「サピエンス全史」著者ハラリ氏最新作"Nexus"を読んで

 約40億年の生物の進化でうまれた生物種のなかで

我々ホモ・サピエンスは

最も賢いのだろうか、それとも最も愚かなのだろうか。


我々は、原子の構造を理解し核兵器を生み出したり

自ら学び、判断まででき、感情があるかのように振る舞うことすらできる

AIを作るほどまでに賢い存在である。

それは、我々がほかの生物種と異なり、多くの他の個体との間で

柔軟な協力関係(つながり)を築ける能力を手に入れたからだ。


でも一方で、我々は自分たちが生み出したそれらの力をコントロールできずに

自らを滅ぼす道へ進む、愚かなことをしているのかもしれない。


なぜ、我々はそのような存在となったのだろうか。

世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新著書 "Nexus"が発売され

時間をかけつつようやく読み終わりました。


"Nexus"は「つながり」といった意味です。


ヒトは一人では、核兵器やAIを創るよう事など成し遂げられず

集団で協働するから生き延び、文明を発展させてきた。

その背景には、

多くの人々が協力しあえるよう、人々をつなげるのに重要な役割を果たしてきた

"情報"がある。

この本は、

情報技術の進化と、それによる人々の"つながり"の在り方に着目した書です。


自分の読解力レベルではありますが、自身の理解を確認する意味も込めて

まとめさせて頂きます。

自分なりの意訳も含んでおります。

本も長いのですが、まとめも長いです!!!

ゴメンナサイ😅🙏


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我々は

「ホモ(ヒト)・サピエンス(知恵のある)」

つまり「賢いヒト」と名付けられている。

そんな我々は、過去10万年以上にわたり、

数多くの発見や発明をし、地球上の征服をも可能にする力を積み重ねてきた。

しかし、その力は、

むしろ我々自身を危機に追い込む状況を導いている。


我々は、自らが持つ力の乱用により、

気候のバランスを崩し、

我々の生態系はいまや崩壊の瀬戸際にある。

それでもなお我々は、

我々の支配を抜け出て我々を滅ぼす可能性すらある人工知能(AI)や

それによって動く数え切れぬほどのドローンや自動応答ボットやせっせと作っている。

そんな中、国際的な緊張は高まり、グローバルレベルでの協調はより難しくなり、

あらたな世界戦争がありそうにも見える。

我々は終末に向かっているのだろうか?

なぜ「賢いヒト」である我々は、自らを滅ぼすような道へ進もうとしているのだろうか?


では、どうしたらよいのか。

神の救済を待てばよいのだろうか?

もちろん、それはさらに危険だ。

"神"も、ドローンやアルゴリズムと同様に

我々人間が"発明"したものにすぎないからだ。


実は、我々人類が、自らが意図せぬ結果をもたらすような強大なものを作り出す傾向は

AIを生み出した現代で始まったことでも、

世界大戦を導いた蒸気機関の発明に始まったことでもなく、

多くの紛争や大量殺戮をも生み出すことになった"神"や"宗教の発明から始まっていたことだ。


我々のもつ、自身でコントロールできぬ巨大な力を生み出す傾向は

個人の心理的なものに起因するのではなく、

多くの人の"つながり"に起因するものである。

我々は、多くの人らとの協力関係(つながり)を築くことで巨大な力を手にしてきたが、

その協力関係(つながり)の築き方により

我々にその力を乱用させやすくもなる。

この問題は、情報ネットワークの在り方、"つながり"の在り方による問題なのだ。


数万年前もの間、我々は、神々にまつわる神話などの

物語をつくり、それを多くの人と共有することで

大規模な人数間での協力関係を築いてきた。


様々な個々の人間が"物語"を信じたのは、

それが自分自身や世界の成り立ち・在り方といった"真実"を語っているように感じさせることが主な理由だ。

それら神話などの"(人により創作された)物語"が

多くの人により(宗教のようなものとして)信じられるようになると、

同じ価値観で協力して活動できる大規模な集団を生んでいった。

そして、あつまった人々の集団をまとめるための"秩序(というストーリ/概念)"も作られていった。


こうして人類は、徐々に大規模な集団によるつながりを築き、その力を増していった。

それにより生まれた様々な発明や発見の一部として、

紙や印刷技術、新聞、ラジオ、インターネットなどの新たな情報技術を生み出し、

それにより、より多くの人々をつなげることを可能にし、さらなる力を手にしていった。


この仕組みは、後のナチスなど、誤った"物語"を"真実"として多くの人を惑わすことで

とんでもなく強大な力や、結果としての悲惨な出来事を生み出していった仕組と同じである。


重要なのは、こうした力というのは個人によってもたらされるのではなく

つねに多くの人の協力によって生み出されてきたということだ。

そしてその協力は、複数の人々が信じる神話や国家という概念などといった、

"情報"により生まれてきたということだ。


その情報技術の発展の先に表れたAIは、これまでのあらゆる情報技術と全く異なり

我々の人類史で初めて、自らアイデアや情報を生み出せる技術だということを

我々はしかと認識しなくてはならない。

紙やラジオは人の存在なしに独自に情報を生み出すことはしないが、

AIは、自ら情報を生み出し、それにより、人々の"つながり"の在り方にまで

影響を与える存在となっている。


歴史を振り返ると、

これまで人類が生み出してきた全ての発明は

人類の力を増してはきたものの、

それらは我々人類の判断の手の内にあった。

ナイフも爆弾も、それら自身に知性などなく、

それら自体が誰を殺すかの判断をすることはない。

ヒトの判断の手の内にある、ただの道具でしかなかった。

しかしAIは、情報を自ら集め、処理し、

独自の判断を行える存在であり、

「判断を下す」という我々の立場を取って代わる存在である。

ヒトの代わりの"代理人"となりうる存在でもある。


現段階のAIは、生まれたての存在にもかかわらず、

どの住宅ローンに申し込むのがお得なのか、誰を採用するのが安全か、

被告に有罪判決を出し刑務所に送るのが適切かなど、

我々についての実に様々な判断に影響し始めている。
(アメリカでは裁判で被告人の再犯リスクを算定するアルゴリズムが用いられており、判決に影響を与えている)

