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「過ちは繰り返しませぬから」と胸を張れるために - 映画「オッペンハイマー」を観て

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クリストファー・ノーランの映画「オッペンハイマー」を(今更ながら)観させて頂きました。 広島、長崎が甚大な損害を受け、現代に至るまで多くの人を苦しめた原子爆弾。 その開発を率い「原爆の父」とも言われたロバート・オッペンハイマーを描いた映画です。 日本でいろいろな賛否両論があった映画と聞いています。 僕個人の感想としては、この時期にこの映画が生まれたことは 大変に意義があると感じております。 改めて、この平和記念公園の碑に刻まれた言葉が 現代にも広く そして未来にもできるだけ長く伝わることを願ってます。 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」 この映画は、この言葉が伝わっていくための 大切な役割の一片を担っている。 そう、自分としては感じております。 我々は 自分たちが生み出したものが、 どれだけの悲惨を生み出すのかを知るべきではないでしょうか。 「我々」というのは、 もちろん「原爆を落とした」アメリカ人だけでもなく、 その開発に関わった個々の人々だけでもなく、 その引き金となった戦争を起こした日本人だけでもなく、 「人類は武器があると知れば全て使う」傾向をもち その行為を続けて今にいたる、 すべてのヒトが 自身やその集団が起こした事として、 この惨事を知るべきではないでしょうか。 これは、決して「悪い人たちの起こした出来事」などではなく 我々の誰もが、その惨事へと与する可能性のある存在なのだと 自覚することが、 「過ちは繰り返しませぬ」ために大切なのでは。 そう思うのです。 集団の声に押され、そのうねりに流され 正しい道を見誤り、間違った道を正当化しつつ 集団の一員として、間違った道へと猛進してしまう性質をもった ひとりのヒトとして、 この惨事を 自分ごととして見つめるべきではないだろうか。 そう感じております。 その当時の世論としては、"原爆を創る"という行為は それ以上進むかもしれない大量殺戮の戦争を止めるための「正義」であったかもしれないけれど、 個々人の感情では様々な葛藤や苦しみにあふれており、 自身が「人生を賭して努力し頑張った」結果がもたらす影響を全く知らない人が大半であり もしくは、もたらす影響をなんとなく知っていても、 人類初めての行為に、その結果の予想をできる人などほとんどいなかったかもしれない。 あくまで現代から...

「対話」は幸せをもたらすツール

昨日頂いた対談は アリストテレスの説く「幸福」を哲学するのがテーマでした。 自分は、アリストテレスどころか「哲学」を語れるほど ソレが何なのか分かっちゃいない薄っぺらな理解しかできてない人間です。 その前提で…、ということでお話をさせて頂きました。 お付き合い頂いた皆様、有難うございました。 このブログは、その内容を、簡単にまとめたものです。 つまるところ 「対話」は 自分が幸せを感じやすくなり 集団にも平穏をもたらしやすい大切なツールでは という内容です。 「幸せじゃない」と感じるのは、 何かが「思う通りでない」という解釈が生んでいる。 お金がない(思うように持ててない)、 頼れる誰かが(思う通りのようには)いない、 能力が(思う通りにもてて)ない、 これまでひどい過去だった(思うような過去はもててない)、 親の介護や子どもの不登校や自分の健康不安などで思う通りの生き方になってない、 などなど…。 ここで大切なのは 「幸せじゃない」という"感覚"を生むトリガーとなるのは 「解釈」という脳の"思考"であることです。 「考え方が悪い、解釈の仕方が良くないから、満たされを感じないのだ」 などと言いたいのではありません。 「解釈の生まれ方は変えることができて、そうすれば感じ方も変わる」 という事をお伝えしたいのです。 精神を鍛えろとか、ポジティブ思考になれ、といったコトではありません。 感情という体験は脳のどの回路が働くかによって変わる というのが最新の脳科学の知見です。 つまり、働かせる脳の回路が変われば(解釈が変われば) 感情の内容も変わる。 ※詳しくは 「幸せな脳」の育て方~脳と感情と身体の関係から学ぶ幸せな生き方へのヒント のブログをご笑覧くださいませ。 やっかいなのは、解釈をもたらす脳の回路は 固定化されて、無自覚で勝手に働きがちということです。 勝手に自動で脳で生じる解釈が、それに伴う固定の感情を湧き起こしてしまう。 それは、いわば「自然に(無自覚で勝手に)生じる」現象でもある。 なので、その状態で「ポジティブ思考になろう」とアタマで念じても、 感情はすでに起きており、どうしようもない。 では、どうしたら? 「一度まっさらな気持ちで、違う解釈の可能性を自分に問いかけてみる」ということです。 たとえば「お金がない」ことが不...

