「対話」は幸せをもたらすツール
昨日頂いた対談は
アリストテレスの説く「幸福」を哲学するのがテーマでした。
自分は、アリストテレスどころか「哲学」を語れるほど
ソレが何なのか分かっちゃいない薄っぺらな理解しかできてない人間です。
その前提で…、ということでお話をさせて頂きました。
お付き合い頂いた皆様、有難うございました。
このブログは、その内容を、簡単にまとめたものです。
つまるところ
「対話」は
自分が幸せを感じやすくなり
集団にも平穏をもたらしやすい大切なツールでは
という内容です。
「幸せじゃない」と感じるのは、
何かが「思う通りでない」という解釈が生んでいる。
お金がない(思うように持ててない)、
頼れる誰かが(思う通りのようには)いない、
能力が(思う通りにもてて)ない、
これまでひどい過去だった(思うような過去はもててない)、
親の介護や子どもの不登校や自分の健康不安などで思う通りの生き方になってない、
などなど…。
ここで大切なのは
「幸せじゃない」という"感覚"を生むトリガーとなるのは
「解釈」という脳の"思考"であることです。
「考え方が悪い、解釈の仕方が良くないから、満たされを感じないのだ」
などと言いたいのではありません。
「解釈の生まれ方は変えることができて、そうすれば感じ方も変わる」
という事をお伝えしたいのです。
精神を鍛えろとか、ポジティブ思考になれ、といったコトではありません。
感情という体験は脳のどの回路が働くかによって変わる
というのが最新の脳科学の知見です。
つまり、働かせる脳の回路が変われば(解釈が変われば)
感情の内容も変わる。
※詳しくは
「幸せな脳」の育て方~脳と感情と身体の関係から学ぶ幸せな生き方へのヒント
のブログをご笑覧くださいませ。
やっかいなのは、解釈をもたらす脳の回路は
固定化されて、無自覚で勝手に働きがちということです。
勝手に自動で脳で生じる解釈が、それに伴う固定の感情を湧き起こしてしまう。
それは、いわば「自然に(無自覚で勝手に)生じる」現象でもある。
なので、その状態で「ポジティブ思考になろう」とアタマで念じても、
感情はすでに起きており、どうしようもない。
たとえば「お金がない」ことが不幸感を感じさせるとしたら、
その解釈を一度見つめ直してみてはどうでしょう。
具体的にいくらあれば満足するのだろう。そのお金で、具体的に何があれば満足するのだろう。
果たして、お金で買いたいと感じさせるそのモノや体験を手にしたら、
その後の人生に、ずっと幸せが続いていきそうなのだろうか。
結局は、お金は、食べ物、風雨を凌ぐ服や場所、心地よさをもたらす体験、技術や知識の学び、などなど「何か」を手に入れるためのツールでしかない。
「何か」は手にしても、その瞬間は「うれしい・たのしい」けれど
その直後から、その心地よさは消えてゆく。また、日常にもどっていく。
今この瞬間、ある程度お腹が満たされて、風雨に震えず過ごせていていられれば
未来は何歳まで生きるのか、どういう環境になるのか、誰もわからないのだし
ひとまず今は生きられている。
「お金がないのは苦しい」と感じているけれど、
そのお金で具体的に何を手に入れたら幸せになれるかまでは、よく見えてないのでは。
それは、もしかしたら、この先の未来の見えなさが不安にさせているだけなのでは。
とはいえ、未来は「未だ来てない」し誰にもワカラナイのだから、どこまで考えても
永遠に「わかりっこない」「行ってみなきゃワカラナイ」ものでは。
「足りない」と感じているのは、「お金」そのものじゃなく、
未だ来ぬ未来に向かっていく勇気や自信が足りてないだけなのでは…。
そしたら、あとは、今持っているお金や、これからの努力でなんとかしていくしかないのでは…。
じゃあ、なんとか頑張ってみるしかないか…。
と、脳内妄想劇場をお届けしましたが、
これは、ひとつの「違う解釈の可能性」を自身に問いかける行為による
「感じ方(感情)の変化」の例です。
「そんなにウマくいかないヨ!」と感じるかもしれませんが、
もう少しお付き合いくださいませ。
解釈や、それにともなう感情の起こり方は