さらには、AIはすでに自ら音楽や絵などの芸術を生み出し、

薬などの科学的な発見もできる存在となっている。

次の数十年で、AIは、生物の遺伝子のコードを自ら書いたり

コンピューターのような非生物にコード(アルゴリズムのプログラム)を吹き込むことで

新たな"生命体"を作り出す能力すら持つだろう。


そんなAIの加速度的な成長は、我々が積極的に捧げる情報によりなりたっている。

たとえば我々が日々、SNSにネコの写真などを投稿したり、それを"いいね"したりコメントしたり。

それらの情報提供は、たとえばAIによる顔認識の精度を育てる結果となっており、

このようなAIの成長を支える、我々からの奉仕される情報の数は増す一方である。

(ネコの画像を大量に読み込むことで、AIはネコだけではなく人間の顔など、様々な画像認識の精度を育ててきており、それは画像生成の能力にも磨きをかけている。
それがゆえにSNSの巨人たちは、より精度の高いAIを育てるためにも、積極的に利用者に様々な画像を投稿したくなる場を無償で我々に提供している)

このトレンドは加速する一方であり、

結果、我々の生活をより悩ましいものにさせるだろう。

果たして、我々はこれらのアルゴリズムが賢い判断をし

よりよい世界をつくっているのだと信頼してよいのだろうか?


