勇気がほしいときは「有難う」という"誰か"を心に想ってみる
小さな時に、やさしく接してくれた、甘やかしてくれた、
思い返してホッコリして嬉しくなる「誰か」はいますでしょうか。
小さい頃に飼っていたペットでもいいかもしれません。
不幸にも
「自分には、そんな存在なんてない。むしろ思い返すのも苦しい思い出ばかり。」
という方もいらっしゃるかもしれません。
でも、今、こうしてこのブログに書かれた言葉を理解できるまでに
成長を重ねてきた方々の幼少期には
確実に「生き延びられるよう世話をしてくれた人」がいるはずです。
記憶にはなくても、自分を大切に抱えて、乳を与えてくれたり
あやしてくれたり、オムツを取り替えてくれた人はいるはずです。
そういった人に出会えなかったら、自分一人では生きられない幼少期を乗り越えて
今に至るまで生きてはいないでしょうから。
もしくは、小さな頃、やさしく接してくれたり、お年玉をくれたり
おじいちゃんやおばあちゃんや、親戚の人や近所の人や先生やら、
誰かしら、やさしく接してくれた人を、覚えてはいないでしょうか。
そんな人の顔を、少しだけ思い返してみる…。
どんなひと/どうぶつが、目にうかぶでしょうか…。
どうでしょうか…。
その想いでがココロに浮かぶと
とっても、有り難く、嬉しく、シアワセな感情が生まれませんでしょうか。
そして、「頑張らないとな」とか、少しだけ、勇気をもらえはしませんでしょうか。
それらの人は、今はもうすでにこの世にはいないかもしれません。
それらの人は、今も生きているかもしれませんが、すでにヨボヨボに年寄りになっていて
思い出の姿とは随分変わってしまっているかもしれません。
でも、当時の「思い出の姿」はいつでも自分の心の中で浮かび上がらせることはできるかもしれません。
その人が「生き生きとしている姿」は心の中で生きているかもしれません。
そんなふうに、
大切に自分を抱えてくれた人や、やさしくしてくれた人を思い出してみる。
その人や存在のことを想ってみる。
その人に感謝したり、その人の顔が自分の心に浮かび自分の「心に生きている」状態が
自分になんだか暖かいエネルギーを起こしてくれる。
頑張って生きようと想える勇気をくれる。
誰かを想うことが、自分を生かしてくれることにつながる。
それは「祈り」なのではと想うのです。
「祈り」は、誰かを想うことだけではなく、
自分の将来を願うことにも使うでしょう。
「合格していますように」
「告白した相手も自分に好意を持ってくれますように」
「宝くじが当たりますように…」などなど。
でもそれも、「そうなれるように頑張ろう」と願うことで、
結果的に自分に勇気をくれる行為ではないでしょうか。
ハゲアタマになっただけで
仏教的な生き方を少しだけかじっているだけの自分が「祈り」について語るのは恐縮ではあります。
前世(この姿になる前)は「無宗教」でした。
むしろ「宗教なんかに騙されてない自分は勝ち組」くらいに思っていました。
今も、ブッダを信仰しているわけではないですし
「信仰深い」ワケでもないかもしれません。
ですが、師匠と呼ばせて頂いている佐々井上人をココロに思い浮かべ
有り難さを感じたり、ご健勝を願ったりする行為も「祈り」なのではと感じるのです。
そして、それは自分自身のココロに勇気を与えてくれるものだと感じるのです。
そう、実感するのです。
そういえば、この姿になる前からも
お墓の前で、ぼくをあまやかしてくれたおじいちゃんや
しぬすんぜんにも、ぼくのことをおもってくれたおばあちゃんや
そのすがたをおもいだすと、とっても、ほっこりして
なんだか「がんばろう」っておもえてくる。
そんな体験がありました。
自分のことだけではなく、誰かのことを想う。
「あのとき、有難う」という人のことを想う。
それだけで、不思議と自分の中に「頑張ろう」と想える勇気が沸き起こる。
これも、自分に「あの人のためにも、頑張ろう」って勇気をくれる行為なのではと。
それは「祈り」にちかい行為なのかも。
「祈り」って言っても
お墓参りや仏壇に写真な名前が刻まれている親族に手を合わすことだけではなく
そこに名前や写真がない、
過去にお世話になった親族や、友達や、ペットや
ふと楽しい思い出をくれた誰かを想い出してみるだけでも、それは「祈り」みたいなものかもしれません。
その生命を思い浮かべてみる。
その過去の有り難い姿を想いだしてみる。
いまもある生命のすこやかさを願ってみる。
そして「いろいろ有難う。じぶん、頑張るよ」と言ってみる。
それは、自分に勇気をくれる行為かもしれません。
それは、その「だれか」を祈っている行為かもしれません。
さらには、それは「じぶん」のより良い未来へと、
自分で「選手宣誓!」をしている行為かもしれません。
「がんばろう」と想えるから、自分の未来は明るくしていける。
祈りは、誰かへの「有難う」を想うと同時に
自分の「頑張ろう」をくれる行為かもしれません。
「不幸ばかりの自分には、思い返しても、『有り難い』想いなんか浮かばない」
そういう方もいらっしゃるかもしれません。
でも、もし、このブログをみて、すこしだけでもホッコリして頂けたら
どうぞ、このハゲアタマや、ブッダの微笑みや、
ちょっとクスってなったお笑い芸人や
すこし恥ずかくもある初恋の人の顔や
キレイだなぁと感じた紅葉や、月や自然の風景を
想いだしてみてもいいかもしれません。
そんな想い出こそが「有り難いなぁ」というものかもしれません。
と、そんな戯言でした。
今日もお付き合いくださり、有難うございます🙏。