見ている世界を曇らせる"慢"というもの
我慢、自慢、慢心…
「慢」という単語が使われた言葉は多いのですが
これらは仏教が語源(サンスクリット語のMāna)で、
意味は、自分を他と比較し優劣をつけること。
自分を他者より優れている
自分は他者より劣っている
どちらも「慢」。
避けるべき"煩悩"とされてます。
自慢や慢心は、わかりやすいでしょうか。
自分をひけらかすヒトはあまり好ましく映りませんし、
慢心をすれば、油断して失敗をしやすい。
我慢は、我こそが優れているという「高慢さ」があるために
「自分の思う通りではない」と不快さを感じる状態。
つまりは「自分の思う通りになるはず」という、
いわばワガママがあるから
「我慢せねば」という気持ちにつながる。
「思う通りにならぬことだってあるよね」という心持ちで流せれば、
そもそも「我慢しなきゃ」と感じる心すら生まれない。
そしてオモシロイのは「自分はイケてない…」と
自身を卑下するような他との比較も、同じく避けるべき煩悩の「慢」。
他人は他人の人生を生きるのだし、自分は自分の人生しか生きられないのだから、
他と比較して落ち込んでも、自信を失うだけで、よいことはない。
さて、これらの「他との比較による優劣づけ」が起こる原因も
仏教で語られてます。
それは、他と比較する「わたし」という錯覚があるから。
これが仏教的な「慢」の原因とされてます。
え、「わたし」という錯覚…?
何言ってるの?わたし、存在してるし!錯覚なんかじゃないし!
と感じますでしょうか。
ここについては、別なブログ
「"わたし"という意識」について = 脳科学と仏教の視点より に書かせて頂きましたが…。
少しだけ触れると、実は、最新の脳科学の知見からみても、
「わたし」という概念(意識)は、
実は確たる実体など持たぬ「脳が進化の過程で生み出した想定の概念」とされてます。
脳内の様々な解釈の集合のなか、つねに揺らぎ変化し続けるなか
自分に都合よく(合理的にまとめ上げられた)イメージとして
「わたし」という概念が意識に浮かんでくる。
なんじゃそりゃ?
でも、わたしの身体、錯覚じゃなく、確かにここにあるし。
そうなのですが、物理的な身体の「わたし」ですら
常に大量の細胞が入れ替わっていて、確たる一つのものとは言いがたい。
イメージとしては、空中の雲のように、うっすら見えてきて、形を変えたり、流れたり、
境界線の定かではないものを「コレが雲!」と呼ぼうとするようなもの。
それは、明確な境界線でくくれるようなものではなく、
自身の認識で「あれが雲」「これがわたし」と捉えている、観念上のもの。
つまりは、幻覚とも言えるかもしれないもの。
それでも、我々は、脳の仕組み的にも「わたし」という
さも「確たる一個の人格」が存在しているように錯覚し、とらわれるもの。
これは、もう、脳の進化の過程で生まれた「意識」というものが、
そう感じさせる(錯覚させる)ようにできているので、
「あるようにしか感じられない」。
なので「わたしらしさ」「自分さがし」という永遠に終わらぬ旅が生まれうる…。
…あ、少し触れるつもりが、ややこしく面倒くさくなってしまいました…。
スミマセン。
話を元に戻すと、「慢」は、自分という概念を他と比較し優劣をつけること。
なぜ、仏教的には、それは「煩悩」として避けるべきものとされるのでしょうか。
あくまで、薄っぺらな理解しかしてない自分なりの解釈で考えてみました。
我々の肉体は、常に大量の細胞が生まれては死に、
また、そこには自分の細胞以上の数の膨大な「他の生き物」である微生物達も棲み着いており、
それらも、常に生まれては死んで…。
川の流れの一部を切り取ろうとするようなもので、確たる境界などない。
そのためには、常に酸素や窒素などを吸い込み、水分や、様々な食物から元素を取り込み、
それらによって我々の肉体が保たれている。
川も水源からつねに新たな水が流れてこないと、川が保てないように。
それって、いわば
我々の存在は、自然の様々な物質の代謝や流れの一部として
周囲と切っても切れない状態であるということ。
食物や水を絶たれればいずれ死んでしまうし、空気が絶たれればすぐに死んでしまうように。
常に、自然の一部である。
なのに、それを忘れて「わたし」こそが、大切に扱われたいと「ワガママ」を言いたくなる存在でもある。
周りよりも、優位に、安全に立ちたいと思う存在でもある。
でも、時にそれが見なくなると、「我こそが」と「傲慢」さが生まれ、
無くてはならないはずの大切なものを見失ったり、
本来の目的と手段を取り違えたりして苦しくなってしまうのでは。
自分や家族が生きるための食べ物や住む場所を確保するための手段であるはずの「お金」が、
「わたしもあの人みたいにもっと多く」と「増やすこと」を目的化して、
自分自身が疲れ果てて、家族をないがしろにしたり、
その過程で心身を壊してしまったり。
実際には、いつどのくらいまで使うか明確ではないかもしれないのに。
自分たちが安心して生活できる状態を保つ手段であるはずの「国家」が、
「我が国の正しさを、他の国にも」と
他の国の国民と殺し合って、結果自身の国民を犠牲にしてしまったり。
「自分こそが正しい」というぶつかり合いは、互いのワガママかもしれないのに。
我々が安全で快適に暮らすための手段であるはずの「技術」が、
「もっと私たちの便利さを」と
我々が住む場所として必須であるはずの自然環境を破壊してしまったり。
自然が健全に保たれ、家族や周りの支えがなければ「わたし」が健やかに生きるのが難しい
「当たり前のあるがまま」が見えなくなってしまったり。
結局は「他よりも我こそが」という「ワガママ」が
見ている世界を、あるがままの姿を見えにくくさせて、
結果自分自身すら苦しめる道に進ませてしまうのでは。
でも、生命個体として、個体と感じる「わたし」は生き延びたいもの。
安全をもとめたいもの。
限られた食物と環境しかなければ、他を追いやってでも手にしたがるもの。
これも、生命として「あるがまま」の姿かもしれない。
でも、我々ヒトには智慧があるはず。
限られた資源でも、協力し、智慧を絞って、互いに生き延びる術を見つけ出したり
そのために争いあい傷つける前に、協力しあうことを学べるはず。
いくら他と比較したって、最終的には自分は自分の人生しか生きられない事も
理解できるはず。
比較そのものが悪いのではなく、
比較して「わたしこそは」「わたしなんて」と「優劣」にとらわれると
結果自分は幸せになりにくいのでは。
周りも幸せになりにくいのでは。
そう、浅はかながら考えております。
明日は、とあるベンチャーの会社さまの企画でお話をさせて頂く機会にて
この「慢」をキーワードにお話をさせていただこうと考え、
自分の考えをまとめる意味でも、
このブログを書かせて頂きました。
今日もお付き合いくださり、有難うございます。