我々ヒトはどこへ向かおうとしているのか - ホモ・デウスを読んで


"知の巨人"ユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた世界的なベストセラー「サピエンス全史」。

そこでは、ただの動物種の一種である私たちヒトが、

どこから来たのか、を描いてました。


そして、同氏が「そのヒトは、どこへ向かおうとしているのか」を描いたのが

「ホモ・デウス」という本です。

この本はすでに数年前にベストセラーとなった本です。

つい昨日、氏の最新作"Nexus"が発刊されたばかりでもあり、「いまさら」の本かもしれません。


実は、この本は、前世(2020年前半)に途中まで読みかけていました。

でも、冒頭でストップしていました。

そして、今回、改めて最後まで読んだうえで感じたことをまとめたのが、このブログです。


なぜ、いまさら改めて読み直し、感じたことをまとめてシェアしようと思ったのか。

それは、この本の内容は、なぜ自分が前世で苦しんでいたのか、

そして、今のような姿になる決断をするにつながるに至ったのか、

という伏線とも言える内容が含まれていたからです。

もしかしたら、当時、この本を冒頭だけ読んで、投げ出してしまった理由も、

この本の内容に理由があったのかもしれません。

というのも、この本では、資本市場の拡大による"さらなる繁栄"や、

科学技術の発展による"より快適な未来"をがもたらしうる将来の脅威について、

警鐘を鳴らしているのです。

それは、当時の自分が、言語化はできないながら、勝手に違和感を感じ苦しんでいた事柄です。

当時の自分は、「成長や発展」という耳聞こえのよいキーワードに酔いしれ、

それを求め続けることに、言葉にならぬ違和感を感じつつも、

でもそこから離れられずに「規模拡大による成長こそ正義」と囚われ苦しんでいた。

まさに「拡大と成長を求めた先のリスク」を見事に言語化したこの本は、

当時の自分には、読み続けるのがいたたまれなくなったのでは。

それほど、経済と技術の発展や個人至上主義の追求に対する警告とも言える内容に溢れた本でした。


さて、ながーい前置きはともかく、本の要約を試みていきます。

そして、それは、要約と呼べるレベルでなく、とても長くなっています(汗。

もはや、自分のための読書メモとなっています。

その内容も、世界の天才と言える氏の思想をうまく読み込みきれてないがゆえに、当ブログの要約も、飲み込みにくいものになっているかもしれません。

努力はしましたが、自分の能力の範囲ということでご容赦ください。

では、下記、自分なりのユヴァル・ノア・ハラリ氏著「ホモ・デウス」の要約(?)です


※基本的には、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の本の中の主張をそのまま引用を中心に、自分の解釈は斜線フォントにて述べることで分けるようにしております。


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■飢餓、疫病、戦争といった、大いなる課題を乗り越えつつある我々ヒト

人類は、これまでずっと飢饉と疫病と戦争に晒されてきており、

これらが人類にとっての重要な「やることリスト」であった。

これらの課題に対処するため、人類は幾世代ともなく、ありとあらゆる神などに祈り、無数の道具や組織や社会制度を考案してきた。

ところが、三〇〇〇年紀(西暦二〇〇一年〜三〇〇〇年)の夜明けでは、人類は気がつけば、飢饉と疫病と戦争を首尾よく抑えつつある。

もちろんこの三つの問題は、すっかり解決されたわけではなく、派手なしくじりも相変わらず見られるが、今やそうした失敗に直面しても、神に頼るのではなく、人間が自身で対処できると信じるようになった。

実際、今日、食物が足りなくて死ぬ人の数よりも、食べ過ぎで死ぬ人の数が史上初めて上回っている。

感染症の死者数よりも、老衰による死者数のほうが多い。

兵士やテロリストや犯罪者に殺害される人をすべて合わせても、自ら生命を絶つ人がそれを数で凌ぐ。

二十一世紀初期の今、平均的な人間は、間伐や病気や戦争やテロより、マクドナルドの過食がもとで死ぬ可能性のほうがはるかに高い。

全世界の死亡率のうち、暴力に起因する割合はおよそ一パーセントにすぎない(2012年に世界で亡くなった約5600万人のうち、戦争の死者は12万人、犯罪の犠牲者は50万人)。

一方、自殺者は80万人、糖尿病で亡くなった人は150万人を超えた。今や砂糖のほうが火薬よりも危険というわけだ。


感染症も人類の大きな課題であった。

14世紀の黒死病(ペスト)では実に世界の3-4割が亡くなり、16世紀には新大陸であるメキシコにスペインからもたらされた天然痘やはしかにより、メキシコの人口は2200万人から200万人を切るまでに減る猛威をふるった。

20世紀でも、第一次大戦中に起きたスペイン風邪により1年間で5000万人から1億人が没した。ちなみに、その数は第一次大戦の死者、負傷者、行方不明者の合計4000万人より多い。

だが、感染症や疫病も我々は抑え込みつつある。

発見当時は対策が困難とされ、累計3000万人ほどが亡くなったHIV(エイズ)も、科学者たちはわずか2年でその正体を突き止め、その後10年のうちに様々な新薬が登場して、HIVは死刑宣告から慢性疾患に変わった。

ちなみに、極めて大きなインパクトに見えた2020年からのコロナによる死者数も、80億人もいる世界で550万人ほどと、規模だけでみると過去よりも小さいのが現状である


飢饉と疫病と戦争はおそらく、この先何十年も膨大な数の犠牲者を出し続けることだろう。

とはいえ。それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。

すでに、対処可能な課題になった。

だからといって、いまも貧困にあえぐ何億もの人や、マラリアなどで毎年亡くなる何百万もの人、紛争や暴力で苦しむ何百万もの人の苦しみを過小評価するわけではない。

また、飢饉と疫病と戦争をもう心配するのはやめるべきだ、と言っているのでもない。

だが、二十世紀に成し遂げたことを思うと、もし人々が飢饉と疫病と戦争に苦しみ続けるとしたら、それを自然や神のせいにすることはできない。

私たちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らすことは十分可能なのだ。

とはいえ、飢饉や疫病や戦争が減ってきているとしたら、人類が取り組むべきのリストは、何かに必ず取って代わられるだろう。それはいったい何になるのだろうか?


■つねに「もっと」を求めるヒトが次に目指すであろう「不死、幸福、神性」

一つは、人類と地球全体を、私たち自身の力に固有の危険から守ることだ。

私たちが飢饉と得希望と戦争を抑え込めたのは、目覚ましい経済成長に追うところが大きい

ところが、まさにその成長が、地球の生態学的平衡を揺るがしており、私たちはようやくこの問題を探求し始めたところだ。

環境汚染や地球温暖化や気候変動による悲劇的な結末を避けたければ、我々は態度を改めなければならないだろう。

人類は他に何を目指して努力するのか?飢饉と疫病と戦争を寄せ付けず、生態学的平衡を守るだけでよしとしていられるのか?人間というものは、すでに手にしたものだけで満足することはまずない。

何かを成し遂げたときに人間の心が見せる最もありふれた反応は、充足ではなく渇望だ。

人間はつねによりよいもの、大きいもの、美味しいものを探し求める。前例のない水準の反映と健康と平和を確保した人類は、今やさらに大胆な目標を立てようとしている。


過去の記録や現在の価値観を考えると、次に人類が目指していくものとして、不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。

飢饉と疫病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。

人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。

そして、人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上げることができたので、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス(デウス=神)に変えることを目指すだろう。


二十一世紀の私たちは、人間の生命こそこの世界で最も神性なものであると、事あるごとに教えられる。

「生命に対する権利」が人類にとってもっとも根本的な価値である、と。死はこの権利を明らかに侵害するので、死は人道に反する犯罪であり、私たちは総力を挙げてそれと戦うべきなのだ、と考える。

歴史を通して、死は神性な霊的体験だった。現代の科学と文化は、死を自然的な神秘とは考えず、死は、私たちが解決でき、また、解決すべき技術的な問題とみなしている。

死は、かつて考えられていたような、神が定めたから、もしくは死神のような黒マントの人物に肩を叩かれたから起こるものではもはやなく、何らかの技術的な不具合のせいで起こると現代では考える。

心臓が血液を押し出すのをやめる。遺伝子が偶然、変異を起こし、がん細胞が肝臓に拡がる。これら技術的問題には技術的解決策を取りうる。死を克服するためにキリストの再臨を待つ必要はない。がん細胞をナノロボットで殺すことができたり、新しい心臓を移植したりすることができる。

たしかに現時点では、技術的問題のすべてに解決策があるわけではないが、だからこそ私たちは、バイオテクノロジーの研究にこれほど多くの時間とお金を注ぎ込んでいるのだ。


■科学も資本主義も、不死も幸福を求めることを止めはしないだろう

科学者や医師や学者の大多数はまだ、不死という夢をあからさまに語る段階にはいってないが、医師と科学者が立ち止まり「ここまでにしよう。結核と癌には打ち勝ったが、アルツハイマーと戦うためには何もしない」と言い放つ時点はけっして訪れない。

いかなる人間にも生命に対する権利がある。その権利は「90歳まで」など有効期限など書かれていない。

したがって、昨今では、現代科学の最重要事は死を打ち負かし、永遠の若さを人間にさずけることであると名言する科学者が、少なからず増えている。

遺伝子工学や再生医療やナノテクノロジーといった分野は猛烈な速さで発展しているので、ますます楽観的な予言がでてきている。

人間は2200年までに死に打ち勝つと考える専門家もいれば、2100年までにそうなるとする専門家もいる。

現実的には、不死ではなく、平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標を考えてもいい。

人類は二十世紀に、40年から70年に平均寿命をほぼ倍増させたから、二十一世紀には、少なくとももう一度倍増させて150年にできる、というふうに。

これは、社会に大変革を起こすだろう。

40歳で結婚しても、まだ110年残っている。

結婚生活がそれだけ続くと見込むのは果たして現実的だろうか。

90歳になっても、今後の生活や働き方を一新しなければならない。

プーチンにあと90年も居座ってほしいだろうか。

実のところ、現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも伸ばしてはいない。

早死するのを防ぎ、目一杯寿命を享受できるようにしてくれたことだ。ほとんどの人が90歳まで生きられるだけであり、150歳にはとうてい届かない。

それでも、死を克服するう試みは今後一世紀の最重要プロジェクトとなる可能性が依然として高い。

科学界の主流と資本主義経済は、この奮闘を喜んで応援するはずだ。


■けっきょくわれわれは何を望んでいるのだろうか?

