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縁あってご覧頂けている全ての方へ

  生きるって、不思議なものですね。 なぜだか、「この世」という場所に、生まれ落ちていた。 そして、気がつけば、「ジブン」っていう"意識"ってものが生まれていた。 なぜ、ここにいるのだろう。なんで、生まれてきたのだろう。 そして、何のために生きればいいのだろう…。 答えは、もしかしたら、そこにあるのかもしれないし 人生を閉じるその時まで知らないままなのかもしれない。 分からないことだらけだけれども、 いま、ここに、自分がいて、息をしていて 「生きている」ってことは確かに感じられる。 そんな、たまたま生まれ落ちたセカイには 誰かがいて、いろんな生き物がいて、「自然」と呼ばれるセカイがそこにある。 大きくなって気がついたのは、 自然というセカイがなければ、そして、自分の周りの"誰か"がなければ 今の"自分"はないってこと。 そうして、いまも、自然や、たくさんの生き物や、多くの人達の支えがあって、 自分は今も生きている。 でも、生きるって行為は、決して簡単なことではない。 時に難しい病にかかったり、事故などで身体の不自由になったりすることもある。 それは、大体において、なんで、自分が、こんなタイミングでって時に起こりうる。 そして、心もうまくうごいてくれないことだってある。 なんだか、腹立たしくなったり、悲しくなったり、切なくなったりすることもたくさんある。 なんで、こんな想いをして生きなきゃいけないのだろうかと、全てを投げたしたくなることだて あるかもしれない。 そして、生きるほどに、悲しい「バイバイ」がある。 ときに、徐々に訪れ、ときに突然に。 なんで、先に行ってしまうんだよ。 ジブンをおいて、勝手に先にいってしまうなんて、ズルいよ。 寂しいじゃないか。切ないじゃないか。どうして、先にいっちゃうんだよ。 そんな苦しさや切なさを乗り越えなきゃいけないときだってある。 そして、自分も、いつか、バイバイを言う時がくる。 「バイバイ」すら口にせずに突然かもしれないし、 口も聞けない状態まで弱ってしまうこともあるし、 伝えられる人がいない状況になってしまうこともあるかもしれない。 そんなふうに、生きるって、難しいし、分からない。 だから、ときに切なくって、やぶれかぶれになるかもしれない。 けれど、生きていれば、 ときに...

大掃除について語るときにボクが語ること

「お〜でか〜けですか〜 レーレレーのレー」でおなじみ "レレレのおじさん"は 掃除だけで悟りを開いたとされるブッダのお弟子さんがモデルだそうです。 ちなみに"バカボン"はパーリ語のお経でもでてきますがブッダの敬称でもあり 「天才バカボン」の「ハンタイのサンセイなのだ」というセリフは 実に「空(くう)」の概念にもつながり、これについて話し始めると30時間くらいは…。 「オマエ、アタオカなこと喋るのはいいから、手を動かせ。掃除しろ。ハゲチャビンが」 そんなネ申からのお声が降り注いできそうですね…。 失礼いたしました…。 さて、みなさま、年末の大掃除は進んでいるでしょうか。 掃除をしなきゃいけないのに、 こんなくだらないブログに思わず掃除の手を止めてしまっているとしたら、 今すぐこのページを閉じて、ゴミ箱に捨ててしまってください。 スマホではなく、このページへのリンクを、です。 もしくは、その作者に「オマエのせいで、うちのダンナが掃除しない」 と苦情を伝えに行きましょう。 龍光ポストって検索すると、何でも伝えられるフォームがありますし 必ず返事があるそうなので、思う存分 クレームを伝えられます。 それで一件落着です。 たぶん。 えーと、終わりませんね。手を動かすんでした。掃除ですもんね。 ダラダラとくだらない話しばかりで、キリがありませんね…。 そう! そうなのですよ。 キリがないのですよ。 掃除ってものは。 だからこそ、レレレのおじさんのモデルのように 「掃除(だけ)で悟りを得る」ようなことも起きうるのではと。 って言いながら、自分悟ったことないので、テキトウですが。 さて、いったい、ボクは何について語りたいのでしょうか。 そうでした、大掃除についてでした。 僕は普段から、何か苦しさや不安で苦しいときこそ 早起き、散歩、挨拶、掃除、の4つをオススメさせて頂いております。 ※詳しくは下記のブログをご笑覧いただければ🙏 龍光ブログ:苦しみから離れるために、誰でもできる日々のオススメ by 龍光 - 日常で役立つやさしいブッダの教え というか、ほとんどのご相談には、この4つのどれかを絡めてお戻ししているような気がします。 ですので、いつも同じことしか言ってないワケです。 つまるところ、このブログを読み進めても、 この先に何ら新しい発見...

