「自由な奴隷」の哲学者エピクテトス
いま、ココロが弱っていると感じる方には
このブログを読むことは
あまりオススメできません(汗)。
というのも、このブログは「ストイック」に感じる内容かもしれないからです。
「ストイック」は、感情に左右されぬよう理性で冷静に物事を捉える
約2300年ほどまえのギリシャで起こった「ストア派」という哲学思想が語源だそうです。
約2500年ほど前のインドで始まったブッダの思想にも"ストイック"さがあると思いますが、
インドとギリシャも交流があったので
ブッダ先生の思想が200年後のギリシャで拡がったのがストア派なのかもしれませんね。
って、その当時に生きてないので、知らんのですけど😅。
さて、このブログは
人に"所有されている"立場の「奴隷」でありながら
そして脚も不自由でありながら
それでも「自分は自由である。なぜならば…」という考えを説いた
エピクテトスという約2000年前のローマの哲学者の教えです。
奴隷というのは、誰かに自分が勝手に売買されたり
所有されて、言われることをしなければならない立場であり
ブラック企業や社畜なんて言葉が可愛く感じられるような立場。
それなのに「自由」だというのは、なぜなのでしょうか。
エピクテトスは、物事を
「自分しだいのもの」
「自分しだいではないもの」
の2つに分けることを説いています。
そして、ほとんどのことは「自分しだいではない」のだから
放っておけ、流してしまえ、気にするな、という立場です。
その対象は、自分の世間での評判、地位、
自分の子どもや親だけではなく、
自分の財産や身体ですら「自分しだいではないものだろう」と語りかけます。
じゃあ、なにが「自分しだい」なのか。
それは自分の解釈のしかた、意思のもちかた、
なにかを祈ったり求めたり、なにかを避けたり
そういった「こころ」というのは
「自分しだい」なのだから、そこに意識を向けよと語りかけるのです。
たしかに、自分の評判は、
自分がいくら努力しても、「他人がどう解釈するか」しだいですし
自分の地位だって、それを授けてくれる「誰か」の判断しだいです。
そして、自分の大切な恋人や伴侶、親や子どもだって
災害や病気など、自分ではどうにもならないときがある。
自分の財産だって、努力すれば手に入るかもしれないとはいえ
世の中の動乱や状況次第では、自分だけではどうにもできないときもある。
さらには、自分の肉体だって、ときに病気になったり
思うように動かなくなることだってある。
エピクテトス自身も、片足が不自由だったそうで、
自分の肉体ですら「自分しだいではない」状態だったようです。
たしかに、多くのものは、自分しだいではない。
でもエピクテトスは
自由に身体を動かせる他人を羨んだり
「自分もああなりたい」と嫉妬したりすることは
「意識をむけるな。気にするな。」というのです。
それらを気にするほど、自分のこころを自分で縛り付けて
まるで「自分で自分を奴隷にする」ように、
自分のこころが囚われ、自由でなくなるのだから。
というのです。
たしかに、「もっとお金があれば」「あの人みたいに人気があれば」
「もっと能力があれば」「もっと健康なら…」
そんな希望や望みはつきぬものですが、そういった「手にできてないもの」に
意識を向けてばかりいると、自分が今できることに意識が向かず
自分の「意思」が動かない状態になってしまうものでは。
それは、自分を「不幸せ」に感じさせるし、
幸せを感じるために自らを動かすチャンスに動きにくくさせる。
たしかに、それは「自分で自分を縛っている」状態かもしれない。
「奴隷」という立場だったエピクテトスがそう語るからこそ
その言葉の重みが増して感じるのです。
病気や貧乏や死ですら、「自分しだい」とはかぎらない。
ときに避けられないこともあるのだから
そんな時は、それを、ただそういうものとして受け入れていけと言う。
それは、正面から受け止めるには苦しくさせるように感じるのだけれど
不都合かもしれない出来事に目を背けることは
かえって「なんでこうなってしまったのだ…」と自分を苦しくさせるのだと。
