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勇気がほしいときは「有難う」という"誰か"を心に想ってみる

小さな時に、やさしく接してくれた、甘やかしてくれた、 思い返してホッコリして嬉しくなる「誰か」はいますでしょうか。 小さい頃に飼っていたペットでもいいかもしれません。 不幸にも 「自分には、そんな存在なんてない。むしろ思い返すのも苦しい思い出ばかり。」 という方もいらっしゃるかもしれません。 でも、今、こうしてこのブログに書かれた言葉を理解できるまでに 成長を重ねてきた方々の幼少期には 確実に「生き延びられるよう世話をしてくれた人」がいるはずです。 記憶にはなくても、自分を大切に抱えて、乳を与えてくれたり あやしてくれたり、オムツを取り替えてくれた人はいるはずです。 そういった人に出会えなかったら、自分一人では生きられない幼少期を乗り越えて 今に至るまで生きてはいないでしょうから。 もしくは、小さな頃、やさしく接してくれたり、お年玉をくれたり おじいちゃんやおばあちゃんや、親戚の人や近所の人や先生やら、 誰かしら、やさしく接してくれた人を、覚えてはいないでしょうか。 そんな人の顔を、少しだけ思い返してみる…。 どんなひと/どうぶつが、目にうかぶでしょうか…。 どうでしょうか…。 その想いでがココロに浮かぶと とっても、有り難く、嬉しく、シアワセな感情が生まれませんでしょうか。 そして、「頑張らないとな」とか、少しだけ、勇気をもらえはしませんでしょうか。 それらの人は、今はもうすでにこの世にはいないかもしれません。 それらの人は、今も生きているかもしれませんが、すでにヨボヨボに年寄りになっていて 思い出の姿とは随分変わってしまっているかもしれません。 でも、当時の「思い出の姿」はいつでも自分の心の中で浮かび上がらせることはできるかもしれません。 その人が「生き生きとしている姿」は心の中で生きているかもしれません。 そんなふうに、 大切に自分を抱えてくれた人や、やさしくしてくれた人を思い出してみる。 その人や存在のことを想ってみる。 その人に感謝したり、その人の顔が自分の心に浮かび自分の「心に生きている」状態が 自分になんだか暖かいエネルギーを起こしてくれる。 頑張って生きようと想える勇気をくれる。 誰かを想うことが、自分を生かしてくれることにつながる。 それは「祈り」なのではと想うのです。 「祈り」は、誰かを想うことだけではなく、 自分の将来を願うことにも使うでしょう...

12月22日京都法然院さんのイベント登壇について

お知らせです🙏 2024年12月22日(日) 京都の法然院 さんにて、 松本紹圭さん との対談のイベントをさせて頂くこととなりました。 どなたでもご参加いただけます。参加料は御志納です。 会の概要は下記となります。 ----- 第333回善気山念佛会 第一部 午後3時〜3時半  念佛を唱え、礼拝いたします。 第二部 午後3時半〜5時  対談「インドでいきなり出家した僧侶のお話」松本紹圭師 x 小野龍光 第三部 午後5時15分〜6時半  歳末落語会 出演 桂 塩鯛師、桂そうばさん  プログラムの一部へのご参加も歓迎いたします。  引き続き6時45分から歳末懇親会を開きますのでご都合よろしければご参加ください。合掌 ----- なお、当日のお昼前後〜午後2時過ぎまで法然院さんの近くで(法然院さんのご迷惑にならぬ場所にて) ポカーンと突っ立っている時間を作る予定でおります。 もしご面会やお話などご希望の方がいらっしゃいましたら、お気軽にご活用くださいませ。 なお、会の後は、そのまま箱根へ戻る予定で考えております。 (が、予定は未定です🙏) ご検討くださいませ。 いつも、ご覧いただき、有難うございます🙏

