「見たい世界しか見えてない」と感じると、セカイは生きやすくなるのかも
「曇りなき眼で見定める」ようになりたいものですが、
現実は「見たい世界しか見えてない」のかもしれない。
「"自分にとって都合がよいように感じる"世界のありかたが、そこにあると感じている」のかも。
それは、実は万人にとっての真実の姿ではないかもしれないのに
「自分にとってはそう感じるから、世界はそうであるに違いない」と錯覚して見てしまっているのかも。
以前、最新の脳科学と仏教の知見より「意識」という存在について自分なりにまとめたブログ
「"わたし"という意識」について = 脳科学と仏教の視点より
で詳細させて頂きましたが
我々が自覚している「わたしや周囲やセカイ」という意識(自覚)は、
自分の脳が無自覚のうちに創り出した「自分にとって説明しやすい、都合がよい物語(すがた)」として、生まれている。
意識(自覚)という体験で感じる「わたしが感じるセカイのありかた」は
自らの意思や解釈を元に起こしているのではなく
無自覚のうちに勝手に創られ、自動的に沸き起こってくるようなものである。
けれども、それが「無自覚のうちに作り出された物語」などとは感じられなく
「自分がそう考え、感じている」としか感じられない。
でも、それは錯覚で、
いわば「自分の脳が無自覚に編み出したストーリーを、さも自分が自ら考え感じ取った」
としか、実感できない。
たとえば、我々が水を飲もうとコップに手を伸ばそうと「自覚し考え、行動しようとする」
随分前から(場合により何秒も前から)、
脳では手を伸ばそうとする行動の準備が始まっている。
自分は「水を飲もう(と手を伸ばそう)」と自覚できている前から。
でも、自分の感覚(意識)では「水を飲もう(として手を伸ばそう)」と感じたから、
自らの意思で手を伸ばしているんじゃん、としか感じられない(意識できない)。
これは、意識という体験の性質上、どうしようもない。
無自覚でおきた脳のプロセスなのだから、意識のうえでは自覚しようがない。
まるで「(視覚で)水の入ったコップを見ている」ように感じているけれど、
実際には網膜に映った光を感じているだけで、
それを起こしている網膜自体は自分では「見る」ことができないように。
さて…、以上の科学の知見が万能で絶対的な真理かどうかはさておき、
この知見からの学びとしては
結局は我々は
つねに「見たい世界しか見えてない」のが実態だと自覚することが大切では
と思うのです。
自分が「見えている」「そうだと感じている」世界観は
あくまで自分だけのもので(自分の脳がそう自分に感じさせているもので)、
他人には、全く異なった「セカイ」として感じられているかもしれない。
だから、「なんであんな考えするのか理解できない(と感じる)言動をする人が
いる(と感じる)のかもしれない。
それぞれが「そうとしか感じられない」のだから、
自分だけの意識を頼りに議論をしても、話にならない。
意見や解釈は人それぞれ違うということはアタマで理解を示せても
自身が「そんな解釈はおかしい」と感じる以上は、その感覚に偏見があるかもしれないとは
なかなか認めにくい。
でも、日常で我々は、実に「偏見」にとらわれていて、
囚われていることすら自覚できてないものではないでしょうか。
たとえば我々が
「日本人は〜」「トランプ支持者は〜」「今の若い人たちは〜」と
ひとつの名前で多数の人々をまとめて呼ぶ時には
何かしらの「イメージ」という"偏見"が含まれているかもしれません。
実際に、1.2億人の"日本人"には実に様々な方がいて、
ルックスはインド人にしか見えないけど日本語ペラペラで生まれた時から「日本国籍」の人もいれば
日本語を喋れないし日本の教育を受けてないけれど、先祖も代々日本国籍の人もいる。
日本の法律などお構いなしに犯罪を平然と行う人もいれば
ものすごく「おもてなし」精神や他人想いに溢れた中国から帰化した日本人もいる。
"トランプ支持者"や"若い人"も、実に様々。
とても、ひとつにくくることなどできないハズで、
「"日本人"という平均的な傾向があるハズ」と思っても、はたして、
その「傾向」は統計学的に?平均値や中央値?何を基準にして??など
実際には主観的なあいまいな"感覚"でしかないかもしれない。
たとえば「人を騙すのはダメ」という"常識"で育った人にとっては
多くの人が食べるのも競争しながら生き延びるのが当たり前のような土地で育った人が
「騙されないようにしなきゃダメ(騙してもいいけど)」という"常識"で育った人に対して
「信じられない」としか感じられない時も、
「これが常識でしょう」という自分だけの一方的な"感覚"でしかないかもしれない。
同じ「人間」といっても
それぞれの育った家庭環境や、
受けてきた教育の内容や、
付き合った友人からの影響や
いまある経済や健康上の状況などによって
実に価値観や考えは様々なもの。
とある人の言動や存在に
自分の感覚的に「違う」「違和感がある」「許せない」などという"意識"は
沸き起こり、そうとしか感じられないものかもしれないけれど、
それは自分がこれまでの育った環境や学んだ教育などの影響により育てられた
「無自覚の意識形成のプロセス」が
「そうとしか感じられない」とさせているだけかもしれない。
それは、自分のこれまでの環境が「そう感じる」のが自分の経験上都合が良いと感じさせているだけかもしれない。
他人から見ると異なった見方や感じ方があるものかもしれない。
自分だって、考え方や視点を変えることで
「まぁ、ちがう見立てだってあるかもしれない」と感じられるものかもしれない。
「人間」といっても、ひとそれぞれ。
自分だって、気分によったり年齢によって、様々に変わるもののハズ。
「紅葉」といっても、実に様々な色のグラデーションや葉の形があるし、
その状態も変わっていくのが、あるがままの自然の姿のように。
長々といろいろ書いてしまいましたが、
つまるところは、自分が「こうとしか感じられない」感覚には
実は自分だけの偏見フィルターがかかっているかもしれない。
自分だけの色眼鏡を通して「こうだ」とみえている世界観かもしれない。
それは、自分にとって都合がよく映っているセカイなのかもしれない。
自分が「こうだ」と感じていても、自分の中の脳は違う「こうかも?」を感じさせる可能性もあるのかもしれない。
実際、人それぞれ、感じ方は違うのかもしれない。
そんな「自分の感覚以外の、多面的な捉え方(の可能性)」を育てると
結果的に、「なんで、こうなってないんだ!」「どうして、あんな人がいるんだ!」
といった苦しみから離れやすくなり
様々な価値観の人たちとの人間関係も、杓子定規に堅苦しくならず
しなやかな関係を作りやすくなり
結果「生きやすい」生き方になるかもしれない。
そんなふうに考えております。
今日もややこしく長くなってしまいました(汗。
我が家のネ申(妻)は、もっとシンプルに
「ゴチャゴチャうっせーよ。みんな、いろいろあるんだよ!」と
曇りなき眼でセカイを捉えていらっしゃるのですが(汗。
精進いたします🙏
今日もお付き合いくださり、有難うございます。