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「公平・平等」の追求の先にあるもの

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 インドへ向け、経由地のベトナム・ハノイ空港におります。 空港はとても賑わっており多くの方が床に座って楽しそうに過ごしてます。 そんな中、見ていてほのぼのと感じたのは、 空港の床の電源をスマホの充電に使おうと苦戦していた人を見かけた空港スタッフが 一緒に床の電源を開けるのを手伝ってあげていた光景です。 ベトナムでの法律は知りませんが、日本だと 「電気の窃盗」と言われる行為でしょうか。 そもそも、日本では電源が使える場所がちゃんと塞がらて開けられない事が多いかもしれませんが。 でも、ここベトナムで目にしたのは、電源を開けようと困ってる方をみて、 空港スタッフがニコニコしながら助けてあげている行為でした。たまたま、かもしれませんが。 開けてもらった方も嬉しそうに、周りの方々も電源に群がる。 そのニコニコ助け合う姿を「あぁ、なんだかいいなぁ」と感じて見ておりました。 法律などのルールは、様々な価値観や倫理観をもつ人たちが集まる集団で 「勝手な、ワガママな行為」で集団に迷惑をかけぬよう作られたものであり それを守るのは大切な事だと思います。 でも現実の生活では、法律やルールがありながらも バレないところで、”違反”は行われている。 時に、法律を作る側の人や、法律を取り締まる側の人が、”違反”を隠れて行う。 これはおそらくあらゆる国でも集団でも起こり続けてきて、今も起きている事でしょう。 残念ながら、人は強くなく、誘惑や集団での行動に流されがちなもの。 もし「公平・平等」を徹底させたいなら あらゆる例外を許さず、ルールを適応させて行くこともできるでしょう。 ただ、個人的には、平等や公平の徹底は、果たして「自然」なのだろうか、思うのです。 そして、その徹底は「自然ではない」ゆえに、徹底された環境は「生きにくい」、幸せを感じにくい環境となるのでは、とさえ思うのです。 コロナが全世界で蔓延していたころ、 「コロナ警察」という言葉が流行りました。 コロナ禍の中、法律ではないものの生まれたルールとしての「自粛」を「守ってない」と指摘する人をそう呼んでいたと理解してます。 自分が守る以上、他の人だってそのルールを守らなければ、「守り損」となる。 自分も我慢するから同じく周りも我慢するべき。 これは、純粋な感情なのではと思います。 でも、多くの方は、そのような「相互監視」の環境で 息苦しさ

「成功」という”呪い”

このブログは「成功」を目指さなくて良いとか 成功を目指すのはよく無いという事をお伝えする目的のものではありません。 ですが、一方で 「成功は人生に必須」とか 「成功しないと幸せになれない」 と強く感じている方へ 「そんなことないかもしれませんよ」 「その考えから離れることが 実は幸せになれる一歩かもしれませんよ」 という可能性を 一緒に考えてみる目的のものです。 もしかしたら ”成功せねば”という想いが 「自分を苦しめる”縛り”」 のようなものになっているかもしれない。 幸せになりたくて「成功」を求めているはずなのに 「成功せねば」の想いが かえって自分が幸せを感じにくい状態に追いやる「呪い」のような役割になってしまっているかもしれない。 そんな可能性について考えてみるのが目的のものです。 「 成功はしたいですか?」 と問われたら 多くの方は「したい」と感じるものだと思います。 本来、自然の中で生存競争を求められる環境では、「失敗」は時に死を意味する。 ライオンに追いかけられ、逃げるのに失敗すれば、喰われて死んでしまう。 特に周りに仲間が少なく、周りから足が遅ければ、なおさら「餌食になる」可能性が高まる。 つまり、失敗(死亡)しやすくなる。 人間社会でも、ジャングルや荒地など、 食べ物や安全な居場所が限られているリスクの高い環境では、 自分の食べ物や住処を勝ちとる事に成功できなければ、 時に死のリスクが高まる。 だから、「失敗」は恐怖を感じさせる。 だから、「成功」は、できればしたい。 でも、それは、あくまでジャングルのような、安全を確保できなければ死んでしまうほどの危険な状況でのお話です。 ですが、現代の我々はどうでしょうか。 もちろん、災害や紛争の前線のような悲しく辛い現場では、安全の確保を「成功」しなければ生死に関わる状況もありますが、現在地球上に住む多くの人にとっては、餓死や紛争や災害による死のリスクより、自死や糖尿病による生死のリスクの方が、はるかに高いのが、数字の上での現実です。 ですので、「失敗」は、実は他者からの脅威によるリスクよりも、自ら招くリスクがあるものに変わって来ているかもしれない。 一方で「成功」も、現代ではほとんどが、生き死にに関わるほどのリスクのものではなくなってきているのでは。 できるなら スポーツや芸術に秀でた能力がある方がよい。