「足るを知る」のは我慢じゃないのでは

 「足ることを知り、わずかの食物で暮し、 雑務少く、生活もまた簡素であり、 諸々の感官が静まり、聡明で、 高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない」 (ブッダのことば - スッタニパータ 中村元 八、慈しみ 一四四) 「足るを知る」「知足」などとも呼ばれる思想ですが この同時代(約2500年ほど前)では 中国の老子やギリシャのソクラテスも同じような思想を語ってるのは面白いですね。 「足るを知る」は、欲を抑え"我慢する"ことではない 。 そう考えています。 "我慢"は、その漢字が示すように「慢」を含む。 それは「自分は、それを手にできるはず」という慢心や傲慢さの現れでもある。 「我は、手にできるはず。だけど手にしない(という慢心)。」 これが"我慢"。 それは、苦しい。 だって"ガマン"しなきゃいけないのだから。 ※「慢」については以前のブログ  見ている世界を曇らせる"慢"というもの  をご笑覧くださいませ🙏 「足るを知る」は、冒頭のブッダのことばにあるように 「諸々の感官が静まり」「高ぶることなく」 つまり、こころおだやかな状態を指す。 「手にできるのに、抑える」という心の葛藤(我慢)など起こらない。 たとえば空腹感のように、身体的には何かの不足が生じていたとしても 「ただ、そう感じる自分(の生命)が有る事が有り難い」と 満ち足りた感覚が起きている状態。 それが「足るを知る」状態と考えています。 「(ガマンして)足るを知ろう!」と努力したり頑張って感じさせようとするのではなく 「満ち足りているのだなぁ」と自然と沸き起こって自覚するような状態。 それは、とても、心地よく、ホッコリ幸せな状態だと思っています。 足りないのを"我慢"するのではなく、自然と足りていると感じる その差は何なのでしょうか。 それは「自分」という存在を、どの視点から見つめるかがポイントなのだと思います。 「自分」を、自分だけの視点で見るのか、より時空を広げた視点で見るのか。 「自分」を、自分だけの視点で見ると「足りない」という感覚が生まれる。 すると、「本当は手にできる」「でも、ガマンしよう」という感覚につながりやすい。 「自分」を、空間を広げて他の人や自然の一部として...

効率を得ることで失うもの

 毎日のように、斧を振り回し薪を割っています。 何のために? 寒さの中で過ごせるよう、薪ストーブで暖を取るためです。 家でエアコンや灯油ストーブで温まるお金をかけぬよう 外で運動する方が身体が暖まり 余計なお金をネ申に負担頂かず済むため、というのもあります😅。 でも、薪で暖を取るのは、とても効率が悪い作業です。 薪を今日割っても、 それを燃やして暖を頂けるのは1年以上先の話です。 木は割ってから1年ほど乾燥させないと うまく燃えてくれないのです。 乾燥してないと余計な廃棄ガスも出て ストーブも傷んで、暖まりにくい。 実に1年以上かかる、とっても「効率」が悪い暖の取り方です。 しかも、薪を割って1年ほど時間をかけてようやく 暖を取れるようになっても、 それだけで一冬越すには 膨大な薪の量が必要です。 もし一冬を、エアコンも灯油ストーブも使わず 薪ストーブだけで暖を取ろうとするならば 家のサイズにもよるでしょうが、 1LDkサイズの家でも、薪は少なくとも2-300kgは必要です。 (たとえば1日20kg × 120日(11-2月) = 240kg) 薪として割るための原木も大量に必要です。 さて、どうやって原木を見つけて、 運ぶ手段を確保して、割ったあとの薪を保管する場所を確保しようか…。 …って、何の話でしたっけ。 あ、薪ストーブの話じゃなくって「効率」の話でした。 本題にまっすぐたどり着かないのは「効率が悪い」ことですね😅。 さて、このブログで考えてみたいのは 効率を得ることで 失うことはないのだろうか、ということです。 昨今、コスパ(コストパフォーマンス)、タイパ(タイムパフォーマン)と 「効率」を重視する世の中です。 我々は、どこまで効率があがれば、満足するでしょうか。 薪ストーブは、薪を自分で用意しようとすると とても時間がかかり、極めて効率が悪いというお話をすでにさせて頂きました。 でも、冷え切ったストーブに薪と焚き木をくべて しっかりと火が起こるかをドキドキしつつ はやく暖かくならないかなと小さな火にてをかざして待ちつつ 少しずつパチパチと燃える音とともに広がる炎を眺める なんともいえぬ楽しさや、 エアコンでは味わえない暖かさ(輻射熱など物理的にも暖かさは違います)があり その炎で炙った食品の美味しさたるや。 様々な、喜びを得ることもできます。...