人類の課題リストに入る2つ目の大きなプロジェクトはおそらく、幸福へのカギを見つけることだろう。

歴史を通して、無数の思想家や預言者や一般人が、生命そのものよりもむしろ幸福を至高の善と定義してきた。

現代は、より個々の国民が自身の幸福を重視するようになり、私たちは国に尽くすためにいるのではなく、国が私たちに尽くすためにあると考えるようになってきた。

まるで、人間には幸せになる自然権があり、私たちに不満を抱かせるものは何であれ、私たちの基本的人権を侵害するから、国家が何らかの措置を講じるべきであるかのように。

20世紀には、国家の成功を評価する最高の基準は、一人当たりのGDPだったかもしれない。

この視点にたつと、国民一人が平均で年間5万6千ドル相当の生産をするシンガポールのほうが、国民が年間1万4000ドルしか生産しないコスタリカより国として成功していることになる。

だが、何度も調査が行われたが、そのたびにコスタリカ人のほうがシンガポール人よりはるかに高い人生の満足度を報告している。

けっきょく人々は何を望んでいるのか?

生産したいとは思っていない。

幸せになることを望んでいるのだ。

生産が重要なのは、それが幸福のための物質的基盤を提供してくれるからだ。

だが、生産はあくまで手段にすぎず目的ではない。

あなたは、非常に生産的であっても不満なシンガポール人になりたいだろうか?それとも、生産性は低いが満ち足りたコスタリカ人になりたいだろうか?

この種の論理によって、人類は「幸福」を二十一世紀の第二の主要目標にせざるをえなくなるかもしれない。

一見、これは比較的簡単なプロジェクトに見えかねない。

もし飢饉と疫病と戦争が消えてなくなり、人類が前例のない平和と繁栄を経験し、平均余命が劇的に伸びたなら、そのおかげで人間は幸せになれる。そうではないか?

残念ながら、そうはいかない。古代ギリシャのエピクロスは幸福になるには骨が折れると弟子たちに警告した。

物質的な成果だけでは、私たちの満足は長続きしない。それどころか、お金や名声や快楽をやみくもに追い求めても、惨めになるだけだ。

エピクロスは、例えば飲食はほどほどにし、性欲を抑えることを推奨している。

長い目でみれば、深い友情のほうが熱狂的な乱痴気騒ぎよりも、大きな満足を与えてくれる、と、まとめてくれている。

どうやら人は簡単には幸せになれないようだ。私たちは過去数十年間に前例のない経済的、技術的な成果を挙げてきたにも関わらず、現代の人々が昔の先祖たちりよりもはるかに満足しているかどうかは、およそ明白とはいえない。

それどころか、伝統的な社会と比べて、先進諸国のほうが反映していて、快適で、安全であるにもかかわらず、自殺率がずっと高いというのは不穏な兆候だ。

石器時代の人は、一日あたりおよそ4000キロカロリーのエネルギーを利用した。これは食物として摂取するエネルギーだけではなく、道具や衣服、焚き火に使うエネルギーも含んでいた。

一方、今日の平均的なアメリカ人は、自分の胃袋ばかりではなく自動車、コンピューター、などのために、毎日22万8000キロカロリーを消費する。

石器時代の60倍近いエネルギーを使っている現代の平均的なアメリカ人は、石器時代の人より60倍も幸せだろうか?

どうやら私たちの幸福感は謎めいたガラスの天井にぶち当たり、前例のない成果をどれだけあげようとも、増すことができないように見える。

たとえすべての人に無料で食物を提供し、あらゆる疾病を治し、世界平和を確保したとしても、そのガラスの天井を打ち破るとはかぎらない。


■幸せのガラスの天井を支えるもの

幸福のガラスの天井は、二本の頑丈な柱に支えられている。一方の柱は、心理的なもの、もう一方は生物学的なものだ。

心理的レベルでは、幸福は客観的な境遇よりもむしろ期待にかかっている。私たちは平和で裕福な生活からは満足感が得られない。

それよりも、現実が自分の期待にそうものであるときに満足する。

これに関して何か手を打たないかぎり、この先どれほどの成果をあげても、やはり私たちの不満は少しも解消しないかもしれない。

生物学的なレベルでは、私たちの期待と幸福の両方が、経済的状況や社会的状況や政治的状況ではなく、生化学的作用によって決まる。

種々の生命科学によれば、幸福と苦しみはそれぞれ、さまざまな身体感覚どうしの異なるバランス以外の何者でもないという。

私たちは体内の感覚に反応しているだけだ。

職を失って感じる憂鬱な気分は、一種の身体的感覚だ。

怒りは抽象概念ではなく、体内の熱と緊張の感覚として感じられるものだ。

幸せも、体の中の快感だ。

ワールドカップで決勝のゴールを決めるのも、職場で思いがけない昇進を告げられるのも、同じ種類の感覚に反応している。

残念ながら、その快感はたちまち冷め、遅かれ早かれ不快感に変わる。

たとえワールドカップファイナルでの決勝のゴールを決めたとしても、その至福が一生続く保証はない。

それどころか、その後はずっと下り坂ということになりかねない。

これはすべて進化のせいだ。

私たちの生化学系は、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきた。

生化学系は生存と繁殖を促す行動には快感で報いる。

だがその快感は、つかの間しか続かない。

いわば、次から次へと買わせるための販売戦略のようなものにすぎない。

私たちは空腹という不快感を避け、快い味や至福のオーガズムを楽しむために、食物と生殖行為の相手を得ようと奮闘する。

ところが、快い味や至福のオーガズムは長続きせず、再びそれを感じたければ、さらに食物や相手を探しに出なくてはならない。

進化の競争を生き残ったリスは、木の実を一つ食べた後に永続する至福を楽しめることがなかったから、次の木の実を探し、後尾相手を見つけようとし、その結果として生き残って自分の遺伝子を次の世代に伝える可能性がずっと高かった。

それとまさに同じ理由で、私たち人間が探す木の実、つまり実入りのよい仕事や大きな家や器量よしの伴侶に、長く満足していられることは稀だ。

これはそれほど悪いことではないように聞こえるが、悲しいかな、食物や伴侶を求めるようなプロセスや競争がもたらすワクワクする感覚も、達成時の至福の感覚と同じで短命だ。

束の間のスリルを楽しむドン・ファンも、株価の上下を爪を噛みながら見守るのを楽しむビジネスマンも、モンスターを倒すのを楽しむゲーマーも、前日の冒険を思い出したところで満足感は得られないだろう。

もし科学が正しく、私たちの幸福は自分の生化学系によって決まるとしたら、永続的な満足を確保するには、この系を操作するより他に満ちはない。


■ヒトはすでに科学的に幸せを操作しはじめている

世界中の幸福レベルを上げるためには、人間の生化学的作用を操作する必要がある。

そして、それこそまさに、私たちが過去数十年間に始めたことにほかならない。

五十年前、向精神薬を服用するのは非常に不名誉なことだった。

だが、今日ではう、是非はともかく、人口のしだいに多くの割合が、衰弱生の精神疾患を治すためばかりではなく、もっとありきたりの憂鬱やときおりの気分の落ち込みに立ち向かうためにも、日常的に向精神薬を服用している。

たとえば、ますます多くの学童が、リンタンのような興奮剤を服用している。

アメリカでは2011年に350万人の子供がADHDの薬物療法を受け、イギリスではその数は1997年の9万2000人から、2012年には78万6000人へと増加した。
(日本では子供の人口が減少する中、発達障害と呼ばれる子どもは増え続けており、2006年に7000人あまりだったのが、2019年には7万人を超え、それに伴い、子供への向精神薬の処方も増加している)

今日では、完全に健康な子供たちが、成績を上げ、しだいに高まる教師や親の期待に添うために、その種の薬剤を使用している。

生化学的作用の操作による幸福の追求は、世界における犯罪の最大の原因ともなっている。

人は物を忘れるためにアルコールを飲み、穏やかな気持になるためにマリファナを吸い、鋭敏になったり自信を持ったりするためにコカインやメタンフェタミンを服用する。

これは社会的・経済的秩序の存続に対する脅威であり、だからこそ各国は、生化学的作用にかかわる犯罪に対して、断固とした、血なまぐさい、そして絶望的な闘いを繰り広げているのだ。