信じるものは救われる

「シュワキマッセリ〜 シュワキマッセリ〜」 「聖☆お兄さん」で地上でのバカンスを楽しむイエスが クリスマスが自分の生誕を祝うイベントと知らず 街中で流れるクリスマスソング「もろびとこぞりて」の 「主は来ませり〜」の歌詞の意味も分からず ロシア語か何かだとか思い込んで、楽しんではしゃいで歌う。 そのシーンが大好きです。 メリクリです。 みなさんは、サンタさんに何か願いを頼みましたか? 欲しいものがもらえる。宝くじがあたる。試験に合格する。会社に採用される。昇格が決まる。 モテるようになる…。などなど…。 大人になったら「そんなバカなことはしない」でしょうか。 でも、子どもたちが「サンタに何かを叶えてもらう」ことを信じている姿は ホッコリしますよね。 「サンタなんてシホンシュギのマーケティングのシステムでしょ」 なんて子どもに言われたら、クリスマスは楽しみにくいですよね😅。 いつから、クリスマスのファンタジーの夢から覚めて 「冷めた大人」になってしまったのでしょうか😂…。 大人になるということは、 サンタさんが「願いを叶えてくれる」ということが 実はファンタジーでしかないと知るような そんな小さな挫折を積み重ねることかもしれませんね😅。 (「呪術廻戦」でナナミンもそう言ってましたw) でも、年始に神社やお寺でお参りをする方の中には 神様やホトケ様に何かを願い祈る方はいらっしゃるかもしれません。 それも、ファンタジーなのでしょうか。 お恥ずかしながら、前世での自分は 「祈りなんてイミがない」という考えでした。 祈り願ったところで、結局は自分しだいでしかないし、なるようにしかならない、と。 でも、何か実現したいことがある時は、自分に言い聞かせるように 「やってみよう。なんとかなるだろう」と語りかける自分がいました。 それは、「祈る」といった行為ではありませんが、 自分を信じる行為では有り 自分を奮い立たせる効果は大いにあったと思います。 それが、自分の意思を強め、自信を生み出し 結果、実現に近づきやすい自分が生まれていった。 そんな効果があったのだと思うのです。 いまでは、これは「祈る」「願う」行為と近しいのではと思っています。 「やってやろう」と自分に語りかけることで、 「できるよう」と自分に暗示がかかり 意思や自信のチカラという、内なるエネルギーが生まれてくる。 ...

香山リカさんとの対談本「捨てる生き方」を出版頂くこととなりました

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2024年1月17日 本「 捨てる生き方 」を集英社新書さんより出版させて頂くこととなりました🙏。 北海道でへき地医療をされていらっしゃる精神科医・香山リカさんとの対談をまとめた本となります。 以下、ダラダラと長い「言い訳」がスタートしますが このブログでお伝えしたいメッセージは、とってもシンプルです。 「よろしければ、ぜひお買い求めくださいませ🙏🙏」 そんな、捨てられぬ我欲まるだしのハゲアタマの戯言を、 下記ご笑覧くださいませ😂🙏。 自分は、 ただインド旅行中に、「得度」という儀式を受けてハゲアタマになって帰国しただけの 無職の身です。 見た目はそれっぽくても「僧侶」と呼ばれるような立場でもありません。 着る衣を、それっぽい衣と作務衣以外、捨ててしまっただけです。 どこのお寺に属しているわけでもありません。 「そんな人間に本を出す価値のあるような内容などあるのだろうか」 お恥ずかしくも、ずっと悩みつつも、結果、今回の出版の運びとなりました。 「捨てる」という点では、ハゲアタマになる前からも、いろいろなものは捨てていました。 一旦無職になり、仕事も社会的な立場も捨て、なんなら住む場所も変えようと 日本での住所も捨てるなど。 とはいえ、得度という"できごと"をキッカケに、 確かにその後の生活スタイルは大きく変わり、 ほとんどの持ち物、服、お金も、そして肩書も捨てることになりました。 それにより、実感したこともありました。 捨ててみたら、なんとおだやかな心の時間が訪れたことか。 なんと多くの「空想上のものごと」にとらわれ、苦しんでいた自分がいたことかと。 そうか、 「捨てた」のは、なによりも、 自分では自覚できてなかった「とらわれ」だったのか、と。 それからは、 これまでに出会えなかった様々な方々との縁が生まれ、 体験も積み重なっていった。 本のオビにある「捨てて、豊かになる」の通り、 なんとも、有り難く、面白いものだなぁと。 「オマエ、なーんにも責任もたなくなったから、脳内花畑なだけだろ」 とネ申からもお褒め頂けるような、 "おだやかでおもしろき"、 そんな有り難い生き方が訪れました。 たった2年ほどですが、いまも、その途上にすぎません。 すべてを捨てたわけでもなく、奥さんを手放すワケでもなく わずかながらもお金は(3...