ネットとの「ほどよい距離感」の生き方

自分は インターネット(特にSNS、Youtubeなどの動画サイト、ニュースサイト)への接触はできるだけ限定的にさせて頂いております。 Xも、投稿するのが専門で、他の人のタイムラインはほぼ見ておりません。 (ネ申の投稿は、ヒトの投稿を超えていらっしゃるので、有り難くも唯一、拝見させて頂いておりますが😅) とはいえ、このブログもインターネット上に一方的に置かせて頂いたものですし Xでも、好き勝手に発信するだけでしかなく、 まことに自分勝手な在り方でして、申し訳有りません。 一方で、「 龍光ポスト 」からのお便りだけは、欠かさずチェックし、 ほぼ24時間ほどで全てお戻しさせて頂いております。 と、これは、あくまで、現時点での自分なりの「ネットとの距離感」です。 前世では、ネット漬けの時間ばかりでしたが、 得度した後は、一度全てのSNSアカウントも閉じ、 ブログもポッドキャストもあらゆるネットでの発信を閉じたこともありました。 なぜ、このように、ネットとの「ほどよい距離感」が変化してきたかについて 勝手ながら書いているのが、このブログです。 お断りのとおり、一方的な内容でしかありませんおで、 あくまでご興味あれば、ご笑覧くださいませ。 いまのネットとの「ほどよい距離感」は かつて体験したような 誰かの評価ばかりを気にして生きる生き方になってしまったり 誰かの用意した心地よい世界が自分の全てのように錯覚してしまったりして 自分が心から感じとれる世界が見えなくなったり 心から進みたい道を進んでいくことがしにくくなってしまわないための、 自分なりの「気をつけ方」から生まれた距離感です。 前世では、自分のSNSの投稿がどれだけ「いいね」をもらえるか フォロワー数がどれだけ増えたかが気になって、 しょっちゅうSNSを覗きにいってました。 ネットと呼ばれる「画面」を眺めてばかりの生き方とも言えるかもしれません。 それはそれで、楽しい時間を頂戴し、有り難い体験でもありました。 ですが、世の中の秀才をあつめ、最新のテクノロジーにより 「いかに長く見てもらうか」の技術がつまったSNSのタイムラインや動画/ニュースサイトは 気がつけば「ついつい、はまり込んで見つづけてしまう」ように創られている。 (前世での自分の職業でも、そのようなサービスを作ることに時間を注いでおりました…。) どんな投...