だが、国家は、政治の安定や社会秩序や経済成長を増進する生化学的操作は「良い操作」として推奨さえされる(たとえば学校で多動性の子供を落ち着かせたり、不安な兵士たちを戦闘へ突き進ませたりする操作など)。

そして、毎年、大学や製薬会社や犯罪組織の研究室では、新たな薬物が誕生しており、国家や市場が必要とするものも変化し続けている。

生化学的な幸福の追求はしだいに加速しながら、政治や社会や経済を作り変えていき、ますます制御しにくくなるだろう。


■その「幸せへのアプローチ」は本当に正しいのだろうか

そして、薬物はほんの序の口にすぎず、研究者たちはすでに、人間の生化学的作用を操作すべく、脳の適所に電気的な刺激を直接与えたり、私たちの体の遺伝情報を操作しはじめている。

古代ギリシャのエピクロスはおよそ2300年前、快楽を過度に追求すればおそらく幸せではなく惨めになるだろうと、弟子たちに警告した。

その200年程前、ブッダは、快楽の追求は実は苦しみのもとにほかならない、と説いた。

快感は儚く、経験したときにさえ満足したりせず、さらにそれを渇望するだけだ、と。

したがって、至福の快感や胸踊る感覚をどれほど多く経験しようと、私たちはけっして満足することはない、と。

もし私が幸福を儚い快感と同一視し、もっともっとその快感を経験することを渇望したなら、快感を絶えず追求するよりほかにない。

ついに手に入れても、その快感はすぐに消えてしまうし、過去の快楽の記憶だけでは満足できないので、また一からやり直さなければならない。

この追求を何十年も続けたとしても、永続的な成果はけっしてもたらされない。それどころか、そのような快感を渇望すればするほど、ストレスが高まり、不満が募るだろう。

真の幸福を獲得するためには、人間は快感の追求に鞭を入れるのではなく、それにブレーキをかける必要があるのだ。

ブッダのこの幸福感は、生化学的な見方との共通点が多い。

快感は沸き起こったときと同時にたちまち消えてしまうし、人々は実際に快感を経験することなくそれを渇望している限り、満足しないままになるという点に関して、両者の意見は一致している。

ところが、この問題には二つのまったく異なる解決策がある。

生化学的な解決策は、快感の果てしない流れを人間に提供し、けっして快感が途絶えることのないようにできる製品や治療法を開発するというものだ。

一方、ブッダが推奨するのは、快楽への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにするというものだった。

ブッダによれば、私たちは心を鍛錬し、あらゆる感覚が絶えず沸き起こってはきえていく様子を注意深く観察できるようになれるという。

自分の感覚の正体、すなわち、儚く無意味な気の迷いであることを心が見て取れるようになったとき、私たちはそのような感覚を追い求めることへの関心を失う。

沸き起こるそばから消えていくものを追い求めることに、何の意味があるというのか?

今のところ、人類は生化学的な解決策のほうにはるかに大きな関心を抱いている。

資本主義という巨人にとって、幸福は快楽であり、そこに議論の余地はない。

一年過ぎるごとに、私たちは不快感への耐性が下がり、快感への渇望が募っていく。

科学研究と経済活動の両方が、その目的に向けられ、毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生み出され、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまないようで済むようになる。

それでも、およそ十分とは言えない。

進化は、絶え間ない快楽を経験するようにはホモ・サピエンスを適応させなかったので、それでも人類がそうした快楽を望んだら、アイスクリームやスマホのゲームでは間に合わない。

私たちの生化学的作用を変え、心と体を作り直す必要がある。

だから私たちは、それに取り組んでいる。

事の是非は議論できるだろうが、全世界の幸福を確保するという、二十一世紀の二番目の大プロジェクトには、永続的な快楽をたのしめるように、ホモ・サピエンスを作り直すことが必須のように見える。


■神への道すら進もうとする人類

人間は至福と不死を追い求めることで、実は自らを神にアップグレードしようとしている。もし私たちが自分の体から死と苦痛を首尾よく追い出す力を得ることがあったなら、その力は、私たちの体をほとんど意のままに作り変えたり、臓器や情動や知能を無数の形で操作したりできるだろう。その方法としては、生物工学、サイボーグ高額、非有機的な生き物を生み出す工学だ。

遺伝子配列を変えるような生物工学は、もはやホモ・サピエンスとは違う生物種を作る、神のような行為かもしれない。サイボーグ工学では、有機的な体に、人口の目や、血流にのって体内の問題の個所を修復する無数のナノロボットを持つようにするだろう。これはSFのように聞こえるかもしれないが、すでに現実になりつつある。

一方で有機的な部分をすべてなくし、完全に非有機的な生き物を作り出そうという、より大胆なアプローチがある。神経ネットワークは知的ソフトウェアに取って代わられ、そのソフトウェアは有機化学の制約からはなれ、仮想世界の中まで動き回れ、ついには地球という惑星からも脱出できる。

これらの道がどこにつながっているのかも、神のような私たちの子孫がどんな姿をしているのかもわからない。

未来の予言は楽にできたためしがないし、困難であるが、人間をアップグレードするテクノロジーは新たな課題を突きつけてくる。

テクノロジーを使えば人間の心と欲望を変容させられる可能性があり、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まるが、それはあなたや私のような人間には理解できない。

したがって、詳細ははっきりしないが、それでも歴史の全般的な方向性については自信が持てる。

二十一世紀には、人類の第三の大プロジェクトは、創造と破壊を行う神のような力を獲得し、ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードするものになるだろう。

言うまでもなく、この第三のプロジェクトは、第一と第二のプロジェクト(不死と幸福への追求)を含んでおり、その二つから勢いを得る。

とはいえ、パニックを起こす必要はない。

少なくとも、今すぐには、サピエンスのアップグレードは、ハリウッド映画に描かれるような突然の大惨事ではなく、徐々に進む歴史的な過程となるだろう。

これは一日や一年でも起こらないが、実は無数の平凡な行動を通して、それはすでにたった今も起こりつつある。

毎日、膨大な数のヒトが、スマートフォンに自分の人生を前より少しだけ多く制御することを許したり、新しくてより有効な抗うつ薬を試したりしている。

人間は健康と幸福と力を追求しながら、自らの機能をまず一つ、次にもう一つ、さらに…という具合に徐々に変えていき、ついにはもう人間ではなくなってしまうだろう。


■誰かブレーキを踏んでくれませんか?

冷静な説明はさておき、こうした可能性を耳にするとパニックを起こす人が多い。

彼らはスマートフォンの助言には喜んで従うし、医師の処方する薬は何でも服用するのに、アップグレードされた超人と聞くと「そんなものが出てくる前に死にたい」と言う。

人は私たちが途方もない未知のものに向かってどれほど早く突き進んでいるかに気づくと、誰かがブレーキを踏んで、私たちを減速させてくれることを期待するという反応を見せる。

だが私たちにはブレーキは踏めない。

そもそも、ブレーキがどこにあるのか、誰も知らない。

AIやナノテクノロジー、ビッグデータ、遺伝学など、実にさまざまな分野で同時に起こる変化の前に、それらすべてのシステムを理解している人はもうひとりもいないので、誰にもそれを止められないのだ。

そして、仮に誰かがブレーキを踏むことにどうにか成功したら、経済が崩壊し、社会も運命をともにするだろう。経済は居心地の良い平衡状態に落ち着いたりはしようとしない。

両脚が麻痺している人を再び歩けるようにするバイオニック・レッグが開発されたら、それと同じテクノロジーを使って、健常者をアップグレードできる。高齢者の記憶力の低下を食い止める方法が見つかれば、同じ処置によって若者の記憶力を高められるかもしれない。

治療とアップグレードの間に明確な境界線はない。

不妊に悩みつつも、ようやく体外受精で待望の子供を授かろうとする両親が、生まれてくる子供が致命的な遺伝病になる危険が高い遺伝子プロファイルを持ったと分かったならどうするだろうか。

受精卵のDNA検査が安価になり、受精卵の選別が可能になれば、たった一つだけの卵を受精させるような確立の悪いことをする必要はない。

いくつか受精させて、欠陥がない胚を選べば良い。もし無数の卵子を受精させても、そのすべてに致命的な変異がみつかったらどうだろう?

