資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれない - 龍光ブログ

 

サピエンス全史で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新著書"Nexus"が

もうすぐ発刊されるに伴い、ふと

氏の「ホモデウス」を読んだのに、サピエンス全史と違って内容を覚えてないぞ…。

途中までしか読まずで終わったのだっけ…。

と、昔かったKindle(電子書籍)を引っ張り出して読んでみてます。



ビックリしたのですが、

めっちゃマーカーを引いた跡がある。たしかに、自分は読んでいる。

しかも購入したのは2020年3月。前世を終える間際。

でも、その内容たるや、まったく記憶に留まっておらず

今あらためて読んでいて、新鮮な感動とともに読み直している自分がいる。

「ホントに、このマーカー引いたの自分なのだろうか?」と疑いたくなるくらいに。

そして、下記の部分を読んで

これを「分かったつもり」になっていながら、分かってなどなかったから

当時、さんざん苦しんで、結果、縁あって得度に至ったのだろうと

なんだか感慨深く読み返しました。。。

つまるところ

「資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれるわけではない。」

ブッダの教えとともに、めっちゃ書いているじゃないですか…。


「ホモデウス」より抜粋
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 ブッダのこの幸福観は、生化学的な見方との共通点が多い。

快感は湧き起こったときと同様にたちまち消えてしまうし、人々は実際に快感を経験することなくそれを渇望しているかぎり、満足しないままになるという点に関して、両者の意見は一致している。

ところが、この問題には二つのまったく異なる解決策がある。

生化学的な解決策は、快感の果てしない流れを人間に提供し、けっして快感が途絶えることのないようにできる製品や治療法を開発するというものだ。

一方、ブッダが推奨するのは、快感への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにするというものだった。

ブッダによれば、私たちは心を鍛錬し、あらゆる感覚が絶えず湧き起こっては消えていく様子を注意深く観察できるようになれるという。

自分の感覚の正体、すなわち儚く無意味な気の迷いであることを心が見て取れるようになったとき、私たちはそのような感覚を追い求めることへの関心を失う。

湧き起こるそばから消えていくものを追い求めることに、何の意味があるというのか? 

 今のところ、人類は生化学的な解決策のほうにはるかに大きな関心を抱いている。

ヒマラヤの洞窟の中の僧侶や浮世離れした哲学者が何と言おうと、資本主義という巨人にとって、幸福は快楽であり、そこに議論の余地はない。

一年過ぎるごとに、私たちは不快感への耐性が下がり、快感への渇望が募っていく。

科学研究と経済活動の両方が、その目的に向けられ、毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より快適なマットレス、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生み出され、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまないで済むようになる。 

 もちろん、これほど手を打っても、およそ十分とは言えない。

進化は、絶え間ない快楽を経験するようにはホモ・サピエンスを適応させなかったので、それでも人類がそうした快楽を望んだら、アイスクリームやスマートフォンのゲームでは間に合わない。

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byユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」


いかがでしょうか。


この本では、ブッダのあと200年後のギリシャ哲学者の

エピクロスによるこんな言葉にも触れてます。

「エピクロスは幸福を至高の善と定義したとき、幸福になるには骨が折れると弟子たちに警告した。

物質的な成果だけでは、私たちの満足は長続きしない。

それどころか、お金や名声や快楽をやみくもに追い求めても、惨めになるだけだ。

エピクロスは、たとえば飲食はほどほどにし、性欲を抑えることを推奨している。

長い目で見れば、深い友情のほうが熱狂的な乱痴気騒ぎよりも、大きな満足を与えてくれる。

エピクロスは、幸福へと続く危険な道を行く人々を導くために、

するべきこと、するべからざることをまとめた倫理体系をまるごと一つ略述している。」

byユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」


ここも前世の自分は、マーカーを引いていました(汗。

この内容とほぼ同じ事はエピクロスの数十年先輩のアリストテレスも語っていて

今は講演で僕もよく引用する部分です。

そうだなぁ、と実感するがゆえです。

でも、その知識は最近得たもので、過去に読んでマーカーを引いた

ホモデウスの本にこんな内容があったのは、全く覚えてなかった…。

恥ずかしいほどに。


前世では、なんとなくそうだよなぁと想いつつ、資本主義のうねりの中で

「でも、きっとまだ満たしてくれるハズの何かがこの闘いの先にある」と求め、

まだ資本市場での"成功"を掴みたいと苦しみつつ悩んでいたから、

アタマで分かったつもりになっていただけで、身体に染み込んでいなかったのでしょうか。

だから、この本を読んだあとも、苦しみ続けたのかもしれません。

それは、アタマで理解したような気持ちになっていただけで、身体で理解できてなかったのでしょうか。


今も、相変わらずこの本の中身など、分かってないのでしょう。

もしかしたら数年経って、この本の内容をまた忘れているのかもしれません。


たくさんの本を読むことよりも、善き本を何度も読むことの大切さは

様々に語られていますが、改めて、その学びを実践せねばと感じています。


「分かったつもり」になると、分かってない事がある事実すらも見えなくなり

謙虚さもうしない、知識ばかりで(身体に染み込んで実践できてないのに)

人様に語ろうとする人間となる。

それこそが、「誰かより知識をもっている」という優越感での

刹那的な快楽を求める行為でしかない。

それは、すぐに消え去るものでしかないのに。


実践してはじめて「分かっている」状態になれるのであろう。

実践が伴わなかったら、知識がアタマに入っていても、それは

Googleのサーバーに保管されている情報がアタマにもコピーされているくらいのもの。

知識を元に口は動くかもしれないが手は動かない。言うは易しで行動が伴わない。

そんな人間になってしまうではないか。

そのヒトの生き様にとって反映されたものとはなってなければ、

学びではなく、ただの情報で終わってしまう。機械に任せればよい仕事かもしれない。


改めて、本や動画など、あらゆる「学び」は、アタマに記憶することではなく

生き様に反映されてこそ価値があるのだと痛感をいたします。

本来の学校教育も、そういうものであるのが望ましいのでしょう。

勉強をする、というプロセスによる「忍耐づくり」や「記憶力を鍛える」の実践は価値こそあれ

知識の内容そのものの意義は薄いものが多いかもしれません。


そして、何より「知識を得る」行為こそも、刹那的な快楽でもあり

それは永遠に続くものではなく、それだけでの幸福は生まれないかもしれない。


それよりも、ブッダやアリストテレスやエピクロスが説くように、

他者との深い繋がりを育てていくことのほうが長い幸福につながるかもしれない。

そうなれるだけの実践を日々積んでいくことのほうが、知識を得続けることよりも大切かもしれない。


そんなお恥ずかしい発見と反省を込めて、小さき体験のシェアをさせて頂きました。

今日もお付き合いくださり、有難うございます。


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