「自分の〜」という不確かな概念

※あくまでシロートの解釈の内容としてご笑覧ください※


 初期の仏教経典を読むほどに

当時の時代(約2500年前)には

「所有」という概念に、現代の概念とは違う曖昧さを感じます。


ブッダの時代は約2500年程前で、貨幣というものが普及し始めた時代だったようです。

たとえば、土地の所有という概念も、今のようなしっかりと区画が仕切られていて

そこに侵入するだけで咎められるようなしっかりしたモノではなかった様子です。


まだ貨幣経済の始まりの段階だったので、貨幣の代替物として得た、

土地やモノといったものへの「所有」の概念も違うものだったのでしょうか。

とはいえ、貨幣の普及とともに、「自分の〜」という概念も

一般の方々にも膨らんでいった時代でもあったのでしょう。


だからこそ、ブッダは、あらゆる「自分の〜」といった物事は

実体のない概念にすぎないから「気を付けて」と説いたのかもしれません。


なぜなら、「自分の所有」という概念は

実体がない、脳内での設定にすぎない。

自分や、周囲の人たちと、共通認識の上で「XはAさんの持ち物」という概念にすぎない。

そこに、言葉も話しも通じないゾウやトラが来て、Xをかっさらっても、

どうしようもない。

洪水でXが流されても、どうしようもない。

でも、その「自分の〜」という概念は脳内で膨らみつづけ

それは自分をも悩まし、他人ともトラブルになりがちなものだから。

だから「自分の〜」という概念の不確かさに気がついていなさいと

ブッダは説いたのかもしれません。


「自分の〜」という概念が不確か、というのはどういう事でしょうか。

なかなか、イメージがつかないかもしれませんので、ちょっと見ていきましょう。


たとえば、スマホ、のようにリアルな物体としての所有物。

いままさに手に持っているモノ(スマホなど)であれば

「持っている」という動作として表現はできるけれど

それを「所有している」と表現すると、どうだろう。

「いや、自分で買ったスマホだし、自分の持ち物でしょ」というのが

現代の考えだけれど、それは、貨幣(お金)で持って「所有権」を手にした状態なだけ

とも言える。つまり「権利」を持っているだけで、

そのスマホは泥棒に持っていかれたら、所有してない状態となる。
(所有権は主張し続けられるけれど)

もともと、スマホを構成しているすべての物質は、地球のどこかにあった

誰にものでもなかったものかもしれない。

海に落としてしまったら、所有してない状態となるし、訴える相手すらいない。

ただ、元あった場所(地球)に戻るだけ。



自分の土地はどうだろう。

それは「自分の〜」と思っていても、

とつぜん隣人に攻め込まれて、「力による現状変更」

によって、事実上、所有を失う、なんてことは国境線では今も過去もよくあること。

もしくは水没や土砂崩れなどで、土地の形状が変わることだってある。


権利上は「自分の〜」かもしれないれども、

他のヒトの実質的なコントロール下にあって

自分では手が出せなくなっているなんてケースもある。

会社の株式のケースや、離婚した相手との間に生まれた子供の「親権」とか。

なんなら「国民」が所有しているはずの「主権」とか。


お金だって、どうだろう。

たった数十年前も、預金封鎖など、「自分の口座」に入っているハズの「自分のお金」が

自由に動かせなくなったりなど、自分が絶対的に支配できている対象ではない。

もともとは、すべての貨幣は

国(政府や日本銀行)が製造したモノなわけだから、実質は

所有している貨幣も国次第でどうにでもコントロールされうる。


自分の家族はどうだろう。

子供は血が繋がっているし、遺伝子だって大半は分け与えている。

でも「血の繋がり」ってなんだろう。とっても概念的なもの。

実際に物理的に子供に渡せたものは、精子か卵子の1細胞分(とその中の遺伝情報)しかなく、

その後のすべての子供の肉体は、子供が自ら摂取するものでできている。

その子の血液だって、ほとんどは、その子が食べて飲んだものからできている。

遺伝情報だって、自分とは既に違うわけで、

なんなら、赤の他人と共有している遺伝子の数のほうが圧倒的に多いだろう。


自分の肉体や生命だって、どうだろう。

これも、なんら所有などできてないのでは。

自身の身体の中で、知らないところで変化が起きているかもしれないし

それが自身の生命(寿命)に影響していても、どうこうできるものではないかもしれない。

「自分はいついつに人生を終えるんだ」と強い意思を持っていても

その前に不慮の事故などで人生が終わることだってある。


自分の時間ですら、あやうい概念かもしれない。

自分の感じる1時間も、自分の精神状態によって変わるもの。

あれ、もう1時間経っていた、という時もあれば、

まだ10分も経ってないのかと感じる時だってある。

スカイツリーの上にいるヒトから見ると、

地上のヒトの時間は遅く流れるわけですし。


などなど…。


考えてみると、「所有している」というモノは何一つ、確かなものなどなく

現時点においては、自分がどうこうできる対象であるだけ、であって

周囲の人たちとの認識のズレや、自然界の前では、全く意味を失うもの。


とにかく「自分の〜」という概念は、ブッダさんが言ったかどうかはさておき

確かに、不確かな概念かもしれない。


にも関わらず、我々は、「自分の〜」という概念に囚われがちになる。

何一つ、自分の意識で支配下においたり、思う通りになり続けるものなど

なんら無いかもしれないのに。


その囚われから離れられれば、実に楽になる。

「なんだ、そういうことでしかないよね。たしかに、自分のモノなんてのは

自分の脳内の設定でしかないものね」と。


それは、モノやヒトとの繋がりや、社会における権利をないがしろにしてよいということではなく

それは、絶対に自分に確保された、「自分だけのだ!」と奢り誇れる対象などではなく、

人間社会の合意のうえでたまたま今は成り立っていたり、

自然界の調和のうえでたまたま今は成り立っている

"かりそめ"のものでしかない。

そう、謙虚に気がつくことが大切なのでは。


でも、今この瞬間、自分が五感で感じるものごと、

体内で感じる鼓動や血の流れ、

誰かを想う気持ち、

これらは、確かに「今ここ」に感じられるもの。

それを「所有している」かどうかなど関係がなく。


自分の大切なモノ、ひと、時間、健康、生命など

たしかに大切ではあるけれど、

どこまでいっても、自分がどうこうしきれるものではないのだから

できるのは、今ここで感じられる物事に、

今ここで心をよせられる誰かに向き合い

その物事、人に心を傾けて過ごす。

そうしていれば、少なくとも「心ここにあらず」な時間ではなく

自分がしっかりと今と繋がれている時間を重ねていけるのかもしれません。


そんな戯言でした。

今日もお付き合いくださり、有難うございます。





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