生きているだけで役割を全うしている

箱根の山小屋にいる時は 毎日、文字と向き合いながら、合間に薪を割るか、落ち葉掃除をしています。 落ち葉掃除をするのは、棲む場所を整えるため。 落ち葉は放っておくと腐って土になり 様々な虫や草が生まれてくるし、ドロになって滑って危ない。 なにより、見た目スッキリすると気持ちもおだやかになる。 薪を割るのは、暖を取るため。 倒木を薪にすればお掃除にもなる。 どちらも、お金を生む行為ではありませんが 「生きるための行為」であり、 それは「しごと」とも言えるかもしれません。 雇われてないという意味では、無職の身ではありますが😅。 考えみると、「生きている」というのは 身体に酸素や食べ物を取り込み それを燃やして筋肉や脳を働かせているという状態。 僕がしている「しごと」という行為は 棲む場所を快適に整えたり、暖をとれるよう、 筋肉(と、ちょっとの脳)を働かせて、 倒木を掃除して、落ち葉を掃除して、それを燃やして暖まり、 そして、エネルギーを得て、また 筋肉を働かせて、掃除をし、薪を割り、それを燃やして暖まり…。 ぐるぐる回って…。 これは、まさに自然の循環の一部にいるという行為なのだなぁ。 自然の循環の一部として 代謝を起こしているのが「生きている」という状態なのだなぁと。 同じように お医者さんだって、科学者だって、アーティストだって、投資家だって、土方だって 食べ物を取り込み、代謝をして、筋肉や脳を働かせている。 どんな職業だって、そうだろう。 そうした「しごと」を通して、お金を手にして、 そのお金で棲む場所を整えたり 暖をとれる家や服や暖房機器を手にしたり 様々な体験で学んだり愉しんだり。 それでエネルギーを得て、また 筋肉や脳を働かせて…。 こうしてみると すべての「しごと」は、自然の循環の一部にいるのだなぁと。 時に、途中で「お金」が間にはさまったとしても、 「しごと」はお金を手にするのが目的ではなく その先の、「生きるための何か」を手にするためにあるのだなぁと。 そして、我々は、いつかかならずどこかで代謝が止まり 人生を閉じて、 燃やされるか、土に埋められるか、鳥に食べてもらうかなどして また自然の一部に戻っていく。 それでも、自然の代謝の循環の一部として、役割を保ち続けながら。 どんな「しごと」も、大きな循環の一部であることは、変わらないはず。 そう考えてみる...