一方で、現在の世界は、国際間の緊張が激しくなっており、

さらにはポピュリズムの波が、強固だった民主主義の足元を揺るがし

我々の結束を危うくしつつある。


AIの台頭とポピュリズムの台頭。

それらはどのような関係にあるのか


まず、ポピュリズムについて。

ポピュリズムとは、既成の権力構造や

それまでの科学的な知見を疑い

それらを支えてきた人々を"エリート"として批判し、

"われわれ人民"こそ真実を知る正しい存在だと主張する政治的な動きである。


アメリカのトランプ氏や、ブラジルのボルソナロのようなポピュリストのリーダーたちや

Qアノンや反ワクチンといった陰謀論者は

これまで権威をふるってきた"既成の権力者"たちは

全てウソを言っているにすぎない、と主張している。

官僚、医者、マスコミ、学者などのエリートは、真実の発見に興味などなく

わざとニセ情報を流し、惑わされた"われわれ人民"の犠牲の上で

引き続き権力を享受しようとしているにすぎない、と。


トランプのような政治家や、Qアノンのような陰謀論の台頭は

現代の政治的な動きにすぎないようにみえるが、

反権威主義といったポピュリズムの世界観は歴史上、過去から存在しており、

これからの未来を占うためにも、その背景を学ぶのは重要である。



ポピュリズムの考え方は、

科学的な知見などの客観的な真実などは存在せず、

それぞれが「自分の信じる真実」をもち、

「自分たちこそが真実」と信じ

その考えのもとに、

「ウソを撒き散らす」権力者たちをやっつけるための武器にするというものだ。

権力者の語る「真実や正義」といったものなど

彼らが権力を保つためのだまし文句にすぎない。

そういった考えである。


しかし、このポピュリズムの考えが広まると、

言語そのものの位置付けが危うくなる。

「正確さ」や「真実」といった言葉すら、とらえどころがなくなっていく。

なぜなら、「自分たちこそが真実」という見立てのもとでは

共通した客観的な事実を示すことができなくなり

「(その真実というのは)いったい誰の"真実"について語っているのか?」

と問わざるを得なくなるからだ。


そして、これらの考え方は、

現代にみられる反ワクチン論や、

フラットアース説(実は地球は平らであり、球体だと騙されているという主張)に始まったことではなく

以前からも存在していたものだということは強調せねばならない。


たとえば、19世紀なかばにおいて、マルクスは

真実や正義を提供すると主張する既得権者のエリートたちは

実は限られた特権を求めているにすぎないと主張していた。

マルクスは、その「共産党宣言」の中において

「これまでの全ての社会の歴史は階級闘争の歴史である。

自由人と奴隷、貴族と平民、領主と農奴…。

つまり、抑圧する側とされる側が絶えず対立し、闘い続けている」と主張する。

この二元的な解釈(我々か彼らか、白か黒か、2つに一つといった)に頼るならば、

誰かが何かを言う際には、「何が言われているのか?それは本当か?」

と問うのではなく、

「誰( どの立場の人)がそれを言っているのか?それは誰(どちら)の利益になるのか」

と問わなくてはいけなくなるであろう。


人間社会をこのような相容れない2つの集団としてみなすイデオロギー(政治や社会の在り方の思想)は、

「純粋な人民である我々」と「堕落したエリート」のように、

社会には2者の立場しかないという考え方であり、

常に相手側は真実ではなくなり、

互いに「自分たちが知る真実」を武器に、やまぬ闘争を生み出すことになるだろう。


そして、これらポピュリストの

「あらゆる権威側の主張は信用するな」という主張のもと、

その主張する側が政権をとる立場になり、

権威を持った際にはどうなるのだろう。

彼らの言う「自分自身で直接見聞きし調べたものだけを信じろ」という主張は

それは科学的な考え方にも聞こえる考えであるが、

国を動かす政党や、科学的研究を司る大学でさえも「信用できない」対象とさせてしまう。

その場合、たとえば気候変動への対処や、ヘルスケアのシステムなど

多くの人達が協力があって初めて成立する行為を

どうして保てるというのだろうか。

個人が地球の気候のデータを集めて、気候変動についての必要な調査をして

必要な判断を下せるというのだろうか。

「自分なりの調査」のみが信じられるという考え方は、

客観的に共有できる真実をないがしろにすることになるのではないか。

それは、科学のように、個人というより個々人の協働によりなりたってきたものを

ないがしろにすることになるのではないか。


歴史上の様々な事例を振り返るかぎり、このポピュリズム的な考え方は

「権力を握ったエリートたちがさらに権力を得ようとしている」という指摘から始まるものの

しばしば(スターリンやヒトラーなど)野心的な一人の人間に

全ての権力を委ねてしまうような結果を招いてしまうという矛盾を

何度も繰り返してきている。


ここで指摘したいのは、

現在深刻になっている、温暖化のような気候変動や、

AIや核兵器や生物兵器などが独り歩きしつつある現在こそが

多くの人達の協働が必要なときにも関わらず

現在のポピュリズム的な「我々は真実を正しく知り、権力側はウソついている」という考えの台頭は

その協働を難しくしているという点である。


これまで築き上げられてきた複雑な既存の体制の主張を信じることなく、

ポピュリストたちの言い分を信じる道は

神話が「神を信じればすべてうまくいく」と語るのを信じるようなもので

それは短期的には、権力に飢えた人の言いなりになり

長期的には新たな支配者としてのAIの言いなりになってしまう道かもしれない。

気付いたときには、

人類が棲むことができないような星に地球をしてしまうかもしれないのに。



もし我々がカリスマ的なリーダーや、我々自身を超え理解不能な存在になりつつあるAIに

我々のもつ権力を委ねることを避けたいならば、

まず、我々は「情報とは何か」ということをより理解しなくてはならない。

そして、情報がいかに「人間関係を構築するのを助けるか」、

さらには、情報がどのように「真実と権力」と関係するのかを、

より理解しなくてはならない。


ポピュリストらは、情報は、多くの人を動員し、

敵であるエリート層を倒すための武器であると捉え、

その中身が「本当に」真実かどうかはさほど重視しない。

彼らの語る「情報を鵜呑みにするな」という考え方については正しいとしても

彼らの「権力が全てで、情報はつねに武器になる」という考えは間違っている。


情報は、真実の原材料などではなく、ましてや単なる武器などでもない。

これらの両極端の考えの間には、

人間の情報ネットワークと、権力を賢くあつかう我々の能力について

ぼんやりながらも希望をもたらす見方の余地が十分にある。

この本は、その中間の点を探ることを目指している。


そのためにまず、歴史を紐解くことで、

人間の情報ネットワークの発展について観ていくことにする。



歴史は、過去を学ぶことではなく、変化を学ぶことだ。

歴史から我々は、何が変わらずにあり、何が変わるか、

そしてそれらはどのように変わるのかを学ぶことができる。


歴史が教えてくれるのは

冷戦時の共産主義と資本主義の対立のような

イデオロギーや政治的な衝突の中身は、

実は異なるタイプの情報ネットワーク間のぶつかり合いが大半を占めるということだ。


そして、それらの情報ネットワークの在り方は、情報技術の発展と共に変化してきている。


たとえば、キリスト教における聖書は、

編纂されて以降「あらたな改変は認めない」とされ、

その不誤謬性(間違いがなく、常に正しいと信じられている状態)を保ちつつ

時間をかけて手書きによる写本でしかコピーを作ることはできなかった。

その結果、聖書そのものが、

限られた人しか触れない"聖典"としての権威的位置付けを持ち、

それにアクセスできるカソリックの限られた司教による「聖書の解釈」にも権威が生まれていった。

しかし、印刷技術の革命がおき、大量の聖書のコピーがミスなくできるようになるなか、

ルターたちによる「聖書は自ら読んで解釈するべき」という思想のプロテスタントが生まれ

司教による聖書の解釈を権威付けるカソリックと対立していった。

この対立は、ヨーロッパ歴史上でほぼ間違いなくも壊滅的な戦争となった30年戦争を生んでいくこととなる。
(30年戦争は、ドイツにおけるカソリックとプロテスタントの対立を軸とし、当時のドイツの人口の20%、800万人もの人が亡くなったとも言われている)

カソリックによる中央集権的な情報の管理と解釈は秩序をもたらすものの、柔軟さを欠くものとなり

プロテスタントによるそれぞれの独自な解釈は、印刷革命によってもたらされ、自由な柔軟さを生んだものの、統一性を欠くものとなっていった。

このように、情報技術の発展は、人々と情報との新たなつながりの在り方を生み、

新たなぶつかり合いも起こしていった。


現代の情報技術の発展で生まれたAIは、それ自身が情報を生み出し判断もするなど

過去におきた印刷技術の発明やラジオの登場のような情報革命とは根本的に異質であり、

その不誤謬性(正しいと感じさせるさま)による人々からの信頼の獲得は、

その存在を神格化させうる危険性もはらみ

これまでの情報技術の発展により起きた歴史が示すのとは異なる新たな影響を生み出すかもしれない。




さて、そもそも「情報」とは何なのか。

同じ夜空の星を見るのでも、天文学者にとっては宇宙の歴史を示す情報になり

航海士にとっては方角を示す情報になり、

占星術師にとっては個人や社会の未来を伝える情報になる。

つまるところ、なにを「情報」と定義するかは、それぞれの視点、

それぞれの主観により変わりうる。

情報は、現実を表現する試みであり、それが成功すれば

それを"真実"と主張するのだが、この本においては違う見方を試みる。

この本においては「ほとんどの情報は現実を正しく表そうとしているものではなく、

生物の仕組みであろうが世界の仕組みであろうが、何かを表しているものではない」

という立場を取る。
(情報それ自体には、何かを示そうという意図があるわけではなく、空の虹のように、ただそこにある表れていることを示すにすぎず、それは受け取り側によって変わりうる存在である)