精神論は「正身論(正しい身体の論)」かも

あくまで、昭和生まれの古い考えの人間の戯言として…、下記ご笑覧くださいませ🙏。 「精神論」とは 気持ち次第で物質的に課題がある状況を乗り越えるといった意味だそうで、 現代では、「時代遅れ」と嫌われるものかもしれません。 ですが、心の持ち方で肉体的な変化が起こるといことは、 多くの方も経験があるのではないでしょうか。 例えばスポーツや仕事においても、気持ちが前向きの時の方がうまく進みやすく 肉体的な疲労があっても、あまり気にならなくなる、といったような。 ですので、精神論は「ある程度」は正しい身体の考え方、"正身論"と言えるのではと感じております。 ここで、今朝の自分のちょっとした脳内会議の議事録をお伝えさせてください。 ----- なんだか風邪気味かのような身体の重さがある…。 昨日の東京行で寒い中裸足でほっつき歩いて風邪引いたのだろうか…。 いや、ここ1-2週間、ハードめの薪割りの日々が多く その疲労感から風邪ににたような感覚を感じることもあったし、 まだ疲労が残っているだけかも熱も無いだろう。 とはいえ身体的にはちょっと風邪気味にも感じるから、 今日は屋内で文字に向き合う時間に費やそうか。 とはいえ、そろそろ大掃除。 木々の葉もだいぶ落ちきっているし、明日は天気も崩れるかもしれない。 年内の落ち葉掃除納めとはならないかもしれないけれど、 ここらで落ち葉掃除をまとめてやってしまいたい。 それに、自分だって様々なご相談のお戻しに、 「太陽を浴びて身体を動かす行為」として散歩やお掃除などオススメさせて頂いているのだし。 自分こそ実践が大事じゃないか。 ま、動けば、身体の調子も戻るでしょ。 ----- と、結果、落ち葉掃除を始めてみたのですが、 なんだかみるみる身体的なエネルギーが湧いてくる。 朝に感じていた倦怠感がウソのように。 気付けば4時間ほどレレレのおじさん状態でした。 日光をたっぷり浴びて身体を適度に動かしたことでの、セロトニンの効果なのでしょうか。 年末年始に箱根に訪れてくださる方々も落ち葉がなくキレイだと喜んでくれるだろうか、 と、そんな事を思うことでホッコリする、オキシトシンの効果もあったかもしれません。 そして、徐々に落ち葉が無くなっていく様子はドーパミン的な心地よさもあったでしょう。 これらが、ほどよくブレンドされて脳内にでる行...

「自由な奴隷」の哲学者エピクテトス

いま、ココロが弱っていると感じる方には このブログを読むことは あまりオススメできません(汗)。 というのも、このブログは「ストイック」に感じる内容かもしれないからです。 「ストイック」は、感情に左右されぬよう理性で冷静に物事を捉える 約2300年ほどまえのギリシャで起こった「ストア派」という哲学思想が語源だそうです。 約2500年ほど前のインドで始まったブッダの思想にも"ストイック"さがあると思いますが、 インドとギリシャも交流があったので ブッダ先生の思想が200年後のギリシャで拡がったのがストア派なのかもしれませんね。 って、その当時に生きてないので、知らんのですけど😅。 さて、このブログは 人に"所有されている"立場の「奴隷」でありながら そして脚も不自由でありながら それでも「自分は自由である。なぜならば…」という考えを説いた エピクテトスという約2000年前のローマの哲学者の教えです。 奴隷というのは、誰かに自分が勝手に売買されたり 所有されて、言われることをしなければならない立場であり ブラック企業や社畜なんて言葉が可愛く感じられるような立場。 それなのに「自由」だというのは、なぜなのでしょうか。 エピクテトスは、物事を 「自分しだいのもの」 「自分しだいではないもの」 の2つに分けることを説いています。 そして、ほとんどのことは「自分しだいではない」のだから 放っておけ、流してしまえ、気にするな、という立場です。 その対象は、自分の世間での評判、地位、 自分の子どもや親だけではなく、 自分の財産や身体ですら「自分しだいではないものだろう」と語りかけます。 じゃあ、なにが「自分しだい」なのか。 それは自分の解釈のしかた、意思のもちかた、 なにかを祈ったり求めたり、なにかを避けたり そういった「こころ」というのは 「自分しだい」なのだから、そこに意識を向けよと語りかけるのです。 たしかに、自分の評判は、 自分がいくら努力しても、「他人がどう解釈するか」しだいですし 自分の地位だって、それを授けてくれる「誰か」の判断しだいです。 そして、自分の大切な恋人や伴侶、親や子どもだって 災害や病気など、自分ではどうにもならないときがある。 自分の財産だって、努力すれば手に入るかもしれないとはいえ 世の中の動乱や状況次第では...

