモヤ不快感があることで

ぎゃあぎゃあ喚くのをやめなかったりもしたのでしょう。


そこでは、「迷惑をかけている」「あやしてくれようとしているのに、収められない自分」

という、言語化された自覚はないものの、

「お世話になっているのに、それに素直に答えられてない自分」

という、なんともいえぬ「もうしわけなさ」の感覚もあったのではと思うのです。


何か自分に善き事をしてくれようとしている誰かがいて、

それに感謝を感じるのは、本能としてもっている感情だと思います。

ですが、それをうまく形にできず、泣きわめく形で応えてしまっている自分がある。

その状態が、また納得いかなく「思い通りでない」ので、モヤモヤしてしまう。

こういった体験は、多かれ少なかれ、誰もがもっているのではないかと。


そんな体験の積み重なりの中で、どこかに

「なんで素直に喜びを表現できなかったのだろう」「有難うと言えなかったのだろう」という

自分自身に対する「赦せなさ」が、自分への自信喪失を起こし、

その後の人生において、引っ込み思案にさせたり、

時に引きこもりに繋がったり、もしくは

自身の感情をうまくコントロールできず

他人に怒りをすぐにぶつけてしまう性質に繋がったり、

様々な「こころのコントロール」の苦手意識を生んでいるのでは…。


繰り返しですが、自分は専門家でもありませんし、シロウトの感覚のお話です。

ですが、これまで様々なお悩みに向き合う日々を頂く中で、

共通して見えてくるのが

「自分への自信の持ちきれなさ」で

その根っこには

「自分という存在に対する、自らのダメ出し」

つまり

「どこか、なにか赦せない自分」がいるという状態なのです。


冒頭でご紹介した「内観」の療法では、

これを「迷惑をかけたこと」を思い出すプロセスで

「(無意識のどこかで)赦せないと感じていた自分の原因となる体験」を自覚させ

「ワガママいって迷惑かけてゴメンね」という感情が沸き起こる過程で

「自らの過去の行為に、自ら赦しをあたえる」結果を生み、

心のわだかまりがほぐれていく結果となる。

そんな風に育っていった「療法」なのではと勝手ながら感じております。


心を解きほぐす方法には、様々なアプローチがあると思うのですが、

個人的には、まずは何より、自分自身を

「ヨシヨシとハグして、『大丈夫だよ。だって頑張ってきているじゃない』と、いい聞かせてあげる」

ことが重要なのではと感じております。

過去の課題を思い出して反省することで、心がほぐれる事もありますが、

まずは自分を赦してあげて、大丈夫だよと言ってあげることで

自らの自信をもつ事が大切なのではと思うのです。


だって、誰しも、どこか不安は尽きないものなのですから。

いつどのように死ぬのか分からないけれど、確実に来るであろう死という物への怯えなど。

でも、大丈夫。いま、息をして、心臓も動いていて、空気も吐いて、吸えて

生きているじゃない。

それだけでも、スゴいことじゃないですか。

そして、今に至る過程では、さんざんぎゃあぎゃあ泣きわめく数年間には

誰かしら何かしら、自分をあやしてなだめてくれる人や物や出来事に囲まれて

育ってこれたのだと思います。

もしかしたら、それらの人や物や出来事は、自分のためだけに存在していたワケじゃあなかったかもしれませんが、

でも結果的に、ひとまずは今も生きていられるまでに、育つ事ができている。

それは、とても有り難い恩にあふれているということでもあるのでは、と思うのです。


当たり前すぎて忘れてしまいますが、

我々は常に自然の草木に呼吸で支えられ、

日々口に運ぶ「かつて一生懸命生きていた生命であった」食物に支えられ、

誰かが作り今も生み出してくれている電気に支えられ、

そして、どこかに自分のことを心配したり想いをよせてくれているかもしれない人に支えられ…。

気が付かないだけで、常に我々は、様々な恩に溢れて今まで生きてこられており

今この瞬間も様々な恩に溢れて生きていられている。

それが、現実なのでは、と思うのです。

ただ、その事実に、頭だけではなく、身体で感じることだけでも

自分の心に勇気が沸き起こり、自信も少しずつ沸き起こってくるものではないだろうか。

そう感じております。

少なくとも、いまこのブログを読んで頂いている方には、

まだお会いしたことはありませんが、自分なりに一生懸命、想いを念にして

お送りさせて頂いているつもりです。

読んで頂き、有難うございます。

そして、もし少し不安や自信がなくっても

「大丈夫ですよ」と勝手ながらお伝えさせてくださいませ。

と。そんな風に念を込めながら。


瞑想や内観というと、なにやら特殊で難しく、

人によっては「アヤシイ」と感じるものかもしれませんが、

ただ、自分がたくさんの恩に支えられて生きてきたこと

今も、たくさんの支えによって生きていることを自覚する。

実は、ただ呼吸をできて生きているだけでも

多いに満たされている。

それを、めいっぱい、息を吐いて、吸って「体感する」。

時に、歩いて、風や暑さを感じて「体感する」。(暑い時は散歩はほどほどに!)

すれ違う人に、笑顔で会釈して、互いに支え合って生きている存在であることを「体感する」。

それだけでも、心はエネルギーを湧き起こすものなのではと思っております。

体感している自分を、実感する。

それが「内観」とか「瞑想」とかラベルをつけられた行為なのかもしれません。

生きている、という事実をただ感じる。

ダイジョウブ、自分、息して、いま生きている。という喜びを感じる。

そんな風に、今日もたのしくおだやかな気持ちでまいりたく思います。

これを読んで頂く方がいらっしゃるのが、自分にとっての大きな「支え」です。

いつも、みなさま、有難うございます。






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