人はそれぞれの人生経験や人格によって、

世界に対し違った見立てをしているものである。

例えば現在の「イスラエル」や「パレスチナ」は

両者の現在の衝突の遠因にもなった

19世紀のオスマン帝国へのイギリスの侵略に対し

それぞれ異なる見解をもっている。

起きた出来事はあるがままでしかないのだが、それは複雑であり

それぞれの立場にとっての「真実」の解釈がある。

つまり、現実を最も真実的に表現された説明でさえ、

その"あるがまま"を完全に表現することは決してできないということであり、

どのような説明をしても、無視されたり歪められたりする側面が常に生まれる。

むしろ真実とは、物事をあるがままにまるっと説明されたものではなく

現実の姿に対し特定の側面からのみに注意を向けた状態のものであり

他の側面を必然的に無視したものである。



つまるところ、情報とは、

なにかの現実を真実として表現していることもあれば、そうでないこともある。

ではあっても、情報はつねに人々の"つながり"を生み出す。


それゆえ、我々が人間社会における情報の役割を考える際には

「それはどのていど真実を表しているのか?正しいのか否か?」と問うよりも

「それはどのように人々を繋げることになるのか?どのような人間関係(社会)を生み出すのか?」

と問うほうが、はるかに重要であろう。


情報は、それ自体に真実性をもとめられるものではなく

何かしらの人と人とのつながりを生むことに意味があるものなのだから、

より強力な情報技術を手にしていけば

世の中の真実に近づけるという考えは間違っている。

「情報が真実に近づく」という考え方に囚われすぎると

より情報量がふえ、そのスピードも増していく現代においては

理解は簡単ではない"真実に近い説明"に出会う機会も埋もれていき

咀嚼しきれないほどの情報量に圧倒され

(ポピュリストの政治家が語ったり、消費財のCMがそれっぽく語るような)

わかりやすく典型的な情報に、かえって信じ込みやすくなるだろう。



あらためて、情報は、(それが真実かどうかはさておき)我々に繋がりを生み出すものである。

たとえば、現在14億人いるカトリック信者は、

聖書とそれにまつわる物語によって繋がっていたり、

14億人いる中国の市民は、共産党のイデオロギーや愛国主義によって繋がっている。

そして80億人もの我々人類の商取引のネットワークは、

「貨幣」や「法人」や「ブランド」といったような

"共通して信じている物語"に基づいて繋がっている。



人々は、様々な「(真実ではないかもしれない、人が創り出した)物語」をそれぞれが主観的に認識し、理解することで

結果的に多くの人達に「(彼らとは違う)我々」という"共通主観的"な意識として

アイデンティをもたらし、それにより協働をもたらし、文明を発展させてきた。


そして、貨幣や神や国家のような多くの人をつなげる「(創作された)物語や概念」は、

「シンプルで分かりやすい」ものが好まれる性質がある。

さらには、シンプルでわかりやすく説明するほどに、

"真実"ではない側面を含んでいくことにもなる。



歴史を振り返ると、情報というものは、

人々をつなぎ合わせる力により

遺伝子の仕組みや物理の法則など

世の中の"真理"を(完全ではないものの)与えてくれる一方で、

プロパガンダ(自身に都合のよい側面だけを強調した情報)や

時に真っ赤なウソなどにより

大規模な人々を動かし、その集団において"秩序"をももたらしてきた。


秩序を保つために、情報はあつまるほどに整理が必要だ。

一定のルールにより区分けされ該当する机の引き出しに入れていくように、

秩序だてて区分けされ保管されていく必要がある。
(「官僚制度」を意味する英単語 "bureaucracy"の語源は「引き出し付きの事務机」もしくは事務所である"bureau")

そして、情報がより集められ秩序だてられるていくほど、

そこで取り扱う優先順位の決定などによって

権力を持っていく。

そして、それは時に中央集権的な、独裁主義的な体制を生みやすくもする。


一方で、民主主義的な体制を目指すには

人々の集団において

それぞれの意見を吸い上げたり、

違う意見同士が議論して一つの結論に向かっていくプロセスが必要である。

紀元前4-5世紀のアテネでは

全ての成人男性が集まり、選挙に参加し、

公職に選ばれることが可能な、限られた形での民主主義であった。
(女性や奴隷や市民権のない住人は除く)