これまでの人生経験を通して「型がつくられている」。
「クセ」といってもいいかもしれません。
とある政治家の不正のニュースをみた途端に
何か感情が生まれてくる…。
「ふざけんな」と怒りがおきたり
「この先大丈夫かしら」と不安が生まれたり
「なんとかせねば」とエネルギーが沸いてきたり
…など
同じ事象に対しても、感じ方はそれぞれです。
これらの、いわば勝手に自身の中から沸き起こってくる感情は
我々がこれまでの経験で育ててきた「解釈の型」が起こしている。
自然と沸き起こる「考え方/受け取り方のクセ」みたいなもの。
これは、これまでの人生経験で育ってきた
「自動で無自覚に働かせる解釈」の脳回路みたいなもの。
この回路は「無自覚」で自動で働き、
気付いた時には「解釈」や「感情」を自動で沸き起こらせていく。
自覚できた時には「そうとしか考えられない」「そうとしか感じられない」ものに感じさせる。
それが「クセ」というか「解釈の型」みたいなもの。
歳を取るごとに、この「型」はしっかりと固定化していき
ゆえに、歳をとるほど「頑固」になりやすい。
一つの考え方や感情の起こり方ばかり生じやすくなる。
いつも不安になったり怒りっぽかったり。
そして「執着」も生みやすくなる。
「病気になったらどうしよう」
「こんな経済状況じゃやっていけない」
「なんであの時あんなことしてしまったのだろう」
これらは、執着として膨らみうる。
脳神経は、刺激を与えるほどにその回路(神経のつながり)は強化されがちなので、
その対象について考えるほどに
その脳回路(解釈の仕方、考え方)が、どんどん強く強化されていく。
そればかりが意識を埋め尽くして、
その解釈がもたらす感情に沈んでいくような苦しさが増していく。
これが、執着が苦しみを膨らませる仕組み。
そう考えています。
でも、そこで、たとえば散歩や掃除など、別な出来事に意識を注いでいって
苦しみの対象となるコトが意識のコップから流れていけば
苦しみが膨らむサイクルから離れて
気がつけばすこしスッキリとした気持ちが生まれていく。
そして、
「未来は未だ来てないんだし、行ってみないとワカラナイし
過去は過ぎ去って変わらないんだし、今しか生きられないんだし…」
のように、
違う考え方/解釈が生まれてくれば(=違う脳回路が刺激されれば)
苦しみから離れていきやすくなる(執着を手放しやすくなる)。
さて、ながーい脱線をしてきましたが、
このお話と「対話が自分や集団の幸せをもたらす」オハナシがどうつながるのでしょう。
同じ解釈や考え方をするほど、その脳回路は固定化され強固になり、
その回路ばかりが働きやすくなる。
それは「おなじみの考え方」なので、ラクで心地よい。
違う考え方を試みる、新たな回路に電気を流そうとするのは、
エネルギーがいる。時に苦しい。
でも「一つの解釈や考え方」に凝り固まるほどに、
「違う考え」を目にした時に「思う通りでない!」という苦しみが膨らみやすくなる。
なぜなら「自分は、そうとしか感じられない」のだから。
本来、人は考え方や感じ方も、それぞれなのが、自然の姿なのに。
同じ花でも、実に色も形も様々なものであるように。
だからこそ、「一つの解釈や考え方」に囚われない脳を育てるのが大切なのでは。
「違う解釈や考え方の可能性」に意識を注げ、
違う脳回路を働かせ、育てる機会が重要になってくるのでは。
「違う解釈や考え方」を育てるのは、一人では簡単ではありません。
特にすでに、自分なりの考え方や信念がしっかり育っているほど
自覚せずに自動で働く脳回路も育っており、違う回路に電気を流すことは簡単ではない。
そこで大切なのは
「違う解釈や考え方」を持つ、自分ではない誰かと対話することだと考えています。
「対話」は
対等に話をしあうことです。
自分の話を一方的に喋ることは、対話とはなりにくい。
相手の話に耳を傾けないことは、対話とはなりにくい。
自分の話を「相手に伝わるよう」努め、
相手の話を「自分なりに理解しようと」と努める行為が、
対話というものだと考えています。
特に「相手を理解しようと」務めるのが難しい。