ノータイムポチリは縁を起こす

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僕が、仏門をくぐって、ハゲアタマになったのは「ノータイムポチリ」の仕業です。   「ノータイムポチリ」? なんじゃらほい? ですよね😅。 僕が仏門をくぐるキッカケとなったのは、2022年のインドの旅です。 一般の旅行者として、インドに遊びに行っていたら、 たまたま、そこでインド仏教会1.5億人の最高指導者でもある 佐々井秀嶺上人にお会いする機会を頂き 「オマエ、ボウズになれ!」と仰って頂き 今の姿になってしまったワケですが、 2022年9月に訪れた、インド・ナーグプルにて佐々井秀嶺上人より頂いた御言葉のシーン JQクエスト より そのインドの旅がうまれたのは、髙橋淨休(じょうきゅう)さんが突如、日本で得度したことがキッカケです。 2022年7月、突如、得度をしJQこと「淨休さん」となった髙橋くん 僕が資本市場の膨張ありきの世界に嫌気がさし、 いったん無職になろうと考えていた時に 彼は「オモシロそうだから」と、突如お坊さんへの道に、 さわやかにカジュアルに飛び込んでいったのです。 いわば「ノリ」なワケです。 彼は、これまでも、ノリで始めた仕事が、 広瀬香美さんのYouTube立ち上げや、その人気に火を付けるキッカケにつながったり いつも「オモシロそうじゃん」と、直感で人生を切り拓いてきた人間です。 突然ボウズ(見習い)になった彼と、突然無職になった僕と、 ノリで行くことになったインド旅行。 そこで、悪ノリにも近いかたちで押しかけていってしまった 佐々井上人。 そして「ボウズになれ」と佐々井上人に仰って頂き、 悩みつつも、仏門をくぐってしまった自分。 これらは、いわば、全て「ノリ」で起きた出来事とも言えます。 その時の、直感に従って、えいや!と足を踏み出してしまうというような。 その髙橋くんとは、彼が突然ボウズになる10年以上前からの付き合いなのですが、 僕が当時、後先考えず、オモシロそうだと思ったら新たなチャレンジに飛び込んでしまう姿をみて、彼は、とある言葉を僕にくれました。 「小野チン、オマエ、それ『ノータイムポチリ』だな」 と。 アレコレ悩んだり時間をかけたりせずに(ノータイム)、 ポチっとカジュアルに、一歩踏み出してしまう。 僕のその行動様式に、彼は「ノータイムポチリ」と名付けてくれたのです。 その髙橋くん自身が、突如ボウズの道に進んだのも いわば「ノータイム