そのような胚をすべて廃棄する代りに、問題のある遺伝子を取り替えればいいかもしれない。そういったテクノロジーが一般的になれば、次は、より肥満が少ない、うつになりにくい、利発で美しい子が生まれるよう、その子の後押しをしてやらない手があるだろうか。

こんな具合に、私たちは小刻みに歩を進めながら、デザイナーベビーカタログへの道を進んでいくのだ。

そして、こんな具合に、私たちは、科学の発展も経済の成長も、平衡状態に落ち着けようなどとは思わない。


■宗教家する「経済成長」と、それに並走する科学の進歩

このような"力"への追求は、科学の進歩と経済の成長の間の提携を原動力としている。

人類の歴史のこれまでで、ほとんどの時代では科学はカタツムリが這うようにゆっくりと進歩し、経済は完全な凍結状態にあった。

人口が徐々に増えていたので、生産もそれに比例して増え、散発的な発見が一人当たりの生産量の増大につながることさえ時々あたが、それは実に緩慢な過程だった。

このような停滞状態に陥っていたのは、主に新しい事業のための資金調達が難しかったからだ。

資金が乏しかったのは、当時は信用に基づく経済か都合がほとんどなかったからだ。

なぜなかったと言えば、経済が成長すると人々が信じていなかったからで、成長を信じなかったのは、経済が停滞してからだ。

赤痢が毎年のように流行する中世の町にあなたが住んでいたとしよう。

あなたは治療薬を見つけようと、研究室を準備し、薬草や珍しい化学薬品を買い揃え、助手たちに給料を払い、有名な医師たちを訪ねて意見を聞くためには資金がいる。

研究に没頭する間も食いつながなくてはならない。懐は寂しい。いずれ治療薬を見つけて豊かになった暁には返済するこをと約束して、数年間支払いをツケにしてくれるように頼むのは難易度が高いだろう。

それに、恐ろしい病気を治す新薬を誰かが見つけるなどという話しは聞いたためしがない。

近代に入り、人々がしだいに将来を信頼するようになり、その結果、信用に基づく経済活動の奇跡が起こった。"クレジット"(信用)とは、信頼の経済的な表れだ。

今日、もし私が新薬を開発したいのに十分なお金がなければ、銀行やベンチャーキャピタルファンドを頼ったりできる。

2014年夏にエボラ出血熱が拡がったとき、この病気の薬やワクチンをせっせと開発していた製薬会社の株価は50-90%値上がりした。証券取引所ブローカーにとっては、いまや感染症の流行さえもビジネスチャンスなのだ。

新規事業の成功が積み重なると、将来に対する人々の信頼も増し、信用も拡大し、起業家は前より簡単に資金を調達でき、経済が成長する。その結果、人々はなおさら将来を信頼し、経済は成長を続け、科学もそれに足並みを揃えて進歩する。

だが、なぜ人類は近代になるまで、信用経済が広がらなかったのか。それは、愚かだったからではなく、成長が、私たちの直感や、人間が進化の過程で受け継いできたものや、この世界の仕組みに反しているからだ。

自然界の系の大半は平衡状態を保ちながら存在していて、ほとんどの生存競争はゼロサムゲーム(どこかでプラスがあればどこかでマイナスが起き、合計SUMは常にゼロになるという状況)であり、他者を犠牲にしなければ繁栄はない。

だが現代は、経済成長は可能であるばかりか絶対不可欠であるという固い信念に基づいている。

飢饉や疫病や戦争といった問題は成長をとおしてしか解決できない。

「もし何か問題が起こったら、おそらくより多くのものが必要なのだ。そして、より多くのものを手にするには、より多くを生産しなければならない」と。

世界の主要な国々が揃って経済成長にかけているという事実は、成長が世界中でほとんど宗教のような地位を獲得したことを物語っている。

経済成長は良いこといっさいの源泉とされているので、人々は倫理的な意見の相違を忘れ、何であれ、長期的な成長を最大化するような行動方針を採用することを推奨される。

そのため、強欲な実業界の大物や金持ちの農場経営者は保護されるが、自由資本主義の邪魔になる生態系の中の動植物の生育環境、格差を避けようとする社会構造、家族や親との絆に時間を割くといった伝統的な価値観は、排除されたり破壊されたりする。

おそらくほとんどの資本主義者は宗教というレッテルを嫌うだろうが、資本主義は宗教と呼ばれてもけっして恥ずかしくはない。

資本主義はこの地上で飢饉と疫病を克服し、人間の暴力を減らすことに貢献した。

資本主義は、成長という至高の価値観の信奉から、自ら第一の戒律を導き出す。

その戒律とはすなわち、汝の利益は成長を増大させるために投資せよ、だ。

もしやり方がわからなければ、銀行家やベンチャーキャピタリストなど、やり方を知っている人にそのお金を与える。

そのお金は農家やエネルギー企業や軍需産業にお金が周り、その結果、小麦と家と石油と平気が増えただけでなく、お金も増え、それを銀行やファンドが再び貸し出せる。

このサイクルは止まることなく回り続ける。

「もうこれまで。十分成長した。これ以上頑張らなくていい」と資本家が言う時点には、私たちはけっしてたどり着くことはない。

(信用経済は、将来でのリターンを期待するため、信用経済がすすむほど、将来で期待されるリターンの規模も膨れ上がっていく。そうすると、ますます雪だるま式に「大きすぎて止められないし潰せない」という状況が起きていくと理解しています)


■経済の成長と生態環境の保護は両立しうるのか

とはいえ、経済は本当に永遠に成長し続けられるのだろうか?

いずれ資源を使い果たし、勢いが衰えて停止するのではないか?

現代の経済にとって真の強敵は、生態環境の崩壊だ。

人類が何百年にもわたる経済の成長の恩恵を享受してきた過程で、他の多くの種が絶滅し、人類も何度となく経済危機や生態学的災害に直面したが、これまでのところ、いつもなんとか切り抜けてきた。

とはいえ、将来の成功はどんな自然の摂理によっても保証されているわけではない。

科学が今後もずっと、経済が凍りつくのと生態環境がオーバーヒートするのを同時に防いでくれるなどと、誰に言えるだろうか?

私たちは生態環境の破綻が人間の社会階級ごとに違う結果をもたらしかねないことも憂慮するべきだ。

災難が人々を襲うと、貧しい人のほうが豊かな人よりもほぼ必ずはるかに苦しい目に遭う。そもそも、豊かな人々がその悲劇を引き起こしたときにさえ、そうだ。

地球温暖化はすでに、裕福な西洋人の生活よりも、アフリカの乾燥した国々に住む貧しい人の生活に、より大きな影響を与えている。

矛盾するようだが、ほかならぬ科学の力が危険を増大させるかもしれない。なぜなら、その力に、豊かな人々が満足してしまうからだ。


■ハイテクの方舟(はこぶね)を信じ、ブレーキのかからない経済成長

ほとんどの学者と、しだいに多くの政治家が、地球温暖化は現実に起こっており、それが非常に危険なものであることを認めている。

それにもかかわらず、私たちの実際の行動は、今のところとりたてて言うほどの変化を見せずにいる。

地球温暖化はしきりに話題に上るが、現実には、人類はこの大惨事を食い止めるのに必要な重大な経済的犠牲や社会的犠牲や政治的犠牲を払おうとはしない。

二〇〇〇年と二〇一〇年を比べると、排出量はまったく減っていない。

それどころか、一九七〇年から二〇〇〇年にかけての年間上昇率一・三パーセントを上回る年率二・二パーセントの割合で増えた。

温室効果ガス排出の削減に関する一九九七年の京都議定書は、地球温暖化を止めるのではなく、たんに遅らせることを目指したが、世界最大の排出国アメリカは、この議定書を批准することを拒み、自国の経済成長を妨げるのを恐れて、排出量を大幅に削減する試みはまったくしていない。

経済が成長してさえいれば、科学者と技術者がいつも世界の破滅から私たちを救ってくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多過ぎる。

こと気候変動に関しては、成長の熱狂的な信者たちは、奇跡をただ期待するだけではない。奇跡は起こって当然と考えているのだ。 

未来の科学者たちが今はまだ知られていない地球の救出法を発見するだろうという前提に基づいて人類の将来を危険にさらすのは、どれほど道理に適っているのだろう?

世界を動かしている大統領や大臣やCEOは道理をしっかりわきまえた人々だ。それなのに、なぜ進んでそんな賭けをするのか?

それは彼らが、自分個人の将来を賭けているわけではないと思っているからかもしれない。

もし状況がいよいよ悪化し、科学者が大洪水を防げなくても、依然として技術者が、高いカーストにはハイテクのノアの方舟を造れるだろう。

ただし、他の何十億もの人は取り残されて溺れる羽目になる。

このハイテクの方舟信仰は今、人類と生態系全体の将来にとって大きな脅威の一つになっている。ハイテクの方舟で助かると信じている人々には、グローバルな生態環境を任せるべきではない。

では、貧しい人はどうなのか? 彼らはなぜ抗議していないのか?

大洪水がもし本当に襲ってきたら、その損害は彼らがまともに被ることになる。

とはいえ、経済が停滞したら真っ先に犠牲になるのも彼らだ。資本主義の世界では、貧しい人々の暮らしは経済が成長しているときにしか改善しない。

したがって彼らは、今日の経済成長を減速させることによって将来の生態環境への脅威を減らす措置は、どんなものも支持しそうにない。

環境を保護するというのはじつに素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷床が解けることよりも借金のほうをよほど心配するものだ。


■経済成長と科学の進歩が、貪欲を解き放つ

何世紀にもおよぶ経済成長と科学の進歩の後、少なくとも最も進んだ国々では、暮らしは穏やかで安らかになっていて当然だった。ところが、真相はそんな平穏とは程遠い。私たちは、これほど多くを成し遂げてきたにも関わらず、なおさら多くのことをしたり、多くのものを生み出したりするようにというプレッシャーを絶え間なく感じている。

現代の世界は、これほどの緊張と混沌を生み出しているにも関わらず、成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を冒すべきであると説く。