その前に「自分を理解してもらおう」としたくなる。
相手にまだ言い分が残っているのに、
「自分が伝えたいことを分かっているの?」という気持ちが先行すると
相手を理解しようとするどころか
「自分の価値観を押し付けようとしている」だけになりうる。
これは対話とはいえないかもしれない。
まずは、しっかりと相手の話を聴くところから、
対話が生まれうるのではないかと思うのです。
なぜなら、自分の事を聴いてくれそうな人じゃないと
その人には自分の考えを伝えたいと思いにくいから。
「この人には言っても伝わらない」と思ったら、話をしたくなくなるものだから。
時に自分には全く賛同できない価値観や考え方に対しても、
賛同する必要はなくとも、「そういった考え方がある」という事実や
そういった考え方が生まれてきた背景を理解しようとする努力はできる。
そこから、対話が生まれうる。
対話から相互理解が生まれてはじめて、信頼関係も構築できる。
「絶対に違う」「こちらが正しい」と、
相手への理解を示そうとしない態度は
分断をうみ、時に闘争や紛争を生んでいく。
それは、集団としても幸せな方向には進みにくい。
そして、対話は、自分が「こうに違いない」という考えに固執しているかもしれないと
自覚する機会も与えてくれる。
自分とは分かち合えない意見や考えも、存在するものでしょうが、
そこで「絶対に違う」「こちらが正しい」とシャッターを下ろすのではなく
「もしかしたら相手の言う事に一理があるのかも?」
「そのように考える背景にはどのような考えがありうるのだろうか?」
と新たな考え方や解釈の可能性を探る機会にすることもできる。
それは、自分の「固定しがちな脳回路」以外の新たな脳回路を育ててくれる機会になるかもしれない。
それは、結果的に、執着からの苦しみから離れやすくしてくれて
おだやかな時間を得やすくなるかもしれない。
「哲学」とは、疑問を持つこと、と理解しています。
自分の「これが正しい」という考えにも「果たして、それは本当に正しいのだろうか」と
あえて問いかけてみるように。
相手への「そんなわけない」という考えにも「果たして、間違っていると言い切れるのだろうか」と
あえて考え直してみるように。
とはいえ、自分だけでそれを行うのは簡単ではない(哲学者という方々は、それを深く潜り込んでいくだけの思考力と精神力を備えた方々なのでしょう)。
だからこそ、誰かとの対話は、時に自分にとっては違和感のある解釈に触れる機会もうまれ、
それは時にエネルギーもいるし、苦しい作業かもしれないけれども、
そこで「そんなわけない」と扉を閉じずに、
想像力を働かせ、自分に疑問を投げかける機会にもしていける。
自分の新たな回路の成長を生むチャンスにもしていける。
その訓練を重ねることで、
もしかしたら、「なんでこんな状態なんだ」という解釈に対し、
「とはいえ、こうとも考えられる」と違う解釈が持てるようになり、
苦しさばかりをもたらす解釈ではない、
少し満たされをもたらす解釈(の脳回路)を持てるようになるかもしれない。
それまでは「あの人の考え方は理解できない」と、距離があった人に対しても
「ああいった考え方も成り立ちうるのかも」という理解が生まれ、
距離が近づく機会になるかもしれない。
そんなふうに、対話は、自分の心のおだやかさに繋がり、
対話が広がると、集団の相互理解も進みやすくなり、分断や紛争も、少し和らぐのでは。
簡単ではないことですが、
まずは、自分から、対等な会話としての対話を常に心がける。
直感的に「間違っている」と感じさせる内容に触れても
それはこれまでの自分の脳内で固定化された脳回路が自動応答で感じさせているだけかもしれないのだから
あえて「間違っているとは言い切れないかも?」と自身に問いかけ、
相手の考えを理解しようという努力を試みる。
それが、しなやかで凝り固まらない脳を育て
様々なタイプの人とも心おだやかにつながりやすい心を育て
幸せをもたらしてくれるのでは。
そんなふうに、願いとともに考えております。
今日もお付き合いくださり、有難うございました。