「自分らしさ」は変化し続け、日々育てるモノ

自分にはどんな生き方が合っているのか? そもそも、自分はどういった人間なのか? 「自分の軸」とか「自分らしさ」って一体なんなのか?  就活や受験などの時期もあってか、 そんな内容に関わるご相談や質問をチラホラ頂いております。 「自分とは?」という問いは 進学、就職、結婚など、人生の転機を迎えた際に限らず 何気ない日常の中でも、 ふと気になるテーマかもしれません。 ということで、「自分らしさ」について、自分なりの考えをまとめさせて頂きます。 あくまで、無職のハゲアタマの戯言として、お流しくださいませ。 冒頭から申し訳ない味気もない内容でスタートなのですが、 結論から申し上げると「自分らしさ」なんて、 「確かなコレ」と言えるものなど、どこにも無いのでは。 だけれど、今日、今この一瞬も含めて、日々「作っていける」モノでは。 「磨いていける」モノでは。 そう、勝手ながら思っております。 実は、仏教的にも、最新の脳科学的にも、 「確たる一つの実体としての"自分"」など存在せず 「自分らしさ」も、あるように感じている"感覚"でしかない。 (いわば、脳内の空想上のモノで、あるという"錯覚"を感じるだけ) そう、自分なりに理解しています。 「自分という"感覚"」を感じる「自分の意識」は、 空に浮かぶ雲のように、常に変化し状況が変わり " 変化し続ける 現象"。 なので、「自分らしさ」みたいな感覚も 「コレっていう何か」が「あるように"感じる"」だけで、 それは、変化し続ける感覚における "その時だけの感覚"かもしれない。 そうだとすると、就活などで「自分さがし」をしてみても、 「コレだ!」みたいな終着点にたどり着けるワケではなく、 もし掴んだような気がしても、 それは、"その時そう感じただけの錯覚"かもしれない。 実際、大胆な決断をしたくなる自分もいれば 慎重に動きたくなる自分もいたり それでチャンスを逃してしまう自分もいたり、 「自分らしさ」というモノも、その時の状況によって揺れ動くものではないでしょうか。 だから「自分さがし」といった行為は、 「人生ずっと続く、終わりなき旅」みたいなものかもしれない。 じゃあ、「自分さが

頼れるものは自分しかない

  ブッダの(本来の)教えは結構残酷です。 「頼れるのは、自分しかない。他を頼るな。」 というものです。 ※その後仏教の発展や時代背景の変化とともに「他力本願」という考えも生まれてますが、オリジナルのブッダの教えは「自分を頼れ」です。 実は「他力本願」も、それを"心から信じて念じてこそ救われる"という「自身の努力」が土台にあるという点では実は「自分を頼れ」と共通の要素が含まれていると勝手ながら理解しています。 さらには、自分のことすら「どうにもならない」ことがあるものだ、と。 だから、何故、自分以外の他人のことをどうにかできると思うのか、と。 そんなスタンスの教えです。 自分の子供や伴侶であっても、それは自分ではないのだから、思う通りになるハズがないではないか、と。 だって、自分の肉体だって、実は知らぬところで病気になってしまっていたり 自分の感情だって、思う通りにならないときだってあるのだから。 だから、ひたすら精進(努力)が必要だよね。 といった考え、と理解しています。 「ひたすら自分で頑張れ」といった考えは、 「精神論」的なものに聞こえるものかもしれません。 でも、「精神論」って悪い事なのでしょうか。 何か困難にぶつかったときに「気合と精神で乗り越えろ」といった「精神論」は、時代的に流行らないとされてます。 たしかに、これまで精神を鍛える努力をしてこなかった人に「気合と精神で乗り越えろ」というのは これまで筋トレをしたこともない人に、重たいバーベルを持ち上げろというくらい、無茶なことでしょう。 ですが、だからといって、心(精神)を鍛えなくてもよい、とは思わないのです。 心(精神)だって、身体と同様に、日常から鍛えてないと、いざという時に困るものではないでしょうか、と思うのです。 たとえば、身体は、日常から鍛えてなければ、変化の多い気候の中で生き抜くのは大変なワケです。 それと同じく、心(精神)だって、日常から鍛える機会がなければ、難しい出来事にぶつかった時に、向き合うのは大変なワケです。 「精神論」が問題視されるのは、 人それぞれ、これまでの精神的な鍛錬レベルや、そもそもの耐性が異なるにもかかわらず、 同様のレベルで「精神的耐性を発揮せよ!」 「気合い(精神)があれば乗り切れる」と要求することが問題なワケであって 一方で、「心(精神)が鍛え