それは「悲しい」と感じさせる自分の無意識な考えに縛られているのだと。
自分しだいではないものごとだってあるのだと勇気をもって受け入れ
「自分しだいでないことなのだ」と、覚悟をもって考えられれば
ココロはかえってラクに感じられるのだと。
自分のパートナーに「こうしてほしい」とか
誰かに「こう感じて欲しい」とか、「こう自分を見てもらいたい」とか、
他人に何かを望むような「自分しだいではない」ことに意識を向けるのだって
バカバカしいことではないか、と。
自分でどうにかなることと錯覚しているのではないかと。
自分しだいではないものに意識を向けずに
「自分しだい」である、自分の意思やこころに意識を向ければ
苦しみにくいのだと。
それは、本当なのでしょうか。
彼は奴隷という立場で、
自分の意思すら曲げられて
希望することができなかったり、
イヤだと思うことをしなければいけない時があったはず。
にも関わらず、なぜ「自分の意思や解釈、こころは、自分しだいで自由だ」
と言えるのでしょうか。
彼は、周りからの批判、貧乏や病気や死だって、
それは自分に利益をもたらすものと変えることができると言うのです。
自分の考えしだいで、これは自分を変えたり、忍耐力を手にしたり
しなやかで強い心を育てるキッカケにだってできる。
それは自分の意思の持ち方しだい。「自分しだい」ではないかと。
彼はソクラテス(彼にとって500年前くらいの先輩)の事を語ります。
ソクラテスは、自分の考えを「若者をたぶらかしている」と批判されて、
民衆から非難をうけても、自分の考えを変えず、
死刑の宣告を受け、牢獄に繋がれても、
逃げようともせず、死を恐れず、自ら毒杯をあおって
自分の意思で死を受け入れた。
牢獄に繋がれることだって、死を迎えることだって
「誰かにそうされた」という解釈を持つなら苦しみが生まれるかもしれないが
自ら手にした状況で、その中でこそ得られる体験があり、
その体験からこそ語れることがあるかもしれない。
実際に、ソクラテスは、獄中で若者たちに教えを説いて
その生き様を教えとして遺すことで、2500年もの長きに渡り
人々の心に残る教えを授けることができたとも言えるのではないでしょうか。
それは、死を受け入れることですら、
自分の意思やこころを「自分しだい」でなんとかできるのだと
我々に教えてくれた行為であったのだと思うのです。
エピクテトスも、ソクラテスのように「自分のこころを自分でなんとかしなさい」
「こんな状況じゃあ、自分はどうしようもない」という考えは
自分しだいである自分のココロを「なんとかしよう」という努力することを恐れ目を背けて
誰かや外部の何かが「なんとかしてくれる」と期待したり
「政治のせい」「親のせい」「会社のせい」「時代のせい」「家庭のせい」など
誰かや外部の何かのせいに押し付けたりしているだけなのでは、と。
恐れずに、実は自分でも気がついているかもしれない
「自分にしかどうしようもできない」事実を正面から見つめて
「自分しだいなのだから、自分でなんとかしよう」という勇気を起こすべきでは。
そうすることが、結果的に、自分が苦しまずにすみ、幸せを感じやすくなるのではと。
子どものようにダダをこねて泣きわめいたら
誰かがあやしてくれたり、なだめてくれるのは「他人しだい」であって
そうしてもらえるとは限らないのだ、と。
自分の心を自立させなさい、と。
そうすれば、仮に病気や死など
苦しく感じさせるものごとに向き合う時でも
自分のこころや自分の意思をまっすぐ保って前に進めるようになる、と。
苦しまずに前を向けるようになると。
それこそが、死にすら縛られない「本当に自由」な心をもてた状態ではと。
身体は病気で自由に動かなかったとしても、
自分が何を考えるかは、自分しだいでいつだって自由ではないか、と。
「批判」や「貧乏」や「病気」や「死」といった対象が
不安に感じたり、恐怖を感じるのだとしたら、
実はそれら自体が怖いのではなく、
それらに対する「考え方」が自分を怖くさせているのだと。
自分の考え方は「自分しだい」なのに、無意識に「怖い」と考えるから
怖く感じさせているのだと。
