自身の成長こそ次世代の成長につながるものかも
自分は子どもを育てたことがない人間です。
なので「教育」を語る資格など無い、というご意見もあるかもしれません。
けれど、教育を受けた事はあります。
って、みんなそうなんですが😅。失礼しました。
有り難いことに、子どもたちや教育者の方々向けへのお話の機会を頂戴したり
龍光ポストでも、子どもとの接し方に関するご相談は実に多く
「教育」について考える機会を頂く日々です。
今回新たに、特別支援学校の先生方へのお話の機会を頂戴し
改めて「特別支援学校」について調べてみました。
驚いたことに、少子化の中で、特別支援学級に通う生徒の数は増加を続けている。
いくつかデータがありますが、ここ10-15年で10倍!にまで増えているというものもあります。
一方、先生の数や学校の数はむしろ減っている。
この情報だけで、すぐに答えに飛びつこうとするのは、脳のいたずらで
偏見を生みやすいものなので、冷静に受け取らなくてはならないのですが、
かつては意識を向けられていなかった、
"多動症"や"自閉症"といった"発達障害"と呼ばれる「症状」が認知されるようになり
時には「医療」の対象になったり
そういった「症状がある」とされる子たちも特別支援学級に通うケースがでてきていて
「特別支援学級の対象の子どもの範囲が拡がった」という背景もあるようです。
そこでは「発達障害」という名前が一人歩きし、
もしかしたら、一時的な現象で、時間とともに緩和するかもしれない子どもの状態に
「発達障害」というラベルを貼り付けることで
子どもの自信を奪ってしまっていたり、
その「症状」に不安になり「特別支援学級での支援をしてほしい」とリクエストする親御さんが増えて、学校や先生の負担が増しているケースもあるかもしれません。
一方で、様々な課題がある子たちに、画一的な普通教育"だけ"ではなく、
特別支援学級"でも"細やかな支援をできるようになったという一面もあるそうです。
とはいえ、特に「発達障害」とラベルを貼られる子どもの数と共に、
特別支援学級の生徒数が少子化の中増えているのは、大きな課題です。
この背景の理由は、画一的な「成績がよいほうがよい」という価値観や、
インターネットによる刺激の中毒になりやすい状況や、
相手の痛みを感じずに相手を"遠距離攻撃"できてしまうネットでのコミュニケーションの普及など
一つに集約できるものではなく、様々な要因が絡んで起きていることかもしれません。
これには、そもそも国の教育のありかた含めて、
政治レベルで向き合わなくてはならない大きな課題のため、ここでは触れませんが、
一方で、事務作業などやるべきことが多く、生徒の数も増える中で
日々生徒たちに向き合い、努力しつつ苦しむ先生方がいるのも事実です。
そんな先生方を前に、自分ごときが何をお話できるのだろうか。
いろいろと悩みながら望んだお話会でありました。
まずは、日々、大変な現場の中で、未来を担う世代の教育に向き合っていただいている事に
勝手ながらお礼をお伝えさせて頂くところから始めさせて頂き、
結論としては
「まずは自分自身を信じ、認め、褒めてあげて
そのうえで、どっしりと構え、
悩ましいことに向き合えるしなやかで強い心を
自分の中に育てていく」
ことをお伝えさせて頂きました。
残酷な事実ですが
人が生きていくには、自分が思う通りにならぬことにあふれているのが
現実の世界で、
その苦しさに向き合える心を育てていく事が求められる。
それは、外部から「教育」されれば手に入るものではなく、
自身が様々な体験で苦しんだり悔しがったり悩んだりするなかで
自らの心を育てていかねばならないものである。
そう、考えております。
国が、政治家が、親が、なんとかしてくれることもあるでしょう。
特に子どもなら、親がなんとかしてあげないと生きていけない事もある。
でも、極論、災害や紛争や、不況のような社会の大きな流れもあれば
事故や事件や病気など、とつぜん親がいなくなる。国も頼れなくなるといったことも
実際に起きうる。
残酷だけれども、どこかのタイミングで、子どもたちも
「自分でなんとか生きていくしかないのが自分の人生なのだ」と自覚し覚悟し
勇気を育てていく必要がある。
そう、考えております。
前世ではありますが、僕は小学校低学年で
コミュニケーション障害でろくに喋れず、
仮病で不登校をして2年ほど入院もしていた体験があり
でも、その体験は今の自分にとって大いなる滋養になっていると感じてます。
しかし、当時の子どもの自分は、当然ながら人生経験などわずかであり、
心も今と比べて貧弱であった。