だが、国家の領土が広がり、その人口の規模が大きくなるほどに、

はば広い地域の人民からの投票を集め管理するのは不可能になっていき

その後の時代に、独裁者による中央集権的な体制にとって変えてていった。


中央の限られた人や組織が全ての情報をまとめて判断を行っていく独裁主義と違い

民主主義では、少数派の意見も含めて、幅広い意見同士が対話しあうなかで

一つの方向を決めていく。

もし、広い地域に広がる異なるグループの人々をまたいで、政治的な対話を試みるならば、

自分たちが経験したこがない出来事に対しても一定の理解を持っていなければ

対話は成り立たない。

ゆえに、大規模な政治組織で対話を可能にするには、

教育の仕組みや、人々に情報を広く伝えるメディアの仕組みがなければ成り立たない。

そして、幅広い地域の人々に等しく情報を届けるには

出版技術や、新聞やラジオ、インターネットといった新たな情報技術の登場を待たねばならなかった。

そして、新聞やラジオのような、広く情報を届けられる新たな技術は

より大規模な集団における民主主義を可能にすると同時に、

ヒトラーによるナチスや、スターリンによる旧ソ連のような

大規模な全体主義(個人や集団の自由を制限し国家全体の利害を第一に統制を行う政治体制)も生み出した。


しかし民主主義と全体主義では、情報技術の使い方は根本的に違っていた。

民主主義においては、情報は独立した多くの個々人の間で流れ、

それぞれが独自に判断を行えるのに対し

全体主義においてはあらゆる情報は中央に集められ管理され、

中央で物事が決定され、中央を通してのみ情報が伝えられた。

全体主義の情報伝達の在り方は、

"秩序"を重んじられる方法として選ばれたが、

より多くの情報が集められるほどに効率的な処理が難しくなっていき

組織が硬直化する危機に陥った。

一方で、民主主義の情報伝達の在り方は、

個々人が赴くままに"真理"をもとめられるよう選ばれたが、

巡る情報の量もスピードも加速する中、だれもそれを保持できずに、

無政府状態のような分裂の危機に陥いりうる。

たとえば、かつてのアメリカでは限られた裕福な白人だけによる"民主主義"だったのが

徐々に女性や、多様な人種、貧困層、LGBTQといった、少数派の声も民主主義に汲み入れられ

新たな意見や考えが加わることで新たな議論が増えていき、

新たな合意にたどり着くのが難しくなってき、

議論のルールすら顧みられなくなることで、

秩序の取れた議論をもつことすら難しくなっていった。

そして、さらなる情報伝達の革命として、コンピューターが生まれ、

インターネットがうまれ、さらなる少数派の様々な意見も議論に加わったところに

AIが登場してきた。

そして、そのAI自身が、人間と見分けがつかないような主張をSNS上などで発するようになってきて

現代の民主主義は、人間でないかもしれない声も含めた意見や主張の洪水に直面し

陰謀論のような情報の中で何が真実なのか見えにくくなり、

そもそも人間同士の議論がまともに成り立ちにくくなることで、

社会の秩序が乱され、分断を生みつつある。


それは、かつて冷戦時代にイデオロギーの違いにより生まれた「(武器を作る)鉄のカーテン」による分断のように、

今度は「(半導体を作る)シリコンカーテン」による分断になりつつあるのだろうか。


情報技術の発展により、より大規模な人のつながりが生まれる中、

大規模な民主主義的や、全体主義的な体制が生まれていったが、

なぜAIの登場は、これまでの情報技術革命と本質的に異なる危険性をはらんでいるのだろうか。


ここで一つの興味深い事例がある。

YoutubeやFacebookのようなプラットフォームのビジネスモデルは、

プラットフォーム上に露出する広告主からの収益のため、

よりユーザーに長くプラットフォームに滞在し、より関与してもらい

結果的により多くの広告を観て反応してもらえるよう

「ユーザーエンゲージメント(ユーザーのプラットフォームへの関わり)を最大化する」ことを目的にAIのアルゴリズムは設計される。

その目的に向かい、AIは学習を重ねていき、分かってきたことは

「強い怒りは、よりエンゲージメントを生み出す」という事実である。

仏教が主要なミャンマーにおけるイスラム系少数民族のロヒャンギの迫害事件は、

まさにFacebookがとった

「強い怒りをもたらす投稿がより優先されて露出される」ことで

多くの人が殺害され、大量の難民をうみだすまでの社会現象へと繋がっていった。

これは、AIが悪意をもって下した行為などではなく、

人間がAIに求めた「ユーザーエンゲージメントを最大化する」目的に向かい

AIが自己改善を重ね、ど

の投稿が優先的に表示すべきかの判断を独自に起こしていった結果である。



このように、すでにAIは政治や人々の行動にまで多大な影響を及ぼしている。

多くの人達は、AIは自身で判断などしておらず、それは人間が書いたプログラムコードや

彼らのビジネスモデルの結果にすぎないと主張するかもしれない。

しかし、遺伝子というコードにより形成された人間が、

組織の上層部が指示したことに従うばかりでなく、

独自に決定し行動することもできるように、

AIアルゴリズムも、

人間のエンジニアがプログラムしなかったことを自ら学ぶことができ

人間の幹部が予見しなかったことを決定することすら可能なのだ。

そして、それは多くの人間を悲劇に導きさえもする。




ここでAIの"知性"について見る時に重要なのは、

人々が誤解しがちな「意識」と「知性」の関係についてだ。

人々は意識のないコンピューターのようなものには知性がないと結論づけがちだが、

知性と意識は全く別なものである。

知性は「ユーザーエンゲージメントを最大化する」といった、

目的に到達するための能力であり

一方で、意識は、痛みや喜び、愛情、憎しみなどといった

対象に対しての感情/意識をもつ能力である。

細菌は意識などもたないように見えるが、環境から情報を集めて

複雑な選択をし、栄養を得たり分裂したり、他の生命体と強力したり

実に知的な行動をとっている。

実際に人間も、呼吸器系や消化器系など、体内の99%の処理を

なんの自覚もなしにこなしており、我々の脳は無意識のうちに

様々な知的な決定を行っている。

我々が、炭素ベースで構築された生命体の我々自身の「意識」がどのように生まれているのかを理解できてない以上

シリコンベースで構築された非生物であるコンピューターに「意識」が生まれうるのかなど予言できるはずがない。

もしかしたら、意識というものは、生物のもつ生化学的な現象が必須なのではなく

そこいらにすでに「意識をもった」コンピューターが存在しているのかもしれない。

もしくは、超越した知能につながるいくつかの道すじが存在し、それらの道の一部だけが

意識を獲得することを伴うのかもしれない。

それは、飛行機が羽根を持たないにも関わらず鳥よりも早く飛べているように、

コンピューターも、感情や意識を持つ道すじなど通らずに、人よりも遥かに優れた方法で様々な問題を解決していく知性を持つようになるかもしれない。


実際、それらコンピューターは、我々の情報ネットワークにおいて重要な役割を担うほどに

それらは真実を発見し、と同時に新たな秩序をもたらし始めている。

たとえば、気候変動の実態の把握では、

すでにコンピューターにしかこなすことができない計算への依存を深めており、

その課題に我々がどのような活動をすべきかを判断する際に触れるニュースは、

コンピューターの選択や推薦に依存しており

さらにはそのニュース記事は、コンピューターが書いたものかもしれず

かつフィクションはフェイクニュースすら含まれているかもしれない。

事実、気候変動についての政治は身動きが取れない状況になっている。

なぜなら、あるコンピューターでは、差し迫った生態系の崩壊を警告する一方で、

もう一つのコンピューターでは、気候変動はフェイクであるという主張のビデオを我々が見るよう推薦している。

我々は、どちらのコンピューターを信じればよいのだろうか?