あえて、「自分はお金が少ない状態である」「自分は死にむかっている」などと口にして言ってみることで
たしかにそれは、ただ起きただけの現象や
起こるべくして起きる現象でしかないと
それを客観視することで
苦しさから解放されやすくなるのでは、と。
自分を苦しみから逃れたいなら
自分を自分の感情(無意識に起こる考え)で縛ることから解放させて
自分の考えは実は自由であり、考え方しだいで心の感じ方が変わるのだということを
理解し見つめることだと。
自分が、何か不安や怖さを感じさせる物事にぶちあたったときには
それに「自分は〜〜を怖いと感じている」と口に出し、
自分がどのような考え方を頭で描いているかを、客観視してみよと。
そうすると、違う考え方の自分を生み出し、「考え方は他にだって自由にできる」のであり
それこそが、不安や怖さを感じさせなくさせる結果につながると。
不安や怖さなどの「感情」の手前には
そのことに対する「解釈」や「判断」といった頭の働きがあるはずだと。
「いますぐ怒ってください」と言われても、怒りの感情を起こすのは難しいけれど
誰かに突然どつかれたら自然と怒りがこみあげてくるかもしれない。
でも、その過程では「殴られた」「バカにされた」という「解釈」が、怒りの感情を起こしているのでは。
その相手だって、誰かから押されて自分にたまたまぶつかっただけかもしれないのに。
自分に拳を振り上げて自分めがけて殴ってきたとしたって、
その人自身の病気や借金でムシャクシャしていた感情の八つ当たり先がたまたま自分に運悪く降り掛かっただけで
自分自身がバカにされたり憎まれたわけではないかもしれないのに。
まったく知らない人から刺されてしまうような、不運なできごとは
時に起こりうるもので、それは、どう努力しても「自分しだいではない」ものなのでは。
自ら望んでそんな不運をかぶりたくはないものだろうけれど、
どうこまでいっても「起きてしまうことはある」もので「自分しだいではない」ことなのではと。
自分の「解釈」は、無意識に浮かんで感情を起こしてしまうものなのだから、
つねに自分の「解釈」が「本当だろうか」と客観視して
自分の無意識な解釈に自分が縛り付けられていないか、
「自分を奴隷化」していないか、自分を注意深く観察して
他の解釈だってあるかもしれない、
そのように「一つの考えに縛られない」ことこそ「自分しだいの考えを自由に保てていること」ではと。
だから病気や死すらも、怖くないのだ、と。
自分の身体や生命だって、もとからあったものではなく
土や、自然(にある原子や物質など)から「与えられた」ものであって
「失う」ものではなく、「返すもの」でしかないのだから、と。
一時的に「借りているだけのもの」なのだから、と。
いままで、たくさん楽しませてもらっているものだのだから、と。
そのような考えを、説いてくれています。
(だいぶ僕なりの解釈も含んでおります)
いかがでしょうか。
「ストイック」かもしれませんね😅。
ブッダも自分を見つめて自分の考えを客観視することにストイックな点では近しいのですが、
ブッダの教えには「慈悲」のような
他人を自分の赤子のように見つめる心を説いてくれています。
エピクテトスは、あくまで自分に焦点を当てている点では
より「ストイック」に感じさせるかもしれませんが、
個人的には、まさにその通りなのではと感じさせる教えです。
ちなみに、「エピクテトス」という名前は
「後から獲得されたもの」という意味だそうです。
本名ではなく、本名はわからないそうです。
「ワシの名前はこうだ!」というこだわりすらない。
自分の名前が売れたり、世に遺すといった「名声」にも縛られない、
まさに自由な考えが表れた名前ですね。
にも関わらず、後に「ローマの五賢帝」とも呼ばれた
マルクス・アウレリウス・アントニウス皇帝の名著「自省録」にも
エピクテトスの教えが色濃く反映されていたり
(日本ではあまり著名ではないですが)後世の様々な思想家に影響を与えています。
気になる方は、様々な本がでておりますので、ご覧になってみてくださいませ。
今日もおつきあくださり、有難うございました。