自分なりの「ほどよさ」を育てるということ

 

今日、東京のビジネスセミナーでお話させて頂くテーマは

「ほどよい経営」です。

超シンプルにまとめると

人生というのは自分だけの一つの"事業"では。

ヒトが生きるという行為そのものは

自分を「なんとかして生かしていく」という"経営( = mangement = なんとかする)そのものでは。

だれしも自分が大切なのだから、まずは自分こそ「なんとかしよう」と生きるもの。

でも、どこまでいってもヒトは周りのヒトと支え合いが必要だし、自然の一部であることからは離れられない。

自分ばかりとワガママになりすぎると、周りのヒトや自然を踏みつけて

自分を支える足元を崩す結果になりうる。

自分(の事業)こそなんとか生き延びようとするのは、

生きる性(さが)だけれど、自分ばかりになると、支えを失う。

特にビジネスでは数字の膨らみが無限に続く中で、

自分たちこそ「もっと」とキリなく膨らませたくなりがち。

でも、それは周りや自然を踏み潰す行為になりうる。

だから、自分とまわりとの「ほどよさ」を見つけ、保つ努力が必要になる。

自分の「ほどよさ」は自分でしか見つけられず、

探し回る行為をしてこそ、バランスのとれる"支点"が見つけやすくなるもの。

膨らまし過ぎぬよう、しぼみ過ぎぬよう。

自分が全てをコントロールできると錯覚し、

心地よさだけを求めて支点を忘れて、どこかで心身を崩さぬよう。

それは自分を律し、自分自身を「なんとかする(manageする)」こと。

自分という人格を磨き育てるということでは。

自分という生きざま、自分という事業を磨き育てることでは。


そんな内容を、先日のインドや能登半島での行脚の体験を元にお話させて頂く予定です。


今日はたまたまビジネスセミナーという場での機会ですが、

この考えは、ビジネスに関係なく、「生きざま」全体に通じることだと考えています。

自分の生きざまそのものが、自分という事業、と捉えることができるのでは。

そう、勝手ながら考えております。


仕事を与えてくれる会社は「法人」と呼ばれ、

"人格"が与えられるワケですが(実印を登録したり、誰かを訴えたり、生まれたり、死んだり、ヒトかのように振る舞える資格を与えられている)、

実際にはどこにも"ヒト"はおらず、「概念上の人格」があるにすぎません。


つまり、「法人格」というモノは、

人間同士の約束の上にしか存在しない、いわば空想上の概念。


にも関わらず、さもそこに実際の「ヒト」がいるかのように

「会社のために」「会社がないと」という概念も生まれてくる。


でも、自分が生きているのは、自分という人生しかない。

自分の仕事や会社(事業)が自分の生きざまと感じても、

生きているのは、存在しない法人格の人生を生きているワケではなく、

自分という人生を生きているにすぎない。

にも関わらず、空想上の「法人」があるように感じると、

時にそれを勝たせないと、育てないといけないように感じさせる。
(勝たせるって、一体誰に?相手も空想上の「法人」と闘う?)


でも、どこまで育てても、それがみんなとの共有概念上のモノであって、

その「会社」が育ったからといって、自分が育つわけではない。

自らの体験を通した自分の成長は生まれるものの、

それと「会社の成長」は相関し続けるワケではない。

会社(法人)は、自分が100%の株主であっても、自分と同一ではない。

会社が健康でも自分の肉体が不健康になることもあるし、逆もある。


結局、育てて、保持し続けられるのは、自分でしかない。

会社、仕事、事業は、自分を育てるための手段でしかない。

そして、育てる対象は、自分の身の外にある、富や名声や権力だけではなく、

自身の中身、知識や技術や人格や徳というものもある。

自分の身の外にある、富や名声や権力は手にした後に失うこともあるけれど、

自分の内にある、人格や徳というものは、簡単には失わない。

積み重なっていくもの。だからこそ、内なる成長は

人生において、大きな支えとなるのでは。


とはいえ、現代ではお金を稼ぐ何かしらの仕事が必要と感じさせるし

それを与えてくれる会社に入らないといけないと感じさせる。

どこかの会社にはいることや、事業を自ら起こすことが

生きるにおいて必須のようにも感じさせる。


自分を育てるにおいても、人格など中身も大切かもしれないけれど

ひとまず、口座の残高が増えないと将来が怖くもある。

自分が食っていけない、なんとか生き延びていけないようにも感じさせる。

だから、ヒトが個体として生き残るためには、自分こそがという気持ちは沸き起こるもの。


だけれど、常に誰かの支えで、食べ物も手にして、衣服も着られて、

暖も取れているのが実態。

自分ばかり、では生きにくくなる。誰かを支えるから、支えてもらえる。

支えた対価が「お金」として流通しているのであって、お金を食べて暮らせるワケではない。

支えた結果が「名声/地位」として認識されるのであって、名声や地位は概念でしかないので着たり暖めてくれるものではない。

でも、ヒトはわかりやすい概念を欲しがる。

何かしら「タイトル」があるほうが安心する。

自分の"口座"と名のついた空想上のどこかにあるお金を

スマホ上の数字で確認するとき、その数字が大きいほうが安心する。

その数字を与えてくれる会社や事業が確かに見えるほうが、安心する。

だから、確かと言われる仕事、会社の立場、事業を手にしたくなる。


それらを自分が手にしようとするから自身の内なる成長は起こるけれど、

仕事、お金、立場は、それ単体では生き延びるための手段にはなっても

直接腹を満たし雨風をしのいでくれるものではない。

結局は自然や誰かの支えなしには、食べることも、暖を取ることもままならない。


自分がなんとか生き延びるための、自分のためのこと。

安心を与えてくれそうなお金や立場という自分の外にある自分のもの。

生き延びやすさを担保しくれそうな知識や技術、

そして生き延びるための支えをえられそうな自分という人格といった、自分の内にある自分のもの。

何を、どの程度目指すのか。

どれが自分にとって「ほどよい」ものとなるのか。


人生というプロセスは、自分なりの「ほどよさ」の支点を探す行為なのかもしれません。

何か行動をするほどに、自分という行動範囲は広がり、拡がった地平を支える支点を保つのは難易度があがる。

けれど、自分なりの「ほどよさ」を意識して行動し続けていれば、

「気がつけばバランスが取れなくなり倒れてしまう」という事は起こりにくい。

「ほどよさ」を意識しているほどに、「ほどよさ」への感度は上がっていく。

時に「ほどよさ」など忘れ、「お金(仕事)こそが大切!」と突っ走ってみて、

どこかで心のバランスを失いかけてこそ、

「ほどよさ」への意識や感度も育っていく。

その支点を意識し探る機会になっていく。

あれこれ動かなければ、支点の感覚も育ちにくいけれど、動くほどに意識も生まれ、感度も育つ。

様々な体験するほど、心も人格も育っていくように。


自分の「ほどよさ」を探るという作業。

これは自分の生きざま、使命、信念を磨き育てるという作業とも言えるものかもしれません。


今日は早朝4am頃から箱根の山より東京までスーパーカブで参る予定でした。

今日最後の予定は19:30頃までとなるので、バスでは箱根に戻れないものの

カブだと深夜には箱根に戻り、野宿を回避できるからです。

ですが、雨も降る中、

ネ申(妻)より「オマエ、ほどほどにしとけ。電車代出すから、電車で行け」とおっしゃって頂きました。

有難き事ですナムナム。


ということで、カブに乗る時間が空いた分、

「ほどよさ」について、ダラダラと書かせて頂いた次第です😅。

今日もお付き合いくださり、有難うございました。


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