頼れるものは自分しかない

 

ブッダの(本来の)教えは結構残酷です。

「頼れるのは、自分しかない。他を頼るな。」

というものです。

※その後仏教の発展や時代背景の変化とともに「他力本願」という考えも生まれてますが、オリジナルのブッダの教えは「自分を頼れ」です。
実は「他力本願」も、それを"心から信じて念じてこそ救われる"という「自身の努力」が土台にあるという点では実は「自分を頼れ」と共通の要素が含まれていると勝手ながら理解しています。


さらには、自分のことすら「どうにもならない」ことがあるものだ、と。

だから、何故、自分以外の他人のことをどうにかできると思うのか、と。

そんなスタンスの教えです。

自分の子供や伴侶であっても、それは自分ではないのだから、思う通りになるハズがないではないか、と。


だって、自分の肉体だって、実は知らぬところで病気になってしまっていたり

自分の感情だって、思う通りにならないときだってあるのだから。

だから、ひたすら精進(努力)が必要だよね。

といった考え、と理解しています。


「ひたすら自分で頑張れ」といった考えは、

「精神論」的なものに聞こえるものかもしれません。

でも、「精神論」って悪い事なのでしょうか。


何か困難にぶつかったときに「気合と精神で乗り越えろ」といった「精神論」は、時代的に流行らないとされてます。

たしかに、これまで精神を鍛える努力をしてこなかった人に「気合と精神で乗り越えろ」というのは

これまで筋トレをしたこともない人に、重たいバーベルを持ち上げろというくらい、無茶なことでしょう。

ですが、だからといって、心(精神)を鍛えなくてもよい、とは思わないのです。

心(精神)だって、身体と同様に、日常から鍛えてないと、いざという時に困るものではないでしょうか、と思うのです。


たとえば、身体は、日常から鍛えてなければ、変化の多い気候の中で生き抜くのは大変なワケです。

それと同じく、心(精神)だって、日常から鍛える機会がなければ、難しい出来事にぶつかった時に、向き合うのは大変なワケです。


「精神論」が問題視されるのは、

人それぞれ、これまでの精神的な鍛錬レベルや、そもそもの耐性が異なるにもかかわらず、

同様のレベルで「精神的耐性を発揮せよ!」

「気合い(精神)があれば乗り切れる」と要求することが問題なワケであって

一方で、「心(精神)が鍛えられていれば、難しい事にもチャレンジはしやすくなる」もので

だからこそ、精神的な鍛錬もときに必要なのでは、と思うのです。


でも、そんな考えは時代遅れ、と言われるのは何故なのでしょう。

それは、テクノロジーが発達して「苦労をしなくても乗り越えられる物事」が増えているからかもしれません。

だから、「気合で乗り切る = 肉体的/精神的な苦労をする」なんて「流行らない」という声が増えているのではないでしょうか。

せっかく頼れるなら、文明の利器に頼ればイイじゃないかと。


確かに、気候が変化しやすくても、エアコンがあれば乗り越えやすい。

長い距離を移動するのも、いまや様々な便利な文明の利器に頼れば、自身の肉体も心も楽に移動ができる。

退職だとか離婚だとか、向き合うのに精神的に苦しい事柄だって、

(お金さえあれば)「退職代行」とか弁護士に頼めば、自分は苦しい事に向き合わずに乗り越えやすくなる。

いまや、食事を確保するのも、告白するのも、別れるのだって、スマホの上で指を動かすだけでもできてしまう。

そんなふうに、文明が発展したおかげで、自分の肉体的/精神的な努力を割かなくても

できることが実に増えている。

出産だって無痛分娩が増えており、なんなら人生を閉じるのだって一部の国では安楽死ができる。

生まれることから、死ぬことまで、「苦しまずに」済ませたいのは人情だろうし

それも、(お金と環境さえ手に入れば)可能な時代になっていくのでしょう。

そういったイミでは、たしかに「日常から肉体や心(精神)を鍛えて〜」という発想も

「時代遅れ」に聞こえる事かもしれません。


けれど、どれだけテクノロジーが発展しても(今のところ多くの人には)

老化も、病気も、死も、避けることはできません。

自分だけではなく、大切な人の老化も病気も死も、避けては通れません。


ときには、地震、津波、洪水、噴火など、

人類のテクノロジーの発展なども軽々と飲み込むような自然災害に

出くわす事だってあるかもしれません。


その過程では、肉体的な負荷も感じるでしょうし、

その状態は精神的にもストレスはかかるものでしょう。

どこまでいっても、やはり、肉体的/精神的な苦しみを乗り越えることが求められる機会は

避けがたいものかもしれません。


だから、「日常から身体を鍛える努力」は、やっておいて、損はないのではと思うのです。

心(精神)だって、筋肉と同じく、負荷をかける機会がないと、育ちにくいものなのですから。

「精神論は流行らない」といったって、

どこかで心(精神)がどん底に落ちてしまうような苦しみに出会うことは

生きていれば起こらないとも限らないのですから。


肉体や精神を鍛えるのは、どこまでいっても、自分が頑張るしかない。

そして、それは、突然は鍛えられるものではなく

日々の地味な努力の上にしか成り立たない。


それは、他人に頼るわけにも行かず、文明の力に頼れるワケでもないのでは。

全身に電気を通すベルトを日常からつけたり、

肉体改造手術をしたり、向精神薬的なものを飲んでも、

突然スーパーマンになれるワケではないように。


結局は「頼れるのは、自分しかない。他を頼るな」ということなのでは。

仏教では、苦行(苦しみを感じるまでの行為)は否定されていますが、

修行とか精進(努力)といった言葉は重視されています。


つまりは、日常でも、ほどよい(苦しまない程度の)努力の機会を重ねなさいね、

ということなのでは、と理解しています。

エスカレーターがあっても、階段を使ってみるとか、

一駅歩いてみたりとか、そんな事でも肉体的にも精神的にも少しの鍛錬にはなるでしょう。

ついつい、もう一口おやつを食べたくなっても、

「我慢しなきゃね」とか

動画を見すぎてしまっているなぁと感じたら

「この辺で終わりにしなきゃね」

という行為も、小さき心(精神)の鍛錬にもなるでしょう。


そういった事柄を日々重ねることが、実は自分を鍛え、

避けがたい困難にも潰されにくくなり

様々な事柄にも勇気をもって前向きに取り組めるような生き方を支えていくのでは。

そんな風に感じております。


と、自分も、日々、ささやかな事柄でも流されそうになるたびに

よく気をつけて、自分を見つめて、少しの負荷をかかる選択をするように

精進を続けていきたいと思います。




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