たかが「あいさつ」されど「挨拶」

 

当たり前すぎて忘れがちですが

どれだけ能力やお金や権力や名声を手に入れても

誰かの支えなくては生きていくだけでも難しいのがヒトの実態だと思います。

大きな屋敷を所有し、お金もうなるほど持っていても

スーパーに食品が出回らなかったら(いまのコメのように)、

もしくは農家さんが高齢化でどんどん減っていってしまったら、

はたまた外交問題で海外からの食品の輸入が細ってしまったら、

食べるものを入手するのが難しくなるかもしれない。

(日本でも、たった80年ほど前にそれが起きてました)


お金や健康に余裕がなければ、なおさら、

生きていくのに、まわりの支えが必要になる。

ときには少し食物をわけてもらう事も必要かもしれないし、

心身がおぼつかない時は、食物を買いにでかけることすら

自分だけでは難しくなり、誰かの支えが必要なときもある。

そんな時は、余裕もないから、ついイライラして、

周りにあたりたくもなるかもしれません。


でも、どれだけ、政治や、経済や、家族や、まわりにケチをつけても

結局は、まわりや、

顔の見えない誰かに支えてもらって生きているのが実態なのだと思うのです。


生きていれば、「思う通りにならない」不満は沸き起こってくるのは

避けがたいことかもしれません。特に余裕を感じなければ、なおさらです。

それは、能力やお金のある無し関係なく、睡魔や空腹感のように

「どうやっても勝手に沸き起こってくる感覚」なのだと思います。


そんな「思う通りでない」モヤモヤが起きたとき、

その不快感を周りの誰かにぶつけても、自分の不快感は消えてくれないどころか、

周りとの関係は冷めていく一方。


だって、誰だって、ケチをつけたり、イライラしていそうな人とは

あまり一緒にいたくないし、何かを支えてあげようと思いにくいものだから。

「なんで自分にイライラぶつけるのさ」と、逆に反感を買ってしまう。


「思う通りにならない」と感じているのは自分でしかないのだし、

背景としては「こうあってほしい」という自分の希望や期待から起きている感覚のハズ。

じゃあ、まずは自分がどうすれば「こうあってほしい」姿に近づけるのだろう。


周りに「こうしてほしい」ではなく、自分が「どうありたいか」を見つめてみるのはどうだろう。

だって、周りの他人は、自分ではどうにもならないことが多いのだから。

自分がまずできる確かなことは、自分に関わることなのだから。


とはいえ、自分には、なにか特別な才能などないかもしれないし、

何ができるかなんて自信がないし、何からスタートすればいいかも分からない。

そんな風に苦しむこともあるかもしれません。


そんなときに皆様に勝手ながらお勧めしているのが

早起き、散歩、挨拶、掃除です。

※詳しくは 苦しみから離れるために、誰でもできる日々のオススメ by 龍光 - 日常で役立つやさしいブッダの教え にて


今日は、そのひとつ「あいさつ」にフォーカスさせてくださいませ。

なぜなら、「あいさつ」こそは、

まわりからの「支え」を手にしていくために、とっても助けになるものだと思うからです。


「おはようございます」「有難うございます」

元気なあいさつを聞くと、気持ちがよいものではないでしょうか。

誰かからニッコリ顔をむけられて「ありがとうございます」と言ってもらう状況をイメージしてみてください。

なんだか、ちょっとホッコリしませんでしょうか。

これは、人間が進化の過程で手にした能力で、脳科学的にはミラー・ニューロンとも呼ばれる脳の機能だと理解していますが、

ヒトは、嬉しそうな表情を見ると、自分の中にも嬉しそうな気持ちが勝手に沸き起こるもの、だそうです。


「あいさつ」は、ただ言葉を発する行為ではなく、

相手にエネルギーを届ける行為でもあると思うのです。

ニッコリ元気に「おはようございます」と言われたら、その相手からなんだか

ホッコリするエネルギーをもらう、みたいな。


「あいさつ」を漢字で書く「挨拶」。

"挨"は、「ひらく」、"拶"は「近づく、すりよる」といった意味があるそうです。

つまり「あいさつ」は、自分の心を開き、