縁は巡る

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「時には、昔の話しを…。」 ということで、少しだけ自分の前世にまつわるお話をお許しくださいませ。   自分がこのようなハゲアタマになったのは、 2年前の2022年9-10月に、たまたま訪れた旅行先のインドで インド仏教会の最高指導者でいらっしゃる佐々井秀嶺上人にお会いし 「オマエ、ボウズになれ!」と仰って頂いた事がキッカケです。 そして、その旅行の縁となったのが、JQこと髙橋淨休(じょうきゅう)さん。 彼とは20年来の親友で、元々はtwitter(X)経由での出会いという、 また変わったご縁での繋がり。 その彼が、僕が前世でのビジネスの世界で苦しみ、 いよいよその世界から離れる直前まで勝手に自身を追い込んでいた時に 夜中、突然、僕に突飛な写真とメッセージを送ってくれました。 「得度したったww 京都の仁和寺で。 淨休になりました」 「は??ww え?www どういうこと???www ちょw、話しきかせて!!!」 彼の家は、お寺や仏教とは全く縁が無い。実家にも何度も言っているし、 なんなら兄弟やその家族とも合うくらいに深い繋がりだけど 「仏教」なんてキーワードも聞いたことがない。 彼は元々、突飛な行動をとる人間ではあったけれど、なんで?いきなり? そして「得度(とくど)ってなに?出家ってこと?」 いろいろ、イミがわからない。 にも関わらず、なぜだか、半泣きでゲラゲラ笑いが止まらない自分がいました。 何だか良くわからないながら「あのやろう、やりがたって!」という気持ちの自分がおりました。 そして、数日がたち、僕のもとへやってきてくれた淨休さんに 根掘り葉掘り聞いていく。 「いや〜、なんか、実は昔から、お坊さんになりたいっておもってたんよ」 「(本名の)淨久(きよひさ)って名前、じいちゃんがつけてくれたんだけど どうやら、お坊さんになってもいいような名前を選んだらしいし」 一見、人生の一大事の決断をしたように全く見えない彼が カラカラと明るく笑いながら、ことの顛末を話してくれる。 「でも、得度?出家?っていうの?そんな簡単にできるもんなの?」 「いや〜、普通はお寺の子供だったり、仏教の大学でたりとからしいんだけど たまたまオモロい事に、お坊さんと出会う縁があって、そのお坊さんに 『ぼく、実はお坊さんになりたいって思っていたんですよ〜』って言ったら 『あ、なれますよ。なりま

たかが「あいさつ」されど「挨拶」

  当たり前すぎて忘れがちですが どれだけ能力やお金や権力や名声を手に入れても 誰かの支えなくては生きていくだけでも難しいのがヒトの実態だと思います。 大きな屋敷を所有し、お金もうなるほど持っていても スーパーに食品が出回らなかったら(いまのコメのように)、 もしくは農家さんが高齢化でどんどん減っていってしまったら、 はたまた外交問題で海外からの食品の輸入が細ってしまったら、 食べるものを入手するのが難しくなるかもしれない。 (日本でも、たった80年ほど前にそれが起きてました) お金や健康に余裕がなければ、なおさら、 生きていくのに、まわりの支えが必要になる。 ときには少し食物をわけてもらう事も必要かもしれないし、 心身がおぼつかない時は、食物を買いにでかけることすら 自分だけでは難しくなり、誰かの支えが必要なときもある。 そんな時は、余裕もないから、ついイライラして、 周りにあたりたくもなるかもしれません。 でも、どれだけ、政治や、経済や、家族や、まわりにケチをつけても 結局は、まわりや、 顔の見えない誰かに支えてもらって生きているのが実態なのだと思うのです。 生きていれば、「思う通りにならない」不満は沸き起こってくるのは 避けがたいことかもしれません。特に余裕を感じなければ、なおさらです。 それは、能力やお金のある無し関係なく、睡魔や空腹感のように 「どうやっても勝手に沸き起こってくる感覚」なのだと思います。 そんな「思う通りでない」モヤモヤが起きたとき、 その不快感を周りの誰かにぶつけても、自分の不快感は消えてくれないどころか、 周りとの関係は冷めていく一方。 だって、誰だって、ケチをつけたり、イライラしていそうな人とは あまり一緒にいたくないし、何かを支えてあげようと思いにくいものだから。 「なんで自分にイライラぶつけるのさ」と、逆に反感を買ってしまう。 「思う通りにならない」と感じているのは自分でしかないのだし、 背景としては「こうあってほしい」という自分の希望や期待から起きている感覚のハズ。 じゃあ、まずは自分がどうすれば「こうあってほしい」姿に近づけるのだろう。 周りに「こうしてほしい」ではなく、自分が「どうありたいか」を見つめてみるのはどうだろう。 だって、周りの他人は、自分ではどうにもならないことが多いのだから。 自分がまずできる確かなことは、自分