勇気がほしいときは「有難う」という"誰か"を心に想ってみる

小さな時に、やさしく接してくれた、甘やかしてくれた、 思い返してホッコリして嬉しくなる「誰か」はいますでしょうか。 小さい頃に飼っていたペットでもいいかもしれません。 不幸にも 「自分には、そんな存在なんてない。むしろ思い返すのも苦しい思い出ばかり。」 という方もいらっしゃるかもしれません。 でも、今、こうしてこのブログに書かれた言葉を理解できるまでに 成長を重ねてきた方々の幼少期には 確実に「生き延びられるよう世話をしてくれた人」がいるはずです。 記憶にはなくても、自分を大切に抱えて、乳を与えてくれたり あやしてくれたり、オムツを取り替えてくれた人はいるはずです。 そういった人に出会えなかったら、自分一人では生きられない幼少期を乗り越えて 今に至るまで生きてはいないでしょうから。 もしくは、小さな頃、やさしく接してくれたり、お年玉をくれたり おじいちゃんやおばあちゃんや、親戚の人や近所の人や先生やら、 誰かしら、やさしく接してくれた人を、覚えてはいないでしょうか。 そんな人の顔を、少しだけ思い返してみる…。 どんなひと/どうぶつが、目にうかぶでしょうか…。 どうでしょうか…。 その想いでがココロに浮かぶと とっても、有り難く、嬉しく、シアワセな感情が生まれませんでしょうか。 そして、「頑張らないとな」とか、少しだけ、勇気をもらえはしませんでしょうか。 それらの人は、今はもうすでにこの世にはいないかもしれません。 それらの人は、今も生きているかもしれませんが、すでにヨボヨボに年寄りになっていて 思い出の姿とは随分変わってしまっているかもしれません。 でも、当時の「思い出の姿」はいつでも自分の心の中で浮かび上がらせることはできるかもしれません。 その人が「生き生きとしている姿」は心の中で生きているかもしれません。 そんなふうに、 大切に自分を抱えてくれた人や、やさしくしてくれた人を思い出してみる。 その人や存在のことを想ってみる。 その人に感謝したり、その人の顔が自分の心に浮かび自分の「心に生きている」状態が 自分になんだか暖かいエネルギーを起こしてくれる。 頑張って生きようと想える勇気をくれる。 誰かを想うことが、自分を生かしてくれることにつながる。 それは「祈り」なのではと想うのです。 「祈り」は、誰かを想うことだけではなく、 自分の将来を願うことにも使うでしょう...

12月22日京都法然院さんのイベント登壇について

お知らせです🙏 2024年12月22日(日) 京都の法然院 さんにて、 松本紹圭さん との対談のイベントをさせて頂くこととなりました。 どなたでもご参加いただけます。参加料は御志納です。 会の概要は下記となります。 ----- 第333回善気山念佛会 第一部 午後3時〜3時半  念佛を唱え、礼拝いたします。 第二部 午後3時半〜5時  対談「インドでいきなり出家した僧侶のお話」松本紹圭師 x 小野龍光 第三部 午後5時15分〜6時半  歳末落語会 出演 桂 塩鯛師、桂そうばさん  プログラムの一部へのご参加も歓迎いたします。  引き続き6時45分から歳末懇親会を開きますのでご都合よろしければご参加ください。合掌 ----- なお、当日のお昼前後〜午後2時過ぎまで法然院さんの近くで(法然院さんのご迷惑にならぬ場所にて) ポカーンと突っ立っている時間を作る予定でおります。 もしご面会やお話などご希望の方がいらっしゃいましたら、お気軽にご活用くださいませ。 なお、会の後は、そのまま箱根へ戻る予定で考えております。 (が、予定は未定です🙏) ご検討くださいませ。 いつも、ご覧いただき、有難うございます🙏