そこから発する相手への想いやエネルギーを注いでいく。

そんなイメージとも言えるかもしれません。


自分には、そんな想いを注いでくれる人もいないし、想いを注ぎたい人なんていない。

そんな方もいらっしゃるかもしれません。


でも、思い出してください。

今日食べるすべての食事も、いま使っている電気も、

どこかで誰かが頑張ってくれて存在しているものです。

誰かの「支え」をすでに頂いているとも言えるわけです。

誰かからの「頑張り」のエネルギーを、形を変えて注いでもらっているとも言えるわけです。

コンビニでおにぎりを受け取るときだって、

そのおにぎりのお米を作ってくれた農家さんや、商品としてパッケージしてくれた工場の方や、

早朝からおにぎりをコンビニまで運んできてくれた配達の方や、

コンビニの棚に商品を並べて、レジを対応してくれた店員さんや

さまざまな人の「支え」をもらっているとも言えるわけです。


ならば、少し勇気をもって「有難うございます」とあいさつしてみるのはどうだろう。

バスに乗る時だって、運転手さんに「おはようございます」と言ってみるのはどうだろうか。

バスを降りる時に(子供たちはちゃんと言う子が多いですが)、運転席にむかって

「ありがとうございました」と言ってみるのはどうだろうか。

工事現場で道の誘導をしている方に「有難うございます」と言ってみるのはどうだろうか。

交番前で暑いなか立って町の治安を支えてくれているお巡りさんに「有難うございます」と言ってみるのはどうだろうか。


あいさつ、は、不思議なもので、相手にエネルギーを伝えるだけでなく

あいさつをする側にも、不思議とエネルギーを湧き起こしていくものだと感じています。

「あぁ、自分も誰かに、エネルギーを手渡せることができる人間なんだ」

という、ささやかな自信や喜びを湧き起こすものだからではないかと感じています。

あいさつ、をするだけで、誰かの心をひらいて、エネルギーを手渡せる。

つまり、誰かを「支える」役割をもつ人間になれる。

そう、考えております。


お金がなくても、能力に限りはあっても、あいさつは、努力で良くしていけます。

声が出ない方であれば、ニッコリの笑顔を会釈だけでもいいかもしれません。

最初は目を見て挨拶できなくても、訓練すれば、相手の目をみた挨拶も慣れていきます。

慣れれば、徐々に口角をあげて、ニッコリスマイルもうまくなっていきます。

そうして、気持ちのよいあいさつができるほどに、

気が付かぬうちに、周りの人たちから「気持ちがいい人だなぁ」と感じてもらえる機会も生まれ

結果的に、自分にも気持ちのよい挨拶や、ときに何かを助けてもらったり

支えてもらったりすることも増えていく。

そんなものではないでしょうか。


すれ違うさりげない人とのふれあいの機会でも、あいさつを通して、

誰かにエネルギーを注ぎ、何かの支えになれたり、

逆に誰かから、支えてもらえる実感が生まれていくと、

まわりにも、感謝の気持ちが生まれてくるものと思います。

そうすると、少し前までは、「思う通りでない」とイライラして見えていた

世間や周囲の物事にたいしても、「とはいえ、支えてもらっているものもあるのだし」と

感謝も生まれ、あまり「思う通でない」とモヤモヤする機会も減っていくものではないかと

勝手ながら考えております。

そして、周りとの人間関係も、より濃く、温かいものになっていけのでは、とも考えております。


そんなふうに、あいさつは、大きなチカラを持っていると思います。

繰り返しですが、息をして飯を頂いて生きているだけでも、

自然界、他の生き物、他の人たちに、大いなる支えを頂いて、

エネルギー(生命)を分けてもらっているのですから。

たかが、あいさつ、されど挨拶。

こちらも、エネルギーを届けることができるのですから、

少しは頂いた分だけでも、巡らせてみる。

たったあいさつだけでも、世の中の見え方や

自分の心の感じ方も変わっていくもの。

そう感じています。

今日もお付き合いくださり、有難うございました。


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