各国の政府や企業や組織は、自らの成功を成長という物差しで測り、平衡状態は悪魔であるかのように恐れることを推奨される。

個人のレベルでは、私たちは絶えず収入を増やし、生活水準を高めるように仕向けられる。

たとえ現状で十分満足しているときでさえ、さらに上を目指して奮闘するべきとされる。

昨日の贅沢品は今日の必需品になる。

さまざまな社会は何千年にもわたって、個人の欲望をほどほどに抑えて安定させるように骨を折ってきた。

飽くことを知らぬ欲は罪だった。

ところが、近代に入ると、世の中は逆転した。

平衡状態は混沌よりもはるかに恐ろしく、貪欲は成長を促すので善なる力であると、近代の世界は人間の集団に確信させた。

こうして人々は近代以降、より多くを望むことを推奨され、強欲を抑えてきた昔ながらの規律は廃された。


■人間至上主義という革命

とはいえ、将来の生態環境のメルトダウンの危険性を無視すれば、そして、生産と成長という物差しで成功を測るのなら、資本主義は飢饉や疫病や戦争を抑え込みつつ、首尾よく普及した。

だが、市場の見えざる手にまかせて成長を進めていたならば、倫理学も道徳性も思いやりもなく、裁判所や警察まで、あらゆるものが売りに出されるような崩壊だってあったかもしれない。

いったい何が、そんな危機から人類を救ったのか。

それは、需要と供給の法則ではなく、革命的な新宗教、すなわち人間至上主義の台頭だった。

人間至上主義は、過去数世紀の間に世界を制服した新しい革命的な教義だ。

人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。

人間至上主義によれば、何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているかを、神や自然の摂理に定義してもらうのではなく、「自分に耳を傾けよ、自分に忠実であれ、自分を信頼せよ、自分の心に従え、心地よいことをせよ」と「自分が何をしたいと望んでいるか、善いと感じていることが善いかどうか、悪いと感じていることが悪いかどうかに関しては、自分自身の意見を聞く」。

つまり、「自分がどう感じているか」に頼ることが善しと考える。

たとえば、浮気についても、聖書によって大罪と書かれており、地獄に堕ちるから避けるのではなく、別なヒトが嫌な思いをした場合にはどうなるのか?

そうした感情の重みをどう比べればいいいのだろうか?浮気をして味わう楽しい気持ちと、その配偶者や子供たちが味わう嫌な気持ちよりも大切だろうか?それは個人的な感情に即して自由に決めることができる。

こうした「自分の感情に従う」人間至上主義の元では、私生活だけではなく、誰が国を統治すべきかといった政治的なことや、どんな車を買うべきかといった経済的な事柄にも影響を及ぼす。

たとえば、育ちの速い豚や乳量の多い牛や特別肉付きのよい鶏を生み出すための遺伝子操作による家畜の能力強化を専門にしている研究者に、あまりに乳房が重くろくに歩くことができない牛や、肉付きがよすぎて立ち上がることさえできない鶏の苦しみについて非難があったとする。

その研究者は、こういって、これは消費者の求めることなのだと、自身を正当化できる。

「もとをたどれば、すべては個々の消費者にたどり着きます。

現在の世界的な肉の消費レベルは、(遺伝子操作で肉付きが良くなるなど)能力を強化された現代のニワトリ抜きではとうてい維持できないであろうことを、思い出さなければなりません。

消費者が私たちにできるだけ安い肉だけを求めていたら---消費者はそれを手にすることなるのです…

消費者は、自分にとって何が一番重要化を決める必要があります---」と。

とある企業が、もしたっぷり収益があがっていれば、膨大な数の人がその会社の製品を気に入っている証拠で、それはその会社が善に資する力を振るっていることを意味する。

誰かが意義を唱えたなら、顧客はつねに正しいことと、人間の感情こそがすべての意味と権威の厳選であることをたちまち指摘される。

何百万もの人がその企業の製品を買うことを自ら選ぶのであれば、彼らは間違っているなどと誰に言えるだろう?


■人間至上主義はテクノロジーを人間の欲望を最大限活用させようとする

私たちは出来合いの良心を持って生まれてはこない。

人生を送りながら、他人を傷つけ、他人に傷つけられ、情け深い行動を取り、他者からの思いやりを受ける。

そうした行為において、感覚と情動と思考に注意を払えば、道徳的な感性が研ぎ澄まされ、こうした経験が価値ある倫理的知識の厳選となって、何が善く、何が正しく、自分が本当は何者かが分かってくる。

人間至上主義はこのように、経験を通して無知から啓蒙へと続く、内なる変化の漸進的な過程として人生を捉える。

人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識をめいっぱいふかめることだ。

このように育った人間至上主義は、人間の寿命と幸福と力を最大化しようと、テクノロジーを解き放っていく。


■人間至上主義により解き放たれたテクノロジーが、今度は人間至上主義の土台を崩していく

だが、その先にはどのような未来がまっているのだろうか。

二十一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。

科学は価値にまつわる疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのか、あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかは判断できない。

自由主義的な人間至上主義が個人の自由をこれほど重視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ。

しかし、自由意志と現代の科学との矛盾は放置されたままである。


■実は我々の「自由意志」は空想の産物である

現代の科学が解き明かす、我々ホモ・サピエンスの仕組みのブラックボックスの中身。

そこには自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはそのほかの現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

ある人がナイフで誰かを刺殺した理由を問われた現代の学者には、これまでのような「なぜなら、そうすることを自分の自由意志を使って選んだからだ」という答えは通用せず、「脳内のこれこれの電気化学的プロセスのせいであり、そのプロセスは特定の遺伝的素質によって決まり、その素質自体は太鼓の新加圧と偶然の変異の組み合わせを反映している」といった、より詳細な答えを持ち出す。

殺人につながる脳の電気化学的プロセスは、たとえばニューロンが発火するとき、それは外部の刺激に対する決定論的な反応か、ことによると、放射性元素の自然発生的な崩壊のようなランダムの出来事の結果かもしれない。どちらの選択肢にも、自由意志の入り込む余地はない。

科学的理解がおよぶかぎりでは、実は「自由」という神聖な単語は、まさに「魂」と同じく、具体的な意味など全く含まない空虚な言葉だったのだ。

自由意志は私たち人間が創作したさまざまな想像上の物語の中にだけ存在している。

人はこのような科学的説明を突きつけられると、しばしばそれを軽くあしらい、自分は自由だと"感じている"ことや、自分自身の願望や決定に従って行動していることを指摘する。

それは正しい。人間は自分の欲望に即して振る舞う。

もし「自由意志」とは自分の欲望に則して振る舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意志がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。

肝心の疑問は、内なる欲望に従って行動できるかどうかではなく、そもそもその欲望を選ぶことができるかどうか、だ。

なぜ黒ではなく赤い自動車をこれほど買いたがるのか?

なぜ共産党ではなく自由民主党に投票したいと思うのか?

人はこれらの願望の一つして自分では選んでいない。

特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なプロセスによって生み出された感情だからだ。

これはたんなる仮説でもなければ哲学的な推量でもない。

今日私たちは脳スキャナーを使って、人が自分の欲望や決定を自覚する前に、その欲望や決定を予測することができる。

その種の実験の一つでは、参加者が2つのスィッチのうちどちらのスイッチを押すか、参加者が実際にスイッチを押すよりも、そして本にが自分の意図を自覚する前にすら、どちらのスイッチを押すかを科学者は予測できる。

その人の決定を示す脳内の神経の活動は、本人のこの選択を自覚する数百ミリ秒から数秒"前に"始まるのだ。

どのスイッチを押すかの決定は、たしかにその人の選択を反映している。

とはいえ、それは自由な選択ではない。

じつは、私たちが自由意志の存在を信じている原因は、誤った論理にある。

生化学的な連鎖反応のせいで私が右のスイッチを押したくなったとき、私は自分が本当に右のスイッチを押したいと感じる。

そして、それは正しい。

とはいえ人は、もし私が右のスイッチをおしたいのなら、私はそう望むことを選んだという結論に、誤って飛び付いてしまう。

この結論はもちろん間違っている。私は自分の欲望を選ぶことはない。私は欲望を感じ、それに従って行動するにすぎない。

それにもかかわらず、人が自由意志について論じ続けるのは、どの人間にも魂と呼ばれる内なる本質があり、それがその人の真の自己だと決めてかかっているからである。

さらに、この自己は、衣服や乗り物や家を所有しているのとまったく同様に、様々な欲望も持っていると考え、自分の服を選ぶのと同じように自分の欲望を選ぶと考える。

ところが、魂など存在せず、人間には「自己」と呼べる内なる本質などないことをいったん受け入れてしまえば、「自己はどうやって自らの欲望を選ぶのか?」と問うことは、もう意味を成さなくなる。

それは独身男性に「奥さんはどうやって自分の服を選ぶのか?」と問うようなものだ。

現実には意識の流れがあるだけで、様々な欲望がこの流れの中で生じては消え去るが、その欲望を支配している永続的な自己は存在しない。

だから、私は自分の欲望を決定論的に選んだのか、ランダムに選んだのか、自由に選んだのかと問うても意味がないのだ。

この考えはやたらに込み入っているように見えるかもしれないが、意外なほど簡単に検証できる。

今度何か考えが頭に浮かんだら、そこで立ち止まって自問してほしい。

「なぜこの考えを思いついたのか?一瞬前にこの考えを思いつくことにして、それからようやく思いついたのか?それともこの考えは、私の指示も許可もまったくなしに、自然に湧いてきたのか?もし私が本当に自分の考えや決定の主人なら、これから一分間、何も考えないことにできるだろうか?」試してみて、どうなるか確認するといい。


■「自由意志」なき我々が幸せを求めテクノロジーに頼った先にあるものとは

アメリカ軍は最近、人間の脳にコンピューターチップを埋め込む実験を始めた。

この方法を使って心的外傷後ストレス障害に苦しむ兵士を治療できればと望んでのことだ。患者の脳に電極を埋め込み、コンピューターからの命令を受けると、電極は微弱な電流を流し、うつを引き起こしている脳領域を麻痺させる。

この治療法はいつもうまくいくわけではないが、これまでずっと悩まされてきた暗い空虚な気持ちが魔法のように消えてなくなったと患者が報告する場合もあった。

もしこのテクノロジーが成熟すれば、あるいは、もし脳の電気的なパターンを操作する他の方法が見つかれば、そのせいで人間社会と人間はどうなるのか?

