掴みたい"何か"は、今も手にしているかもしれない

「稼げるようになったら」

「有名になったら」

「成功者になったら」


「ソレがつかめれば、ソコまで行ければ、自分は満たされるハズ」

と感じさせる"何か"は

蜃気楼のような

幻想のような

つかめるようでつかめないモノかもしれない。


それらは、全て「掴んだら次のステージらしき"どこか"に進める」と期待させるだけで

実は蜃気楼のような、幻想のような"何か"なのかもしれない。


このブログは

「あそこまでたどり着けたら」といった"何か"を求めない方がいい、

と主張したいワケではありません。

その"何か"は、そこへ向かっているだけで、実は手にしているかもしれない、

そういったことをお伝えするブログです。


"何か"を求め、期待するから、

ヒトは成長への努力も生まれ、生きる希望も沸いてくるもの。

でも、掴めるかどうかの結果が重要なのではなく、そこへ向かおうとしているプロセスこそ重要なのでは。

そんな内容です。


「それは、すでに何かを掴んだヒトだから言えることでしょ?」

と感じるかもしれませんが、

その「そこまで行けたら/掴めたら、人生完成」という"何か"など存在せず、

その"何か"は、どこまで言っても蜃気楼のように、つかめるようで掴めないものなのでは。


なぜなら、その"何か"は

「未来の可能性に対する"期待"」でしかないのだから。

"期待"を求めている以上、手にしたら「期待する対象」ではなくなるものなのだから。


「掴めるかどうか!?」と期待させ、ワクワクさせ、

「やった!掴んだ!」と感じた悦びの瞬間から

"消えて無くなる"心地よい刹那な体験なのだから。


掴んだハズなのに、その実感が無くなっていくから

常に、「次も掴みたい」と期待させる

だから時に、「自分は、まだ掴めてないのでは」と錯覚させ

「自分はそこまでたどり着けてない」と感じさせる。


おギャアと無事に産道をくぐり抜けて生まれ落ちて息をできているだけでも、

日本語という難しい言語を操ることができているだけでも、

「充分りっぱな成功」を掴んでいると言えるかもしれないのに。


あらゆる「成功」の体験は、掴んだと思った瞬間から、

その実感が薄れ消えていくもの。

それは、かつて"期待"していたモノで、

手にしたら「期待する対象」ではなくなるモノなのだから。

刹那な「満たされ感」しかもたらしてくれないモノなのだから。

繰り返しですが、刹那な悦びかもしれなくても、その"何か"を期待するのが良くないと言いたいワケではありません。

"何か"を期待をするから

生きる希望が生まれ、努力が生まれ、人生の充実につながるわけで、

その"何か"を求めるのは人生において大切だと信じています。


ですが、その"何か"は

「ソレを掴めば、ソコまで行ければ、満たされるはず」と囚われるほどに

ヒトを苦しめるモノに変わっていくのでは。


資産、名声、立場、権力、成功…など。

「自分はまだその立場にたどり着けて無い」「そこまで成功できてない」と感じると

自分を苦しめる。

「まだ足りない」「どこまで行けばいいのだろうか」と苦しみが膨らんでいくかもしれない。


さらに、自分ではない誰かと比較をするほどに

「やっぱり自分は足りてない」「あそこまでたどり着けてない」「まだ成功とはいえない」

と、さらに自分を苦しめる。

時に自分の自信を失わせる。

自分の未来への"期待"をも、奪っていく。


大切なのは、求めている"何か"は

常に「未来の可能性に対する"期待"」でしかないのだから

どこまでも「自分を満たしきる"何か"」にはならないと自覚することでは。

その"何か"を求める全てのプロセスは、そのヒトを育てる貴重な体験となるが、

"何か"が「人生のゴール」にはなり得ないと自覚することでは。

未来は、常に今の先に伸びていて、どこまでたどり着いても

「まだたどり着けてないどこか(未来)」を感じさせるものなのだから。


大切なのは、"何か"を掴むことが人生のゴールなどではなく、

その"何か"を求めるプロセスなのでは。

そこで得られる全ての体験なのでは。

これまでにだって、様々な「期待」を目指し、掴んだり、逃したりし続けてきているハズでは。

うまく自転車に乗れるようになったり、クラスで気になる人とお話できたり

誰かに褒めてもらったり、挨拶したらにっこり返事してもらえたり…。


「そんな小さなことでは、『たどり着いた』とか『掴んだ』と言えるモノではない」

と感じるかもしれませんが、

全ての「まだ体験してないコト」は、