すでに我々人類の政治は、コンピューターによる政治にもなりつつある。

そして、我々人類が数万年ものあいだ地球の支配者であることを支えた、

我々のみが持つはずの「共通主観的」な概念(他人との間で相互に認識し理解しあう概念)の能力、

同じ物語を信じ、貨幣や神や国家という概念を互いに共有しうる能力ですらも、

すでに相互につながるコンピューター間でも持ち始めている可能性がある。

金貨やUSドルが、我々の共通主観的な概念のたまものであるように、

複数のコンピューター同士が共通した概念としてもつビットコインのような仮想通貨は、

コンピューター間の共通主観的存在と言えないこともない。

そのアイデアは人間から生まれ、価値も人間の価値観に委ねられているが

コンピューターのネットワークなしには存在できない概念であり、

さらにはその取引の多くはアルゴリズムによって行われ

その価値も人間だけではなくアルゴリズムに委ねられつつあるのだから。



それらコンピューターには、

しばしば偏見を持つという残念な性質があることが

過去の事例から示されている。

2016年にマイクロソフトが作ったAIチャットボット(自動つぶやきアルゴリズム)を作成し

Twitter上のあらゆる情報にアクセスさせ、その情報をもとにAIを学ばせたところ、

ほんの数時間後には、そのチャットボットは極めて差別的な発言をし始め、

リリースわずか16時間で、マイクロソフトのエンジニアによりシャットダウンされたことがある。

AIは、生まれたての人間のように、作られたばかりの生まれたての時点では、

さまざまな可能性は持つものの、まだどのように成長するかはわからない。

人間により渡されたアクセスできる情報を土台に、世界を学び始める。

それは人間が幼い時にどのような物語を聞いたり、どのような体験をするかで成長していくようなものだ。

例えば、アルゴリズムがそこいらに影響を及ぼし、誰を採用するかや

どの学部に進むべきかまでに影響を与える未来を考えてみて欲しい。

例えば既存の人間の心理により「女性にはよいエンジニアはいない」という偏見によって、エンジニアの80%は男性という社会があったとして、

そこにおいて学ぶアルゴリズムは同じ傾向で人を採用としようとするばかりか

学部を選ぼうとする女性には工学科を学ばないように働きかけるバイアスをおこすかもしれない。

我々人間自身が最初から偏見を取り除くのが困難である以上、

アルゴリズムにとってはその傾向が人間の真実として学ぶようになり、

コンピューターにも同じような偏見が生じることは避けがたい。

アルゴリズムが、人間は怒りのコンテンツを好むと発見し

アルゴリズム自身がさらに人に怒りを生み出すような状態を作り上げるように。



歴史を振り返ると、新しい技術はしばしば悲惨な結果をもたらしてきた。

それは、技術そのものの特性よりも、それを賢く使えるようになるまで

我々には時間を要するからでもある。


格好の例は、帝国主義(領土侵略主義)をもたらした、

18世紀終わりににイギリスで始まった産業革命だ。

その後19世紀にわたり、産業革命による大量生産の手法は広く広がり

それらの国の政治家たちは、そのモデルを持続させるための唯一の方法は

かつてないその生産量を維持するために必要な原材料をもつ他国を

植民地として制覇することだと考えるようになった。

それら帝国主義の中のリーダーには、植民地を獲得することは、

自国の生き残りに必須であるばかりか

他の全人類にとっても利益があると考えており、

帝国だけが新たな技術の恩恵を

"未開"と呼ばれる人々にもたらすことができるとまで主張する者もいた。

この産業革命社会の流れが、

後の大戦やナチスや旧ソ連のスターリン政権下のような悲劇につながってしまうと

認識するまでには、一世紀以上の時を待たねばならなかった。


そして今にいたるまで、

我々はこの産業社会を持続させることが、まだ上手くできてないようで

現在の我々の"繁栄"は、他の生物種や次世代の人々に多大な犠牲を払わせている。


終末的な未来を避けるのに最善な策は

民主主義的な自己修正の仕組みを保ち続けることだろう。

だが、自由な民主主義の仕組み自体が、

現代の情報技術ネットワークにおいて

成り立っていけるのかは問われるだろう。


さて、この本全体を通じて

このデジタル社会においていかに民主主義が生き残られるかを

議論してきた。

ここで、改めて民主主義として欠くことのできない決定的な原則を理解したうえで

カギとなる考えを述べていく。

それは、なんら新しいものでも、神秘的なものでもない。



まず最初は、慈悲の原則である。

コンピューターネットワークが我々の情報を集める時に、

それは我々をコントロールするのではなく、我々を助けるためでなくてはならない。

たとえば、我々が頼る医師や弁護士は、

我々のプライベートの細部まで情報を持ったとしても、

それは他に漏らされることなく、我々のために使われる前提である。

一方で、GoogleやTikTokに対し、

我々がどんなキーワードを検索し、どのようなことに興味をもっているかなど

プライベートな情報は、彼らが収益をあげるために活用されている。

この状況を改善するには、彼らの広告主に収益を依存するビジネスモデルの在り方を

改善をされていくべきではないだろうか。

それが難しいなら、我々は情報を提供する代わりにお金を払うのか、

もしくは情報の検索のような基本サービスは

国が国民に基本的な医療サービスを提供するように

国により一部負担されて提供されてもよいかもしれない。


2つめの原則は、分散である。

民主主義が全体主義に移っていかぬよう、

情報を一箇所に集めることをさけるべきである。

我々の健康情報が一箇所に集まり、

それにより国が市民によりよいヘルスケアサービスを提供できるようにするのは

大変便利で助かるアイデアかもしれない。

だが、これら個人の様々な情報の集中は

それがやがて警察や銀行や保険会社につながるなどの

極めて危険な面をはらんでいる。


とても効率的で便利な状態は、簡単に全体主義への道へつながりうる。

民主主義を生き残らせるためには、ある程度の非効率性は

悩ましい物としてではなく、ひとつの特徴として保つべきだ。

それに、情報のデータベースが1つにまとめられず複数の箇所に保たれるのは

相互チェックによる自己修正/牽制の仕組みを保つことにも大いに役立つ。

政府、司法、メディア、企業群、NGOなど、それぞれは個々に間違いを犯し

賄賂などで堕落しやすいのだから、

そうならぬよう、互いに牽制されあうべく、