人々は、より効率的に勉強したり働いたりするためや、ゲームや趣味に没頭するため、数学であれサッカーであれそのときどきに自分が興味をもっているものに集中するためなどに、自分の脳の電気回路を操作するだろう。

ところが、もしそのような操作が日常的なものになれば、消費者の自由意志とされるものもまた、ただの製品として購入されるものに変わるだろう。

ピアノの演奏を習得したいけれど、練習時間が来るたびにテレビを見ていたくなる?

大丈夫。(脳に電気を送る)ヘルメットを被って、適切なソフトウェアをインストールするだけで、ピアノを演奏したくて居ても立ってもいられなくなるから。

人は外部から気を散らされて、自分の最も大切な真の欲望に気づきそこねることが多い。

注意力を高めるヘルメットや、それに類する装置の助けを借りれば、様々な周囲の声をもっと簡単に黙らせ、"自分"が望んでいることに焦点を絞れる。

それは自由意志を損なうどころか強化する、と反論する人がいるかもしれない。

ところが、自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究によって偽りであることが暴かれた。

科学は、自由意志があるという自由主義の信念を崩すだけではなく、個人主義の信念も揺るがせる。

自由主義者たちは、私たちには単一の、分割不能の自己があると信じている。

個人(individual = in(否定)-dividual(分割できる))であるとは、分けられないということだ。

たしかに、私の体はおよそ三十七兆個の細胞からできているし、体も心も毎日無数の入れ替えや変化を経験する。

それなのに、もし私が本当に注意を払って自己を知ろうと努めれば、自分の奥底おに、単一で明確な本物の声を必ず発見できるはずで、それが私の真の自己であるはずだ。

私には、一つ、ただ一つの真の自己がなくてはならない。

なぜなら、もし複数の本物の声があったなら、投票所やスーパーマーケットや結婚市場でどの声に耳を傾ければいいか、わからないではないか。

ところが生命科学は過去数十年のうちに、この自由主義の物語がただの神話でしかないという結論に達した。

脳には、様々な部位によって、ドアを開けたい/閉めたい、将来製図工になりたい/レーサになりたい、目にしたものが何かなど、異なる行動や意図を持ったり、異なる認知を起こしており、言語能力の座でもある左半球においてそれらを絶えず「解釈」する部位が、部分的な手がかりを使ってまことしやなか物語を考え出すように働く。

つまり、脳内の複数の声をまとめる真の自己などどこにもなく、それらの声を「まことしやかに」整合性をもった物語が、「自分の意思で考え、選んだこと」と自覚されるのが、我々が空想で認識する「自由意志」の実態だ。


■知能が意識と分離され、人間は経済的な有用性を失っていく

三〇〇〇年紀の始まりにあたる今、自由主義は、「自由な個人などいない」という哲学的な考えによってではなく、むしろ具体的なテクノロジーによって脅かされている。

人間は経済的な価値を失う危機に直面している。

なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。

いまでは意識によって事故やミスやストを起こす人間より、意識をもたず人間より勝れた知能をもつAIのほうが、車を運転したり、病気の診断をしたり、テロリストを大量の監視カメラの顔映像から割り出したり、戦線で敵に突っ込んでいたりするのに向いている。

今はまだ意識をもつ人間のほうがうまくこなせる高い知能を必要とする仕事でも、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識をもたないアルゴリズムをもつ人工知能が、パターン認識で人間の意識をほどなく凌いでいくかもしれない。

もし人間にタクシーだけではなくあらゆる乗り物の運転を禁じ、コンピューターアルゴリズムに交通を独占させたら、自動車事故が起こる可能性を大幅に減らせるだろう。

証券取引所のトレーダーも、今日、もはやほとんどの金融取引はコンピューターアルゴリズムに管理されており、経済的な価値を失いつつある。

熟練の弁護士や刑事でさえ、人の表情や声の調子を観察しているだけでは、簡単にペテンを見破ることはできないが、高度なコンピューターアルゴリズムが、人間が一生かかっても見つけられないほどの多くの判例を高度な検索アルゴリズムが見つけたり、脳スキャンや表情や声の変化で的確に真実か嘘かを検知できるようになったら、大勢の弁護士たちはどんな運命をたどるのか?

医師でさえ、アルゴリズムの格好の標的になっている。

ほとんどの医師にとって、第一の、そして主要な仕事は、病気を正しく診断し、それから実行可能な治療法のうちで最善のものを推薦することだ。

人間は心の知能指数が高いことを自慢しているにもかかわらず、自分の情動に圧倒されて、逆効果になるような形で反応することが多い。

たとえば、腹を立てている人と出会うと大声を上げてしまったり、おどおどした人の話しに耳を傾けていると、自分もやたらに不安になったりする。

コンピューターには、そういったことは絶対にないだろう。

自分の情動というものを持っていないから、相手の情動にとって最も適切な応答ができるはずだ。

コールセンターにおいても、顧客の話す内容だけではなく、話すスピードや声のトーンなどから、最も適切な声色とスピードで、相手の情動に適切な対応を自動で行えるコンピューターアルゴリズムもでてきている。

芸術の世界ですら、すでにコンピューターアルゴリズムは、バッハの作曲した曲より素晴らしいと人間に評価される音楽を作り始めている。


■経済的に無用になっていく我々はどうしていくのか?

二十一世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、膨大な数の余剰人員をいったいどうするか、だろう。ほとんどなんでも人間よりも上手にこなす、知能が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場したら、意識のある人間たちはどうすればいいのか?

人間はそんなことをしないと思う人達は、かつて産業革命によって馬に起きた運命を思い出すとよい。

それまで、人間の心を繊細に読み取るよき伴侶であったり、様々なニオイを嗅ぎ分けたり、柵をジャンプしたりできた馬たちが、蒸気機関の登場によって、病気もせず、怪我もしない、より早くより重いものを着実に運べる汽車や自動車に置き換わっていった様を。

資本家は、情動的な価値をもたらす馬よりも、より確実に経済的な価値をもたらす車を採用していく。そのほうが、より効率的に資本を増やしていけるから。

同じように、コンピューターアルゴリズムが人間の仕事を担うようになり、人間を求人市場から押しのけていけば、富と権力は全農のアルゴリズムを所有する、ほんのわずかなエリート層の手に集中して、空前の社会的・政治的不平等を生み出すかもしれない。

今日、何百万というタクシーやバスやトラックの運転手は、強い経済的_政治的影響力を持っており、それぞれが輸送市場を少しずつ専有している。

もし彼らの集団的利益が脅かされたら、連合してストライキを始め、ボイコットを展開し、協力な投票者集団を形成する。

ところが、何百万もの人間の運転手たちが単一のアルゴリズムにいったん取って代わられてしまえば、彼らの富と権力はすべて、そのアルゴリズムを所有する企業と、その企業を所有する一握りの大富豪たちに独占されてしまうだろう。

あるいは、アルゴリズム自体が所有者になるかもしれない。

人間の法律は、企業や国家のような共同主観的なもの(自分でも、他人でもなく、集団で主観的価値があると信じるもの)をすでに「法人」と認めている。

トヨタやアルゼンチンは体も心ももっていないが、国際法に従わなくてはならず、土地やお金を所有でき、訴訟を起こすこともできれば、起こされることも有りうる。

私たちはほどなく、アルゴリズムにも同じような地位を与えるかもしれない。そのときは、アルゴリズムは人間の主人の思い通りになる必要はなく、自ら巨大な輸送事業やベンチャーキャピタルファンドを所有できる。

アルゴリズムが人間の資本家よりも優れた実績を一貫して残せば、アルゴリズムから成る上流階級がこの惑星のほとんどを所有するという結果になりかねない。

これはありえないように思えるかもしれないが、あっさり切り捨てる前に思い出してほしい。地球のほとんどはすでに、人間ではない共同主観的なもの、すなわち国家と企業に合法的に所有されている。

やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、経済的価値を失った無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援をうけられるようになるだろう。

だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?

人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。

彼らは1日中、何をすればいいのか?

薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない。

必要とされない人々は、3Dのバーチャル・リアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。

その世界は外の単調な現実のセキアよりもよほど刺激的で、そこで遥かに強い感情を持って物事にかかわれるだろう。


■テクノロジーは君主となり、我々の自由は崩壊する

二十一世紀では、テクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。

もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムに移る。

スマートバンドのようなもので、リアルタイムに自分の血糖値や心拍などの生化学的な情報がアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターさせることによって、私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの少ないアルゴリズムがあれば、それを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理に適っている。

医学に関するかぎり、私たちはすでにそうしている。

私たちは病院ではもう個人ではない。あなたが生きている間に、自分の体と健康についての重大な決定の多くは、IBMのワトソンのようなコンピューターアルゴリズムが下すようになる可能性が非常に高い。

しかも、それは必ずしも悪い話しではない。

深刻な病気にかかっていなくても、ウェアラブル(身につけられる)センサーとコンピュターを使って自分の健康状態と活動をモニターし始めた人は多い。

スマートフォンや腕時計から、下着や、コンタクトレンズやおむつや、性行為の評価を発汗量や数字で評価するようなアームバンドまで存在している。

あなたの呼吸の一つひとつ、あなたの動作の一つひとつ、あなたが絶つ絆の一つひとつを見守っているシステム、あなたの銀行口座と鼓動、血糖値と性的逸脱行為をモニターしているシステムを想像してほしい。

そういうシステムは確実に、あなたよりもはるかによくあなたのことを知るようになるだろう。そうしたシステムは、あなたの脳のようにでっち上げた物語に基づいて決定を下すことはないし、私たちの一挙手一投足をすべて覚えているだろう。

私たちの多くは、自分の意思決定の過程をそのようなシステムに喜んで委ねるのではないか。あるいは、重要な選択に直面したときにはいつも相談ぐらいはするだろう。

こんなぐあいに。

「聞いて、グーグル。ジョンとポールがどちらも言い寄ってくるんです。二人とも好きだけど、違う意味でね。だから、心を決めるのが難しくて。あなたがしっていること全部に基づくと、どうしたらいいと思う?」

すると、グーグルは答える「そうですね。あなたのことは生まれた日からずっと知っています。

あなたのメールは全部読んできたし、電話もすべて録音してきたし、お気に入りの映画も、DNAも、心臓のバイオメトリックの経歴も全部しっています。

あなたがしたデートについても一つ残らず正確なデータを取ってあります。当然ながら私は、あなたを知っているのと同じくらいよくあの二人も知っています。

これらいっさいの情報と、何百万もの人間関係に関する数十年分の統計に基づくと、ジョンを選ぶことをお勧めします。

長期的には、彼のほうが、より満足できる確立が八十七パーセントありますから。それどころか、私はあなたがこの答えを気に入ってもらえないことも承知しています。

ポールはジョンよりずっとハンサムですし、あなたは外見をあまりに重視するので、私に『ポール』と言ってもらいたいと、こっそり思っていましたね。

ルックスはもちろん重要ですが、あなたが思っているほどではありません。恋愛関係の長期的成功に、ルックスはわずか十四パーセントの影響しか与えないと、最新の研究と統計に基づくアルゴリズムは言っています。」

自由主義は物語る自己(脳により自分に都合よく織り上げた物語としての"自己")を神聖視し、投票所で誰に投票するかや、何をスーパーで買うかや、結婚市場で誰を選ぶかを決めるのに、自己が選択するのを許す。

これは何世紀もの間、理に適っていた。

物語る自己はありとあらゆる種類の虚構や幻想を信じていたとはいえ、この自己よりも本人のことをよく知っているシステムは他になかったからだ。

ところが、物語る自己以上に本人のことをよく知るシステムがいったん手に入れば、物語る自己の手に権限を委ねたままにするのは無謀ということになる。

民主的な選挙のような自由主義の慣習は時代遅れになる。

なぜなら、グーグルが、私の政治的見解さえ、私自身よりも的確に言い表すことができるようになるからだ。私が投票所の仕切りの中に絶った時、本物の自己に相談し、自分の最も奥深い欲望を反映する正当や候補者を選ぶように自由主義は私に指示する。

ところが、その仕切の中に立つ時、私は前回の選挙依頼、自分が感じたことや考えたことを本当に一つ残らず覚えてはいない、と生命科学は指摘する。そのうえ私は、プロバガンダや情報操作やランダムな記憶に次から次へとさらされ、選択を歪められている可能性が高い。

物語る自己はピーク・エンドの法則に従う。出来事の大多数は忘れ、いくつかの極端な事例だけを記憶しており、また、最近起こったことをはなはだしく過大評価する。

そうすると、数年にわたって苦情を言っていた与党に対しても、彼らが選挙前の数ヶ月、減税を行い、一流のコピーライターたちを雇って、見事に聞こえる公約を展開したことで、選挙当日の朝に目覚めた私は、また与党を選んでしまうかもしれない。

もし自分に代わって投票する権利をグーグルに与えてさえいたら、そんな事態は避けられただろう。

グーグルは最近の減税と選挙公約を無視したりはしないが、過去におこったことも覚えている。

私が朝刊を読むたびに血圧がどうなったかや、晩のニュースを観ている間にドーパミン値がどれほど急激に低下したかも覚えている。

グーグルは、情報操作の専門家たちが掲げる空虚なスローガンをふるいにかける方法をしっている。

したがってグーグルは、私の瞬間的な情動の状態や、物語る自己の幻想ではなく、「私」として知られる生化学的アルゴリズムの集合の本当の気持ちと関心に即して投票することができる。

当然ながら、グーグルはいつも正しい判断を下すとは限らない。

グーグルのシステムはけっして私を完璧に知ることはないし、絶対確実にはならない。だが、そうなる必要はない。

自由主義は、システムが私自身よりも私のことをよく知るようになった日に崩壊する。

たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから。

本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくない。

グーグルなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、最終的には君主へと進化するだろう。

今や多くの運転手が使う、ナビアプリのWaze(ウェイズ)の場合を考えるといい。

ウェイズはただの地図ではない。何百万ものユーザーが、交通渋滞や自動車事故や警察の車両などについて絶えずアップデートしている。

だからウェイズは、ユーザーに混雑した道を避けさせ、最短時間のルートで目的に導くことができる。

一見すると、ウェイズのアルゴリズムは巫女のような役割を果たしているだけに思える。あなたが質問すると、巫女が答えるが、決定を下すのはあくまであなただ。

ところが、もし巫女があなたの信頼を勝ち取れば、次のステップは巫女を代理人に変えることだ。

あなたはウェイズに「いちばん眺めがいいルートで」など最終目的だけを告げ、ウェイズを自動運転車に接続し、あなたが采配を振るっているが、命令の実行はウェイズに任せる。

そしてついには、ウェイズは君主になるかもしれない。

たとえば、ウェイズが誰もが使い始めたとして、ルート1号では交通渋滞が発生しているけれど、その代りとなるルート2号は比較的空いているとしよう。

たんにウェイズが運転者全員にそれを知らせるだけでは、彼らはルート2号に殺到するので、こちらの道も渋滞してしまう。

ひょっとするとウェイズは、運転者の半分にしかルート2号が空いていることを伝えず、残りの半数にはこの情報を伏せておくかもしれない。そうすれば、ルート2号を混雑させずに、ルート1号の渋滞を緩和できる。

私たちは自身がより快適と感じる状態をもたらしてくれるテクノロジーに頼り、より精神的な問題の解決を求め、心的能力をアップグレードすることに的を絞っていくほど、他の能力をダウングレードしたりさえするかもしれない。

太古の人間はおそらく、嗅覚を幅広く使っただろう。

狩猟採集民は遠く離れたところから、様々な動物種や、さまざまな人間、さらにはさまざまな情動の違いさえ嗅ぎ分けられる(人は怖れているときと勇気に満ちている時に分泌する化学物質は異なる)。

サピエンスがしだいに大きな集団を組織するようになると、鼻は社会的重要性の大半を失った。

鼻が役に立つのは、少数の個人を相手にしているときだけだからだ。

たとえば、中国に対するアメリカの恐れを嗅ぎ取ることはできない。

したがって、人間の嗅覚の力は軽んじられた。

何万年も前にはおそらく匂いに対処していた脳の領域は、読書や数学や抽象的な推論といったより切迫した課題に取り組むように振り分けられた。

同じことが私たちの他の感覚器官や、感覚に注意を向ける基本的な能力にも起こった。

優れた交通機関に恵まれた私たちは、町の反対街に住む友人と簡単に会える。

だが、一緒にいるときにさえ、この友人に注意をすべて向けることはない。

おそらくどこか別のところで、もっとずっと面白いことが起こっているものとばかり思っているので、絶えずスマートフォンやフェイスブックをチェックしているからだ。

現代の人間は、FOMO(Fear Of Missing Out : 見逃したり取り残されたりすることへの恐れ)に取り憑かれており、かつてないほどの多くの選択肢があるというのに、何を選んでもそれに本当に注意を向ける能力を失ってしまった。

私たちは、自分自身に耳を傾けようとすると、相容れない様々な雑音の不協和音の洪水に飲まれてしまうことが多い。

実際、自分の本物の声をあまり聞きたいとは思わないこともある。

たとえば、出世街道をひた走っている弁護士は、一休みして子供を産むように言う内なる声を抑え込むかもしれない。

不満だらけの結婚生活にはまり込んだ女性は、その生活が提供する経済的な安心感を失うのを恐れる。

人間至上主義は、こうした状況のどれにも、明確な万能の解決策はないと考える。

たとえ怖いものであっても内なるメッセージに耳を傾け、自分の本物の声を突き止め、困難をものともせずにその指示に従うことを求める。

一方、テクノロジーの進歩には、それとかけ離れた狙いがある。テクノロジーの進歩は、私たちの内なる声に耳を傾けたがらない。

その声を制御することを望む。

これらの声をすべて生み出している生化学的なデータを把握すれば、様々なスイッチをいじり、ボリュームを上げ下げし、人生を遥かに楽で快適と感じる状態にできる。気が散った弁護士や不満な妻には向精神薬や、抗うつ薬を与えるように。

だが、本物の自己などというものがなく、自分の頭の中で、時に相反する様々な欲望が起きているとしたら、どの声を黙らせ、どの声のボリュームを上げるかを、どうやって決めればいいのか?