「見たい世界しか見えてない」と感じると、セカイは生きやすくなるのかも

「曇りなき眼で見定める」ようになりたいものですが、 現実は「見たい世界しか見えてない」のかもしれない。 「"自分にとって都合がよいように感じる"世界のありかたが、そこにあると感じている」のかも。 それは、実は万人にとっての真実の姿ではないかもしれないのに 「自分にとってはそう感じるから、世界はそうであるに違いない」と錯覚して見てしまっているのかも。 以前、最新の脳科学と仏教の知見より「意識」という存在について自分なりにまとめたブログ 「"わたし"という意識」について = 脳科学と仏教の視点より で詳細させて頂きましたが 我々が自覚している「わたしや周囲やセカイ」という意識(自覚)は、 自分の脳が無自覚のうちに創り出した「自分にとって説明しやすい、都合がよい物語(すがた)」として、生まれている。 意識(自覚)という体験で感じる「わたしが感じるセカイのありかた」は 自らの意思や解釈を元に起こしているのではなく 無自覚のうちに勝手に創られ、自動的に沸き起こってくるようなものである。 けれども、それが「無自覚のうちに作り出された物語」などとは感じられなく 「自分がそう考え、感じている」としか感じられない。 でも、それは錯覚で、 いわば「自分の脳が無自覚に編み出したストーリーを、さも自分が自ら考え感じ取った」 としか、実感できない。 たとえば、我々が水を飲もうとコップに手を伸ばそうと「自覚し考え、行動しようとする」 随分前から(場合により何秒も前から)、 脳では手を伸ばそうとする行動の準備が始まっている。 自分は「水を飲もう(と手を伸ばそう)」と自覚できている前から。 でも、自分の感覚(意識)では「水を飲もう(として手を伸ばそう)」と感じたから、 自らの意思で手を伸ばしているんじゃん、としか感じられない(意識できない)。 これは、意識という体験の性質上、どうしようもない。 無自覚でおきた脳のプロセスなのだから、意識のうえでは自覚しようがない。 まるで「(視覚で)水の入ったコップを見ている」ように感じているけれど、 実際には網膜に映った光を感じているだけで、 それを起こしている網膜自体は自分では「見る」ことができないように。 さて…、以上の科学の知見が万能で絶対的な真理かどうかはさておき、 この知見からの学びとしては 結局は我々は つねに...

自分なりの「ほどよさ」を育てるということ

  今日、東京のビジネスセミナーでお話させて頂くテーマは 「ほどよい経営」です。 超シンプルにまとめると 人生というのは自分だけの一つの"事業"では。 ヒトが生きるという行為そのものは 自分を「なんとかして生かしていく」という"経営( = mangement = なんとかする)そのものでは。 だれしも自分が大切なのだから、まずは自分こそ「なんとかしよう」と生きるもの。 でも、どこまでいってもヒトは周りのヒトと支え合いが必要だし、自然の一部であることからは離れられない。 自分ばかりとワガママになりすぎると、周りのヒトや自然を踏みつけて 自分を支える足元を崩す結果になりうる。 自分(の事業)こそなんとか生き延びようとするのは、 生きる性(さが)だけれど、自分ばかりになると、支えを失う。 特にビジネスでは数字の膨らみが無限に続く中で、 自分たちこそ「もっと」とキリなく膨らませたくなりがち。 でも、それは周りや自然を踏み潰す行為になりうる。 だから、自分とまわりとの「ほどよさ」を見つけ、保つ努力が必要になる。 自分の「ほどよさ」は自分でしか見つけられず、 探し回る行為をしてこそ、バランスのとれる"支点"が見つけやすくなるもの。 膨らまし過ぎぬよう、しぼみ過ぎぬよう。 自分が全てをコントロールできると錯覚し、 心地よさだけを求めて支点を忘れて、どこかで心身を崩さぬよう。 それは自分を律し、自分自身を「なんとかする(manageする)」こと。 自分という人格を磨き育てるということでは。 自分という生きざま、自分という事業を磨き育てることでは。 そんな内容を、先日のインドや能登半島での行脚の体験を元にお話させて頂く予定です。 今日はたまたまビジネスセミナーという場での機会ですが、 この考えは、ビジネスに関係なく、「生きざま」全体に通じることだと考えています。 自分の生きざまそのものが、自分という事業、と捉えることができるのでは。 そう、勝手ながら考えております。 仕事を与えてくれる会社は「法人」と呼ばれ、 "人格"が与えられるワケですが(実印を登録したり、誰かを訴えたり、生まれたり、死んだり、ヒトかのように振る舞える資格を与えられている)、 実際にはどこにも"ヒト"はおらず、「概念上の人格」...