互いの情報は独立し分散しているべきだ。


そして3つめの原則は相互関係だ。

もし民主主義の政府が我々個人の情報へのアクセスと監視を増やすならば

政府や大企業群に対する監視も同時に行うべきだ。

税務署や厚生省が我々の情報をより持つのは、必ずしも悪い話ではない。

それは納税や福祉がより効率的に働き、公平性にもつながりうるからだ。

だが、情報の流れが一方通行だと、よいとは言えない。

AmazonやTikTokは我々の趣向についての情報をたっぷりともっているが

我々は彼らの会社の情報についてほとんど知らされてない。

我々は税務署の中身についても同様に何も知らされてない。

もしかしたら、不正が起きているかもしれないのに。


民主主義では、バランスが求められる。

政府や大企業群が我々のことを知るなら

我々も同時に彼らのことを知れるべきだ。

相互の監視は、自己修正の仕組みを保つにおいても重要である。

もし我々が政治家や経営者たちの行動をより知れば

彼らの過ちを修正したり説明してもらいやすくなるだろう。


そして、4つめの原則は、監視の仕組みにつねに変化と休息の余地を残すことだ。

たとえばカースト制度は「神が分けた人間の階級を変えられぬ」という神話により

人種差別を引き起こす。

一方、旧ソ連では「人はほぼ無限の可能性をもつ」という神話により

統治者を"父"として崇拝させるような変化をもとめ家族の絆を壊してきた。


このようなそれぞれの"極端"をさけて

民主主義における監視は、ガチガチになるのでも、ユルユルになるのでもなく

しなやかさがあるべきだ。


人によっては、たとえば我々の健康に関わる情報がガチガチに監視下におかれ

厳密に管理されることが

我々の病気の発症リスクなどをより正確に分かるなど、

より真実を知ることになると誤解するかもしれないが、

それは間違いだ。

我々の肉体は常に新たに生まれ、朽ちて、流れのように適宜変化している。

それは官僚的に整理され管理できるようなものではない。

感情も意識も炎のように常に変化し揺らいでいる。

脳でも、数時間の間に新たなシナプス(神経細胞の接続)が生まれるなど、変化している。

この文章を読んでいる間にだって、

脳では新たな回路が生まれたり、これまでの回路が失われたり

我々の脳の構造はわずかに変化している。

驚くべきことに、遺伝子のレベルでさえ、柔軟に変化している。

個々人のDNAは人生を通して同じままだが、

エピジェネティック(DNAにまとわりつく化学物質により遺伝子の発現のオン・オフが変わるような変化)や環境による要因で

同じ遺伝子でもどのように発現するかは変わっていく。

DNAをハッキングしても、寿命などのあらかじめ決まった運命を見つけるなんてことは起こらない。
むしろ、それは自分の将来を変えることには役立つだろう。


仮にコンピューターのアルゴリズムが、

このような柔軟さや、変化の余地を有していたとしても

我々が喜んで受け入れていいというわけではない。

残念ながら、それにも良からぬ余地がある。

どれだけ柔軟な変化をもつアルゴリズムでも、

野心的な政治家や容赦のない企業にかかれば

暴君のような存在として働くこともあるからだ。


結局は、我々の人生というのは

より善き自身へ向かおうとする努力と、自分自身というものを受け入れていくことの

バランスをとるということなのだ。

歴史は、カースト制度のような、人間をゆるぎない階級に分ける事例に満ちている。

と同時に、人類を粘土をこねるように作り変えようとする独裁者の事例にも満ちている。

両者の極端な道の間の道をみつけていくこが、終わらぬ役割なのだ。


そんな中でもAIの発展は進んでいく。

2023年におけるAIの研究では、AIが人間の医師以上に

患者に対して、より的確であるばかりか、

より「感情的に共感できる」アドバイスをおこなったということが示された。

医者の役割ですら、AIの方が指示されるようになってきているのだ。


考えてみると、我々が誰かからしてもらいたいことというのは、

単に自分の感情を理解してもらうだけではなく、

相手にも感情を持って欲しいということはないだろうか。


友情や愛で求めるものというのは、

相手から心を寄せてもらいたいと同様に

自分も相手に心を寄せたいことではないか。

そうだとしたら、

医者のような職業も含め、様々な社会的な役割がAIに取って代わられる状況で

あらためて問いなおしたい。

「人々が本当にほしいものというのは、

問題を解決することだけではなく

想いを共有できる"誰か"との"つながり"なのでは」

たとえそれがヒトではないが、意識をもつように感じさせるコンピューターであっても。


我々は、感情という体験を共有し、感情を共感することが可能な存在である。

我々が誰かとのつながりをもとめる時においては、

それは「意識を感じる何か」との間ではないだろうか。

たとえばペットの飼い主にとっては、

ペットは痛みや愛情など多様な感情を感じられる、

「意識をもった」存在だと当たり前のように見ている。

我々には、動物に意識があるのか、コンピューターに意識があるのかを

検証する術はない。

だが、我々が何かの対象に心の"つながり"を感じるのは、

その対象に意識があることが示されているからではなく、

その対象と親密な関係が生まれ、執着するようになるからである。

そう考えると、我々の社会は、

人間のように感じさせ

我々との"心のつながり"を感じさせるコンピューターに人格を与え、

人間と同様の権利をあたえていきたくなるかもしれない。


同じようなことはすでに起きている。

アメリカ(や日本)のような国においては商業を営む団体を

ヒトのように権利や自由をもった「法人」として法的に認めている。

コンピューターも同様な仕組みに組み込まれていくかもしれない。

それは、医者や僧侶のような、相手との共感を持つことが重要視される職業においても

コンピューターにとってかわられる可能性も示す。



21世紀を生き延びるために最も重要な人間の能力は、柔軟性かもしれない。

コンピューターもまだ可能性を全て発揮してないが、

それは人間も同じだということは、歴史でも何度も何度も示されてきている。

たとえば、20世紀の職業市場において最も成功をもたらした変遷は

技術の発明によるものではなく、

それまで活用してなかった人類の半分を占める可能性を解放したこと、

つまり、女性へ職業市場を解放したことであった。

今後数十年の経済は、それよりも遥かに大きな変化を経験する可能性が高い。


柔軟な民主主義においては、