僕が運良く2年ほどで学校に戻れた背景にはいろいろあると思うのですが
過度に心配を示すことなく、(見た目は)どっしり構えて信じてくれていた親の存在には
救われたのだと思います。
勝手ながら、親にとっても、大きな経験につながったのかもしれません。
そんな事言ったら
「アンタ、大変だったんだから!ふざけんな!」と母親に起こられそうですが😅。
実際に子どもの教育をされていらっしゃる親御さんや
先生方は、それぞれの大変な苦労があるのだと思います。
思う通りにならない事の連続で、一方で家計を支える仕事があり、日々の雑務もあり、
時に親のことや近所付き合いや自分の体調などなど…。
その大変さは、僕ごときが分かるようなものではありません。
でも、「子ども以上に、先生や親御さんは、長く人生を過ごしている」ことは
事実でしょう。
子ども以上に、様々な体験で心を痛めたり、這い上がってきた体験も多く、
よりしなやかで強い心を持っていると言えるかもしれません。
親御さんや先生にとっても日々の苦しさはあるでしょうが、
子どもには、まだやわらかい心で、そのモヤモヤの言語化もままならない状況では
ただただ言葉にならず苦しく違和感にあふれているのかもしれない。
それをどう表現したらよいかもわからず、誰にも伝えられる、苦しんでいるのかもしれない。
そんな中、近くにいる限られた大人である親や先生が
苦しそうで悩ましそうな顔をしていたら、どう感じるであろうか。
頼りたいけれど頼れない苦しさ。
もっというと「わたしのせいで、お母さん、お父さん、先生を困らせているのだろうか」
「ダメな自分」という不安まで湧いてきてしまうのでは。
自分の師匠の佐々井上人にもお子さんはいらっしゃらないですが、
子どもの相談にきた親御さんには、
「どっしり構えて笑っていなさい!」とお伝えされてます。
僕も自分の体験より、それは、子どもの救いにつながる大切な事ではと感じています。
子どもが親や先生など大人に連れられて、
暗く先が見えない森を抜け出そうとするなか、
自分の手を引っ張って、森から連れ出して欲しい大人が、
震えてうつむいて動かなくなってしまったら、どう感じるでしょうか。
逃げたい…。けど、どこに向かえば…。
そんな時は、「大丈夫」と手を引っ張って
前に進ませてもらいたいものではないでしょうか。
引っ張る側なのだとしたら、自信はなくても、不安にあふれていても、
(ひきつりながらも)笑って、どっしり構えて(いるフリをして)、足を前に進めていくのが
後ろをついてくる子どもには安心できるのではないでしょうか。
「自分も、ああやって、勇気を奮い起こさなきゃ」と、心の火も大きく灯っていきやすいのではないでしょうか。
どの段階まで、手を引いてあげるのか、
手を離し「自分で頑張りなさい」と信じて見守るのか、
これはとても難しいバランスだと思います。
でも「自分も、そして子どもも信じてあげる」ことは、
どちらの状況でも大切なことではと思います。
心の強さやしなやかさ(レジリエンスとも言いますが)は、脳の特定の回路の成長によって
育ちます。
そして、脳は、90歳になっても成長するというのが、最新の脳科学の知見です。
(脳細胞の総数は減っていっても、あらたな回路は常に生まれうる)
我々は、どれだけ脚が弱っても、記憶は弱っても、心(という脳回路)は
死ぬまで育てていけるものかもしれません。
より長く生きた大人こそが、自らの心を育て、強くしなやかで、
共感力ややさしさをもって、笑って楽しそうな生き様をしていくことが
その背中を見ていく子どもたちにとっても、
自分で「自分をなんとか成長せねば」という勇気を生んでいき
子どもの成長にもつながるものかもしれません。
これは子どもを持たずとも、
会社や組織といった社会全般でも同じかもしれません。
より長く生きている世代が、おだやかな心を保ち
楽しそうにいきいきと生きる姿こそが
若い世代に対しても勇気と希望を与えて、
「自分たちも頑張ろう」と自らの成長へのエネルギーとなっていくものかもしれません。
教育をする立場であろうとなかろうと
すべての人は、生きている間は、自らを教育して自らを成長させていけるものだと思います。
生まれたての赤ん坊だって、いろんなものを舐め回してその感触を得たり、
泣いたり笑ったりして周りの反応を感じ取って、
様々な「学び」を自ら得て育っているのでしょう。
それは、人生を閉じる直前でも、できることかもしれません。
自らを育て、どういった生き様をしていくかこそが、
後世に遺せる最も大切な教材になるのかもしれません。
そのように、自分も日々精進を重ねていきたいと思います。
今日もお付き合いくださり、有難うございました。