ここでどうしようもないジレンマに直面する。

テクノロジーによって、この世で最も重要なものを思いのままにできるようになると、とても魅力的だ。

とはいえ、そのように制御できるようになったら、その能力を使ってどうすればいいのかわからない。

人類を促して、その意思を制御したりデザインし直したりできるテクノロジーを開発させようとすると、人間自身もまた、ただのデザイナー製品になってしまい、人間にとって重要なものと考えている意思というものを放棄することにもつながってしまうからだ。


生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学買いの定説であり、それが私たちの世界を一片させつつあることは知っておくべきだ。

インターネットの台頭からは将来の世界がうかがえる。

今ではサイバースペースは私たちの日常生活や経済や国家のセキュリティにとってきわめて重要だ。

それなのに、いくつかのウェブの設計から一つを選ぶという重大な選択は、それが主権や国境、プライバシー、セキュリティのような従来の政治的な問題に関連しているにも関わらず、民主的な政治プロセスを通して行われなかった。

あなたはサイバースペースの携帯について投票などしただろうか?

今日インターネットは自由で無法のゾーンであり、国家の主権を損ない、国境を無視し、ことによると最も恐るべき世界的なセキュリティのリスクとなっている。

一方、政府はデータを持て余している。

アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文章をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返して失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた膨大なデータをどうすればいいのかわかっていないようだ。

AIとバイオテクノロジーは間もなく私たちの社会と経済を-そして体と心も-すっかり変えるかもしれないが、両者は現在の政治のレーダーにはほとんど補足されていない。

今日の民主主義の構造では、肝心なデータの収集と処理が間に合わず、従来の民主主義政治はさまざまな出来事を制御できなくなりつつあり、将来の有意義なビジョンを私たちに示すことができないでいる。

一般の有権者は、民主主義のメカニズムはもう自分たちに権限を与えてくれないと感じ始めている。

世界は至るところで変化しているが、彼らはなぜ、どうのように変化しているかわかっていない。

権力は彼らから離れていっているが、どこへ行ったのか定かではない。

それでもやはり、誰か管理している人物がいると思っている人もいる。

億万長者の小さなグループが密かに世界を動かしているというのだ。

だが、そのような陰謀説はけっして成立しない。

現在の体制の複雑さを過小評価しているからだ。どこかの秘密の部屋で葉巻を吸い、スコッチを飲む少数の億万長者には、この地球で起こっていることを一つ残らず理解できるはずがないし、まして制御できるはずもない。

冷酷な億万長者や小さな利益団体が今日の混沌とした世界で成功しているのは、彼らには他の人よりも状況がよく読めるからではなく、彼らの狙いがごく限られているからだ。

世界でも有数の富裕な実業家がさらに十億ドル儲けたいときには、そのために現在のシステムを容易に出し抜ける。

それに対して、世界の不平等を是正したい、あるいは地球温暖化を止めたいと思ったら、彼らでさえできないだろう。現在のシステムがあまりに複雑だからだ。


テクノロジーと、それをささえるデータへの信奉が進み、経済や政治がデータを中心にうごく世界が広がると、私たち人間はどうなるのか?

最初は、私たちが望む健康と幸福の追求を、データとテクノロジーにより加速させるだろう。それにより、データへの依存は進む。

不死と至福と神のような創造の力とを得るためには、人間の脳の容量をはるかに超えた、途方もない量のデータを処理しなければならない。

だから、アルゴリズムが私たちに代わってそれをしてくれる。

ところが、人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。

人間中心の世界観を捨てて、データ中心の世界観をいったん受け入れたなら、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれないからだ。

私たちは健康と幸福と力を与えてくれることを願って、自分のあらゆるデータを積極的にアルゴリズムに渡そうと励んでいる。

それなのに、そのアルゴリズムによる支配が進むと、人間はその構築者からコンピューターチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊(つちくれ)のように、データの奔流に溶けて消えかねない。


■そうして我々はマンモスと同じ道をたどっていく

そうなるとデータ至上主義は、ホモ・サピエンスが他のすべての動物にしてきたことを、ホモ・サピエンスに対してする恐れがある。

歴史を通して、人間はグローバルなネットワークを創り出し、そのネットワーク内で果たす機能に応じてあらゆるものを評価してきた。何千年もそうしているうちに、人間は高慢と偏見を募らせた。

人間はそのネットワークの中で最も重要な機能を果たしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを森羅万象の頂点とみなした。

残りの動物たちが果たす機能は重要性の点ではるかに劣っていたので、彼らの生命と経験は過小評価され、何の機能も果たさなくなった動物は絶滅した。

ところが、私たちが人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちはけっきょく森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。

そして、私たち自身が神聖視してきた基準によって、マンモスたとと同じ運命をたどる羽目になる。


■こういった可能性を前にして、何を考え行動をしていくべきだろうか

私たちには未来を本当に予測することはできない。

これらの筋書きはみな、予言ではなく可能性として考えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。

とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。

なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。

本書では、その制約をゆるめ、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付の源泉をたどってきた。

世界はかつてないほど急速に変化しており、とても手に負えない量のデータやアイデア、約束、脅威が、私たちに押し寄せている。

人間は、自由市場や群衆の知恵や外部のアルゴリズムへと、権威を明け渡している。それは一つには私たちが、殺到するデータを処理できないからだ。

私たちは何に注意を払うべきかまったくわからずに、しばしば枝葉の問題を調べたり論じたりすることに時間を使ってしまう。

古代には、力があるというのはデータにアクセスできることを意味した。

今日では、力があるというのは何を無視するかを知っていることを意味する。では、私たちの混沌とした世界で起こっていることをすべて考えると、何に焦点をあてるべきだろうか?

何ヶ月という単位で考えるのなら、中等の紛争やヨーロッパの難民危機や中国経済の減速といった、目の前の問題に焦点をあてるべきだろう。

何十年の単位で考えるのなら、地球温暖化や不平等の角田いや求人市場の混乱が大きく立ちはだかる。

ところが、生命という本当に壮大な視点でみると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。

1 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。

2 知能は意識から分離しつつある。

3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身をリスよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?

3 意識はもたないものの高度な知識を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?


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ということで、ちょっと長すぎましたね(汗。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作は、大変に「具体的なデータ」や

それにもとづく「具体的なシーン」に長けているので

氏の主張を理解するためにも、それらをふんだんにくわえたくなってしまい

どうしても長くなってしまいました。


まったくもってシンプルではないですし、拾いきれてない前提で

下記にさらに強引にまとめるとすると、本書はこんな内容でしょうか。


我々は、経済と科学の発展により、これまで最大の課題であった

飢饉や疫病や戦争を抑え込みつつある。

でも、進化のプロセスによって、どこまでも満足を止めない我々は、

今度は不死や幸福をさらに求めていくだろう。

それはヒトの在り方そのものにまで手を付け、まるで神の領域に立とうとするかのように。

そして、我々は、より健康で幸せを求めるがゆえに、

そのために経済の成長と科学の発展を求めていく道へと

ブレーキがかけうようが無く進んでいくかもしれない。

もはや誰もブレーキがどこにあるのかもわからない。

そうすると、気がつけば、我々が自由に意思をもって何かを選択することすら

テクノロジーに頼り、気付けば支配され、

経済的にも、政治的にも、美術の世界においても、我々の役割は失われていくかもしれない。

意識をもたぬ知能にまかせたほうが「快適」かもしれず、それでもさらなる快さを求めてやなない我々は

さらにテクノロジーに支配されていく道を喜んで進んで行くことになる。

気がつけば、ただアルゴリズムのネットワークに、様々なデータを提供する役割として

テクノロジーに生かされながら。

それは、我々の意識を捨てる生き方につながっていくかもしれない。

意識を捨てた新たな種(ホモ・デウスと呼ばれるような)に駆逐される運命の種に

自ら成り下がるかもしれない。

もしくは、止まらない経済発展と、科学への妄信が、生態環境のメルトダウンを加速させ、

自らの足元を溶かしていく事になるかもしれない。


瞑想もされている著者は、間にブッダの考えによる救済案をだしつつ、

おそらくヒトはそれでは満足しないだろうと語っています。

ですが、同時に、ここで述べられた内容は「予言ではなく可能性」とも語っています。

なんなら「可能性を具体的に示すことで、そうならないようにする新たな動きが生まれる」

ことを意識して、あえて、恐ろしくもある未来の可能性を警鐘とともに鳴らしています。


著者は決して、恐怖を煽ることを目的にするのでもなく、絶望をして本書を書くのでもなく

なんとか我々自身でこの課題を解決できないのかという思いで、そのキッカケを提供してくれてようとしています。

個々ができることは小さきことかもしれません。

ですが、これまでの"惰性"に身をゆだね、今の"価値観"や"心地よさ"にばかり流されるのではなく

あえて立ち止まり、自身に問い直し、行動を変えていけることを探していく。

これが、まずは我々一人一人が行っていけることかもしれません。


まずは、自分も、小さき存在ながら、考え、自身に問い続け、

行動をしていきたいと思います。


お付き合いくださり、有難うございました。

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