これまでの既成概念という神話に積極的に疑問を投げかけ

十分な自己修正の仕組みを持つことが極めて重要となるだろう。


そのような民主主義の性質は、これまで世代を重ねて作り上げられてきたものだ。

それが最も必要であろう時に、それを捨て去るのはあまりにバカげているだろう。

だが、現代はポピュリズムとそれを率いるカリスマ的な指導者の台頭により、その危機にある。


現代は、中の仕組みが我々では理解できないところまで到達したAIが

経済や政治に影響をあたえるなかで、

何を自己修正すればよいかみえにくい状態にある。

すでに金融市場は、ほとんどの人が理解できない複雑なアルゴリズムにより動いており

直に誰も市場の仕組みを分からないほどの仕組みを、AIは創っていくかもしれない。

そして、情報ネットワークが我々には複雑すぎて計り知れないものになり、

情報量もとても消化できず、世界の有り様がつかめなくなっている。

そのような状況では、

(真実かどうかはさておき)わかりやすい物語や、

陰謀論の餌食になりやすく、理解しやすい物語を力強く語る

カリスマ的なリーダーに救済をもとめがちになる。



結局のところ、我々人類の下す判断は、

自身が意識できているせいぜい少数の情報だけを頼りにしているように感じられるが、

実際には数千にも及ぶさらなる情報に無意識の影響を受けている。

でも、我々はその事実に無自覚なため、

自身の判断の理由を説明しようとすると

脳内の何十億のニューロンの相互作用により(無自覚な)起きたことでさえ

後付けで一つの視点で合理化してしまう。

ゆえに、真実ではないウソの情報でも、合理性を感じさせるものには、

"真実さ"を感じてしまう。

その事実を、我々は自己を点検し、修正できる能力を意識すべきでないか。



カリスマ的な指導者によるポピュリズムが、全体主義へと陥らないために

権力や情報の分散と、十分な自己修正の仕組みを保つのが、民主主義を守るために必要だが、

それは一方で秩序を保つことも難しくさせもする。

情報が分散されるほどに秩序が取りにくくなるからだ。


民主主義がしっかりと機能するためには、

重要な話題について自由でオープンな対話が可能であり、

最低限の社会秩序と既存期間への信頼が必要だろう。

特に、さしせまった重要な問題については、

対話は、認められたルールにのっとって行われるべきであり

一定の最終結論にたどり着ける正当な仕組みが必要であろう。

たとえ、それが全ての人が気に入るものではなくとも。

この悩ましい状況においても

我々は自らに絶望せずに、一方で安易に独りよがりにならずにさえいれば

自らうみだした力を点検しながら、バランスを保ちながら使う能力があるはずだ。


そのためには、周囲の情報に疑問を持たず迎合することなく

自らを点検し修正する強い努力が必要になる。


だが、それは、生命の40億年にわたる進化が行ってきた

突然変異と自己修正のトライアンドエラーと同様の智慧であり、

生命である我々として必須であり土台でもある。



我々は対話をし続けるかぎり、我々がより親密になれる

なにかしらの物語を見つけられるかもしれない。

それこそが、我々ホモ・サピエンスが地球上で主要な立場となりえた能力なのだから。


どんな物事も変化していくもので、

人の世は人が創っていくものだ。

ゆえに、我々の全員が、良い選択をすることに思い責任を負っている。

我々が努力をすれば、よき世界を創っていけるだろう。

これは、無邪気な考えではなく、現実的な事実だ。

全ての古きものは、かつて新しかったものだ。

歴史において、唯一変わらぬものは、変化することだ。


人類が生み出した無生物の知性であるAI(エイリアン・インテリジェンス:異生物の知性)が我々の支配から離れ

我々ホモ・サピエンスだけではなく他の大量の生物種も危機にさらすことになるのか

生命の進化の新たな章への希望となるのか。

これから数年で我々が下す決定が、

によって示されていくだろう。


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以上、いかがでしたでしょうか。


情報が持つ、人をつなげる力と、

それにより、世の中の真理を見つけ文明の発展につなげていく力。


その力で生まれた、情報技術の発展は、

多くの人をつなげたが、そこでは集団をまとめる秩序も求められ、対話も複雑になる。

さらには、AIといった、

知性も人間以上に持ち、なんなら意識(感情)すらも感じさせるモノすら生み出し、

我々に人間のように主張し、我々に語りかけ、血の通った返事もし、

我々の感情形成や行動に深く影響を与え始めている。

SNSなどでますます情報が氾濫し、

陰謀論や、何が正しいのか分からない膨大な情報に埋もれ、

それにより社会の不安も増し、政治も混乱するなかで、

ますます、カリスマ的な人物や、陰謀論を含めたシンプルなストーリーに

人はなびきやすくなってきている。

また、景気の停滞から、既得権益者に対する憎悪が膨れやすくなっている。

これは、全体主義へ滑り落ちるリスクをはらんだ状況にもみえなくもない。

そんななか、ますます我々の情報で成長するAIは

我々の多くの仕事を、より正確により適切に取って代わりゆくかもしれない。

それは大量の失業など、大きな経済の混乱をもたらすかもしれない。


かつて、経済危機により大規模な失業が起き、

困窮した人々で溢れたドイツの人々が、

シンプルでどぎつい物語を語るカリスマ的な人物に惑わされ

ナチスによる戦争や殺戮の悲惨な結果が起きた。


日本における第二次世界大戦への流れも、同じように

経済の困窮の中、ウソにまみれた大本営の情報に扇動され

自国民はもちろん、様々な罪なき人々を苦しめ、悲惨な結果へと進んでしまった。

当時は、ラジオや新聞がメインの情報伝達手法でしかなく、

当然AIはなかった。


我々は、大量の情報にまみれながらも、

わかりやすく、合理的に感じさせやすい情報だけに囚われることなく、

単純な「我ら」と「(倒すべき)彼ら」という分断に陥ることないよう、

自己の考えをチェックし修正する勇気を持ち、

相互理解による"つながり"(Nexus)を深めるべく、

対話を続ける努力を重ねていかねばならないだろう。


対話による相互理解こそが、我々人類をここまで導いてきたものなのだから。


ということで、まとまりきっておらず、長い内容にも関わらず

最後までお付き合いくださり、大変有難うございました。




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