「足るを知る」のは我慢じゃないのでは

 「足ることを知り、わずかの食物で暮し、

雑務少く、生活もまた簡素であり、

諸々の感官が静まり、聡明で、

高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない」


(ブッダのことば - スッタニパータ 中村元 八、慈しみ 一四四)


「足るを知る」「知足」などとも呼ばれる思想ですが

この同時代(約2500年ほど前)では

中国の老子やギリシャのソクラテスも同じような思想を語ってるのは面白いですね。

「足るを知る」は、欲を抑え"我慢する"ことではない

そう考えています。


"我慢"は、その漢字が示すように「慢」を含む。

それは「自分は、それを手にできるはず」という慢心や傲慢さの現れでもある。

「我は、手にできるはず。だけど手にしない(という慢心)。」

これが"我慢"。

それは、苦しい。

だって"ガマン"しなきゃいけないのだから。

※「慢」については以前のブログ 見ている世界を曇らせる"慢"というもの をご笑覧くださいませ🙏


「足るを知る」は、冒頭のブッダのことばにあるように

「諸々の感官が静まり」「高ぶることなく」

つまり、こころおだやかな状態を指す。

「手にできるのに、抑える」という心の葛藤(我慢)など起こらない。

たとえば空腹感のように、身体的には何かの不足が生じていたとしても

「ただ、そう感じる自分(の生命)が有る事が有り難い」と

満ち足りた感覚が起きている状態。

それが「足るを知る」状態と考えています。


「(ガマンして)足るを知ろう!」と努力したり頑張って感じさせようとするのではなく

「満ち足りているのだなぁ」と自然と沸き起こって自覚するような状態。

それは、とても、心地よく、ホッコリ幸せな状態だと思っています。


足りないのを"我慢"するのではなく、自然と足りていると感じる

その差は何なのでしょうか。


それは「自分」という存在を、どの視点から見つめるかがポイントなのだと思います。

「自分」を、自分だけの視点で見るのか、より時空を広げた視点で見るのか。


「自分」を、自分だけの視点で見ると「足りない」という感覚が生まれる。

すると、「本当は手にできる」「でも、ガマンしよう」という感覚につながりやすい。


「自分」を、空間を広げて他の人や自然の一部として見てみると、どうだろう。

手にできるかもしれないその対象は、自然からの授かりものであったり、誰かの支えのおかげでもあるかもしれない。それは有り難いことでもある。

もしくは、自分が手にしないことで、誰かから「有難う」と言ってもらえるものかもしれない。

それは、自分が誰かのために立てる、何かの役割を手にできていることでもあり、有り難いことでもある。

もしくは、時間軸を広げて過去や未来の一部として見ると、どうだろう。

その対象が生まれるには、過去の実にたくさんの人たちの努力があったかもしれないし、それを自分が手にしないことは、未来の誰かから「有難う」と言ってもらえることに繋がるかもしれない。

それも、有り難いことかもしれない。


今の自分は、決して「自分だけ」で生きているのではない。

必ず、父親、母親がいるし、今まで食べてきたたくさんの食べ物(動植物の生命)があり…。

今つかえている、電気もネットも、過去の誰かの発明や努力の上にあり、今この瞬間も、どこかで働いて支えてくれている人のお陰で手にできている。


「とは言ったって、お腹が空いてるんだもの。欲しいと感じてしまうんだもの。」

そうなのですが、それは「生きていられているから」でもあるのでは。

両親がいて、生きていられるだけの食べ物や水や酸素があって

今も息をできているから、感じられる事では。


でも、その状態は、当たり前じゃない。

我々は、必ず、人生を終える。

それは、いつ、どこで、どのように起こるかは、誰にもわからない。

今日、この後突然かもしれない。


自分は、自分の人生を生きているようで、

「自分の終わりを自分では知れてない」状態で生き続けている。

いつ、どこで、どのように自分の人生を終えようと決意している人であっても、

思う通りに事が運ぶかは、誰にもわからない。

それは「自分だけで生きている」わけでは無い状態とも言える。


結局は、僕らは、自分の人生を、自分だけでは生きているわけではない。

なのにも関わらず、つい「自分だけの視点」で物事を捉えてしまう。

だから「自分が手にできるはず」という"慢心"が生まれやすくなる。


でも、少し深呼吸をしてみると、どうだろうか。

思いっきいり、息を吐き出して、めいっぱい吸い込んでみる。

美味しい。心地よい。

ただ息があり、生きているということだけでも

十分に「有ることが難しい」有難きことかもしれないのでは。

時に、お腹が空いたり、足りなさを感じることはあるでしょう。

でも、それも「生きてる証拠」かもしれない。

いま、生きられているのだから。


そんなふうに「(息ができるって)満ち足りていることかもなぁ」という気持ちが生まれやすい心が育つと

さまざまな事に「有り難いなぁ」と感じられるようなるのでは。


そうすると、何気ない日常でも幸せに感じる機会が増え、

楽しくホッコリできる時間も増えていくのでは。


もちろん、何事も「ほどよさ」が大切です。

だからといって、ニコニコ餓死しろとか、

息をガマンして苦しいのに「まだ生きてるだけでも有り難く感じろ」と言いたいワケじゃあありません😅。

極端は良く有りません。


「ガマンしなきゃ」と感じるのか、「満ち足りているかも」と感じるのか。

それは、日頃の目線の育て方しだい。心の持ち方しだい。

日々の少しの意識付けで、生き方も変わっていくのではないでしょうか。


何かを"ガマン"し不満げに眉間にシワを寄せた顔して

「なんだか近寄りにくい人だ」と思われたり

自分ばかりがと主張して「ワガママな人だ」と見られながら

人生を閉じるのか、

いつもにこやかで「おだやかな人だ」と思われたり

ものや道を周りの人に譲って「やさしい人だ」と見られながら

人生を閉じるのか。

いつ終わるかわからないのが人生だとしたら

今日、どちらの生き方をするかで、

その人の「生き様」も変わっていくかもしれません。


ガマンなんてしなくていいんです。

だって、今生きられているじゃあないですか。

喜んで、そのことを味わってみればいいかもしれません。

ほら、息を吐き出して、思いっきり吸ってみる。

なんて、美味しく、清々しいのでしょうか。

とっても、有り難く、味わい深いものですね。

有り難いことです。


今日もお付き合いくださり、有難うございました。


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