掴みたい"何か"は、今も手にしているかもしれない

「稼げるようになったら」 「有名になったら」 「成功者になったら」 「ソレがつかめれば、ソコまで行ければ、自分は満たされるハズ」 と感じさせる"何か"は 蜃気楼のような 幻想のような つかめるようでつかめないモノかもしれない。 それらは、全て「掴んだら次のステージらしき"どこか"に進める」と 期待させる だけで 実は蜃気楼のような、幻想のような"何か"なのかもしれない。 このブログは 「あそこまでたどり着けたら」といった"何か"を求めない方がいい、 と主張したいワケではありません。 その"何か"は、そこへ向かっているだけで、実は手にしているかもしれない、 そういったことをお伝えするブログです。 "何か"を求め、期待するから、 ヒトは成長への努力も生まれ、生きる希望も沸いてくるもの。 でも、掴めるかどうかの結果が重要なのではなく、そこへ向かおうとしているプロセスこそ重要なのでは。 そんな内容です。 「それは、すでに何かを掴んだヒトだから言えることでしょ?」 と感じるかもしれませんが、 その「そこまで行けたら/掴めたら、人生完成」という"何か"など存在せず、 その"何か"は、どこまで言っても蜃気楼のように、つかめるようで掴めないものなのでは。 なぜなら、その"何か"は 「未来の可能性に対する"期待"」でしかないのだから。 "期待"を求めている以上、手にしたら「期待する対象」ではなくなるものなのだから。 「掴めるかどうか!?」と 期待させ 、ワクワクさせ、 「やった!掴んだ!」と感じた悦びの瞬間から "消えて無くなる"心地よい刹那な体験なのだから。 掴んだハズなのに、その実感が無くなっていくから 常に、「次も掴みたい」と 期待させる 。 だから時に、「自分は、まだ掴めてないのでは」と錯覚させ 「自分はそこまでたどり着けてない」と感じさせる。 おギャアと無事に産道をくぐり抜けて生まれ落ちて息をできているだけでも、 日本語という難しい言語を操ることができているだけでも、 「充分りっぱな成功」を掴んでいると言えるかもしれないのに。 あらゆる「...

見ている世界を曇らせる"慢"というもの

 我慢、自慢、慢心… 「慢」という単語が使われた言葉は多いのですが これらは仏教が語源(サンスクリット語のMāna) で、 意味は、自分を他と比較し優劣をつけること。 自分を他者より優れている 自分は他者より劣っている どちらも「慢」。 避けるべき"煩悩"とされてます。 自慢や慢心は、わかりやすいでしょうか。 自分をひけらかすヒトはあまり好ましく映りませんし、 慢心をすれば、油断して失敗をしやすい。 我慢は、我こそが優れているという「高慢さ」があるために 「自分の思う通りではない」と不快さを感じる状態。 つまりは「自分の思う通りになるはず」という、 いわばワガママがあるから 「我慢せねば」という気持ちにつながる。 「思う通りにならぬことだってあるよね」という心持ちで流せれば、 そもそも「我慢しなきゃ」と感じる心すら生まれない。 そしてオモシロイのは「自分はイケてない…」と 自身を卑下するような他との比較も、同じく避けるべき煩悩の「慢」。 他人は他人の人生を生きるのだし、自分は自分の人生しか生きられないのだから、 他と比較して落ち込んでも、自信を失うだけで、よいことはない。 さて、これらの「他との比較による優劣づけ」が起こる 原因も 仏教で語られてます。 それは、他と比較する「わたし」という錯覚があるから。 これが仏教的な「慢」の原因とされてます。 え、「わたし」という錯覚…? 何言ってるの?わたし、存在してるし!錯覚なんかじゃないし! と感じますでしょうか。 ここについては、別なブログ 「"わたし"という意識」について = 脳科学と仏教の視点より  に書かせて頂きましたが…。 少しだけ触れると、実は、最新の脳科学の知見からみても、 「わたし」という概念(意識)は、 実は確たる実体など持たぬ「脳が進化の過程で生み出した想定の概念」とされてます。 脳内の様々な解釈の集合のなか、つねに揺らぎ変化し続けるなか 自分に都合よく(合理的にまとめ上げられた)イメージとして 「わたし」という概念が意識に浮かんでくる。 なんじゃそりゃ? でも、わたしの身体、 錯覚じゃなく、確かにここにあるし。 そうなのですが、物理的な身体の「わたし」ですら 常に大量の細胞が入れ替わっていて、確たる一つのものとは言いがたい。 イメージとしては、空中の雲のように、...