どれだけ体験を積み重ねても「まだたどり着けてない」モノでしかない。

自分にとって「ちっぽけな体験」でも、まだそれを体験してないヒトには

「自分はまだ掴めてない側の存在」と感じさせる。


自分はまだ掴んでないから「掴んだ側のヒト」が羨ましく感じさせ、

それを手にしなければ自分はどこかにたどり着けてないように感じさせる。


でも、

恋人を作ったりや結婚することが人生のゴールでもなく、

憧れの会社に就職したり、目指す地位を手にするのが人生のゴールでもなく、

手にしたい富や名声を手にするのが人生のゴールでもなく、

その後にも人生は続いていく。


その"何か"は、せっかく掴めたと思っても、

将来失ってしまうかもしれない不確かなものかもしれない。

でも、その"何か"を手にしようと得てきた体験は、

その後の人生に積み重なっていく。


人間関係の難しさや悦びを味わったり、

努力して何かを掴む成功体験や、挫折から這い上がる体験を味わったり、

それらの体験は、全て、自分の人生の一部として残っていく。

そのプロセス全てが、人生の糧になるのでは。

それが、実は「掴みたい」"何か"なのかもしれないのでは。


その体験の程度が、大きいか小さいか、高いか低いかなどは重要ではない。

「自分にとってまだ体験してない体験」ならば、

すべて「自分にとって、成長につながる体験」として、重要なのだから。

それら全ては、今後の自分の人生の糧になるのだから



だから、自信をもって、まずはその"何か"へと向かっていけばよいのでは。

その"何か"を得ようと、一歩踏み出してみればよいのでは。

ソレが手に掴めるかどうかは、ワカラナイ。

ソレが価値があるものなのかも、ワカラナイ。

手にしたって、失うかも、ワカラナイ。

けれど、手にしようと向かっているかぎり

その過程での全ての体験は

確実に自分に刻まれていく。

その「体験」そのものは、未来の自分への滋養になっていくはず。

それは、今、向かっている瞬間も「手にできている」モノなはず。

一度掴んだら、無くなるものではない、確かなモノなはず。


実は、ソレらを手に入れようとする

その「手に入るかどうか」という「体験」自体が

手にしたい"何か"なのかもしれない。


だから、まずは、ひとまず"何か"を感じさせるソレへと一歩踏み出して行けばよい。

まだ「何も掴んでない」「たどり着いてない」と感じる人こそ、

自信をもって「向かっている限り、手にしている連続なのかも」と

自分に言い聞かせてみては。

そう感じております。


もし、その"何か"を得てきた実感も自信も生まれているようなら

今度は、求める"何か"の対象を考えてもよいかもしれない。

欲する"何か"なら、なんでも求めて踏み出せばよいワケじゃないかもしれない。

自分のためでもあり、誰かの喜ぶ"何か"であるほうが、

きっと、自分にとっても「満たされ」を与えてくれる"何か"になるかもしれない。


富も権力も名声も、

それを手にできた能力や運は、誰かの支えがあって成り立ったもののはずなのだから。

それらは、独り占めしようとするほど、やっかみも買うし

チャンスを獲られたという恨みを買うかもしれないのだから。


ヒトは群れないと生きていけないのだから、

自分だけが満たさようとすると、結局自分の周りから支えを失いがちになる。


なので、"何か"を手にしてきた実感が自信があるならば、

その対象を、自分だけの"何か"から、周りも喜んでくれそうな"何か"に変えて努力していくと

自分はより満たされるかもしれない。


いずれにせよ、"何か"が手に入らなければ人生が満たされないワケではなく、

その"何か"の大小は自分にとってのものでしかなく、

"何か"を手に入れようとする全てのプロセスに、その体験に、

自分の人生の満たされの糧があるのでは。


時に「まだたどり着けてない」「手にできてない」と感じさせるけれど、

それは「今ここでは掴めない未来」を掴みたいという"期待"であって、

それに囚われると、苦しみを生み出すかもしれないのでは。


大丈夫。

掴めるのか、たどり着けるのか、なんて、未だ来ぬ未来だからワカラナイけれど

ソレに向かって前を向いて歩こうとしている限りは

「体験」というプロセスを手にし続けている時間となるのでは。

実は、それが、欲している"何か"を手にし続けている生きざまとなっているのでは。


そんなふうに、勝手ながら感じております。


今日もお付き合いくださり、有難うございます。



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