自身の成長こそ次世代の成長につながるものかも

自分は子どもを育てたことがない人間です。 なので「教育」を語る資格など無い、というご意見もあるかもしれません。 けれど、教育を受けた事はあります。 って、みんなそうなんですが😅。失礼しました。 有り難いことに、子どもたちや教育者の方々向けへのお話の機会を頂戴したり 龍光ポストでも、子どもとの接し方に関するご相談は実に多く 「教育」について考える機会を頂く日々です。 今回新たに、特別支援学校の先生方へのお話の機会を頂戴し 改めて「特別支援学校」について調べてみました。 驚いたことに、少子化の中で、特別支援学級に通う生徒の数は増加を続けている。 いくつかデータがありますが、ここ10-15年で10倍!にまで増えているというものもあります。 一方、先生の数や学校の数はむしろ減っている。 この情報だけで、すぐに答えに飛びつこうとするのは、脳のいたずらで 偏見を生みやすいものなので、冷静に受け取らなくてはならないのですが、 かつては意識を向けられていなかった、 "多動症"や"自閉症"といった"発達障害"と呼ばれる「症状」が認知されるようになり 時には「医療」の対象になったり そういった「症状がある」とされる子たちも特別支援学級に通うケースがでてきていて 「特別支援学級の対象の子どもの範囲が拡がった」という背景もあるようです。 そこでは「発達障害」という名前が一人歩きし、 もしかしたら、一時的な現象で、時間とともに緩和するかもしれない子どもの状態に 「発達障害」というラベルを貼り付けることで 子どもの自信を奪ってしまっていたり、 その「症状」に不安になり「特別支援学級での支援をしてほしい」とリクエストする親御さんが増えて、学校や先生の負担が増しているケースもあるかもしれません。 一方で、様々な課題がある子たちに、画一的な普通教育"だけ"ではなく、 特別支援学級"でも"細やかな支援をできるようになったという一面もあるそうです。 とはいえ、特に「発達障害」とラベルを貼られる子どもの数と共に、 特別支援学級の生徒数が少子化の中増えているのは、大きな課題です。 この背景の理由は、画一的な「成績がよいほうがよい」という価値観や、 インターネットによる刺激の中毒になりやすい状況や、 相手の痛...

会って、話すこと。

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先日、銀座マメヒコでの 永田ジョージとのピアノ&トークライブ みなさま、ボクのピアノ、楽しんで頂けたでしょうか。 あの日のために、ずっと隠れて練習していたのです。 毎日、手にマメができるほど。 あ、仏教ではウソはダメって戒律に書いてました。 スミマセン。 でも、法華経という経典では、 ブッダが、集まったたくさんの弟子たちを前に 「オレ今までみんなに言ってきたこと 実はぜーんぶウソだったのね。 今から言うのがホントね」 と壮大なボケからスタートします。 嘘も方便です。 あ、重ねて、スミマセン。 さて、本題に戻りまして…。 その銀座のイベントで急遽、ジョージがステージへと呼びかけたのが 田中泰延(ひろのぶ)さん 。 ジョージのXの投稿でちょくちょくお見かけし ボケっぷりにニヤニヤしながら楽しませて頂いていたのですが、 ジョージとのトークライブに起こし頂いており 急遽ステージにも上がってくださり、 はじめてお話させて頂けました。 そこで印象的だったのが、 それまで大金を注ぎ込んで集めてきたコレクションを 「笑いながら捨てた」というお話でした。 コレクションを捨てるというより、それが保管されていた家ごと潰したという 大胆な捨て方だったそうですが😂。 ひろのぶさんは、電通のコピーライターというキラキラしたキャリアを捨てて 自分の会社を起こされた方です。 その名も 「ひろのぶと株式会社」 英語だと Hironobu & Co. キラキラした石や金属を売る会社… ではありません。 売れた分だけ印税が10%以上にアップするという新たな形の出版社だそうです。 (通常、本の印税は、本の値段の10%が著者に渡ります) Xでも直接お話を伺っても 常におもしろさに溢れたひろのぶさんより頂いた本のひとつが この「会って、話すこと。」という本でした。 この本は、コロナ禍に書かれたものだそうです。 もう忘れかけていますが、一時、 「外に出かけて、会いたい人に会うことすらできない世界になるのだろうか」 という不安と悲しみで埋もれそうになったのは、つい数年前のこと。 人間は、本当に忘れっぽく、 普通に外に出かけられる状態が「当たり前」になってしまうものですね。 とにかく、笑いっぱなしで、 でも、とても心暖かくなる本でした。 そして、内容は大変ためになる 学びも多く実践につながるもので...