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我々ヒトはどこへ向かおうとしているのか - ホモ・デウスを読んで

"知の巨人"ユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた世界的なベストセラー「サピエンス全史」。 そこでは、ただの動物種の一種である私たちヒトが、 どこから来たのか、を描いてました。 そして、同氏が「そのヒトは、どこへ向かおうとしているのか」を描いたのが 「ホモ・デウス」という本です。 この本はすでに数年前にベストセラーとなった本です。 つい昨日、氏の最新作"Nexus"が発刊されたばかりでもあり、「いまさら」の本かもしれません。 実は、この本は、前世(2020年前半)に途中まで読みかけていました。 でも、冒頭でストップしていました。 そして、今回、改めて最後まで読んだうえで感じたことをまとめたのが、このブログです。 なぜ、いまさら改めて読み直し、感じたことをまとめてシェアしようと思ったのか。 それは、この本の内容は、なぜ自分が前世で苦しんでいたのか、 そして、今のような姿になる決断をするにつながるに至ったのか、 という伏線とも言える内容が含まれていたからです。 もしかしたら、当時、この本を冒頭だけ読んで、投げ出してしまった理由も、 この本の内容に理由があったのかもしれません。 というのも、この本では、資本市場の拡大による"さらなる繁栄"や、 科学技術の発展による"より快適な未来"をがもたらしうる将来の脅威について、 警鐘を鳴らしているのです。 それは、当時の自分が、言語化はできないながら、勝手に違和感を感じ苦しんでいた事柄です。 当時の自分は、「成長や発展」という耳聞こえのよいキーワードに酔いしれ、 それを求め続けることに、言葉にならぬ違和感を感じつつも、 でもそこから離れられずに「規模拡大による成長こそ正義」と囚われ苦しんでいた。 まさに「拡大と成長を求めた先のリスク」を見事に言語化したこの本は、 当時の自分には、読み続けるのがいたたまれなくなったのでは。 それほど、経済と技術の発展や個人至上主義の追求に対する警告とも言える内容に溢れた本でした。 さて、ながーい前置きはともかく、本の要約を試みていきます。 そして、それは、要約と呼べるレベルでなく、とても長くなっています(汗。 もはや、自分のための読書メモとなっています。 その内容も、世界の天才と言える氏の思想をうまく読み込みきれてないがゆえに、

他者を認めることは負けなどではない

 ヒトは脳を通して世界を見て解釈する以上 自分の脳の解釈を超えることはできない。 なので、常に「自分の見立てこそが正しい」と感じるし、思いたい。 そして、違う意見に対しては心を閉ざしがちになる。 だって、自分には「そう感じる」のだから。 違う感覚は、「そうは感じられない」以上、認め難いものだから。 でも、信号の色が「青」という人もいれば「緑」というヒトもいるし 築き上げてきた秩序を保つ事こそが大事という人もいれば、破壊して改革を目指すことが大事という人もいる。 人は、それぞれタイプも違うし、物事の"感じ方"だってそれぞれ違って当たり前なもの。 猫は自由気ままでツンデレだからこそ可愛がられることもあるが、 仮に犬のようにシッポを振って忠誠を示す猫ばかりだと、 暑苦しく感じられて、かわいがってもらえないことだってあるだろう。 誰もが自分が大切だし、 自分が感じてきた経験で自分が「信じられる」ものが育てられていくのだから、 自分の「信じる考え」だって大切なハズ。 だから、自分の信じる考えを否定されるのは恐ろしいし、 「自分にはそう感じる」感覚を信じたいから、違う考えを否定したくなる。 自分に対する批判があると「相手は分かってない」「相手が間違っている」と思いたい。 でも、繰り返しだけれど、それは「自分の脳の解釈の範囲」の"感覚"でしかない。 「犬のほうがカワイイ」と"感じる"人に、「猫のほうがカワイイに決まっている」と自身の"感覚"を主張しても きのこの山 vs たけのこの里紛争のように、それぞれ「感覚」の世界なので 共有しきれる訳はなく、そもそも議論にならない(国家間だとこれが戦争にもつながるのでしょうが)。 でも、実は、自分の考えに固執するほど、自分自身がイヤな思いに苦しみやすい、 というのが、世の常ではないでしょうか。 だって、自分が「絶対こうだ!」と強く信じる物事ほど、 周りにも理解してもらえないと、ツラく苦しくなるものだから。 そして、自分の考えは「正しい」と主張するほど、違う感覚の他人との摩擦も増えて、 他人にもイヤな思いをさせて、結果的に周りとの人間関係も傷つけやすくなる。 それは、ブーメランのように、自分にイヤな思いを起こさせることにつながる。 なので「自分が正しい」と固執し続

資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれない - 龍光ブログ

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  サピエンス全史で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新著書"Nexus"が もうすぐ発刊されるに伴い、ふと 氏の「ホモデウス」を読んだのに、サピエンス全史と違って内容を覚えてないぞ…。 途中までしか読まずで終わったのだっけ…。 と、昔かったKindle(電子書籍)を引っ張り出して読んでみてます。 ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来 ビックリしたのですが、 めっちゃマーカーを引いた跡がある。たしかに、自分は読んでいる。 しかも購入したのは2020年3月。前世を終える間際。 でも、その内容たるや、まったく記憶に留まっておらず 今あらためて読んでいて、新鮮な感動とともに読み直している自分がいる。 「ホントに、このマーカー引いたの自分なのだろうか?」と疑いたくなるくらいに。 そして、下記の部分を読んで これを「分かったつもり」になっていながら、分かってなどなかったから 当時、さんざん苦しんで、結果、縁あって得度に至ったのだろうと なんだか感慨深く読み返しました。。。 つまるところ 「資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれるわけではない。」 ブッダの教えとともに、めっちゃ書いているじゃないですか…。 「ホモデウス」より抜粋 --------------  ブッダのこの幸福観は、生化学的な見方との共通点が多い。 快感は湧き起こったときと同様にたちまち消えてしまうし、人々は実際に快感を経験することなくそれを渇望しているかぎり、満足しないままになるという点に関して、両者の意見は一致している。 ところが、この問題には二つのまったく異なる解決策がある。 生化学的な解決策は、快感の果てしない流れを人間に提供し、けっして快感が途絶えることのないようにできる製品や治療法を開発するというものだ。 一方、ブッダが推奨するのは、快感への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにするというものだった。 ブッダによれば、私たちは心を鍛錬し、あらゆる感覚が絶えず湧き起こっては消えていく様子を注意深く観察できるようになれるという。 自分の感覚の正体、すなわち儚く無意味な気の迷いであることを心が見て取れるようになったとき、私たちはそのような感覚を追い求めることへの関心を失う。 湧き起こるそばから消えていくものを追い求めることに、何の意味があるというの