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他者を認めることは負けなどではない

 ヒトは脳を通して世界を見て解釈する以上 自分の脳の解釈を超えることはできない。 なので、常に「自分の見立てこそが正しい」と感じるし、思いたい。 そして、違う意見に対しては心を閉ざしがちになる。 だって、自分には「そう感じる」のだから。 違う感覚は、「そうは感じられない」以上、認め難いものだから。 でも、信号の色が「青」という人もいれば「緑」というヒトもいるし 築き上げてきた秩序を保つ事こそが大事という人もいれば、破壊して改革を目指すことが大事という人もいる。 人は、それぞれタイプも違うし、物事の"感じ方"だってそれぞれ違って当たり前なもの。 猫は自由気ままでツンデレだからこそ可愛がられることもあるが、 仮に犬のようにシッポを振って忠誠を示す猫ばかりだと、 暑苦しく感じられて、かわいがってもらえないことだってあるだろう。 誰もが自分が大切だし、 自分が感じてきた経験で自分が「信じられる」ものが育てられていくのだから、 自分の「信じる考え」だって大切なハズ。 だから、自分の信じる考えを否定されるのは恐ろしいし、 「自分にはそう感じる」感覚を信じたいから、違う考えを否定したくなる。 自分に対する批判があると「相手は分かってない」「相手が間違っている」と思いたい。 でも、繰り返しだけれど、それは「自分の脳の解釈の範囲」の"感覚"でしかない。 「犬のほうがカワイイ」と"感じる"人に、「猫のほうがカワイイに決まっている」と自身の"感覚"を主張しても きのこの山 vs たけのこの里紛争のように、それぞれ「感覚」の世界なので 共有しきれる訳はなく、そもそも議論にならない(国家間だとこれが戦争にもつながるのでしょうが)。 でも、実は、自分の考えに固執するほど、自分自身がイヤな思いに苦しみやすい、 というのが、世の常ではないでしょうか。 だって、自分が「絶対こうだ!」と強く信じる物事ほど、 周りにも理解してもらえないと、ツラく苦しくなるものだから。 そして、自分の考えは「正しい」と主張するほど、違う感覚の他人との摩擦も増えて、 他人にもイヤな思いをさせて、結果的に周りとの人間関係も傷つけやすくなる。 それは、ブーメランのように、自分にイヤな思いを起こさせることにつながる。 なので「自分が正しい」と固執し続

資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれない - 龍光ブログ

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  サピエンス全史で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新著書"Nexus"が もうすぐ発刊されるに伴い、ふと 氏の「ホモデウス」を読んだのに、サピエンス全史と違って内容を覚えてないぞ…。 途中までしか読まずで終わったのだっけ…。 と、昔かったKindle(電子書籍)を引っ張り出して読んでみてます。 ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来 ビックリしたのですが、 めっちゃマーカーを引いた跡がある。たしかに、自分は読んでいる。 しかも購入したのは2020年3月。前世を終える間際。 でも、その内容たるや、まったく記憶に留まっておらず 今あらためて読んでいて、新鮮な感動とともに読み直している自分がいる。 「ホントに、このマーカー引いたの自分なのだろうか?」と疑いたくなるくらいに。 そして、下記の部分を読んで これを「分かったつもり」になっていながら、分かってなどなかったから 当時、さんざん苦しんで、結果、縁あって得度に至ったのだろうと なんだか感慨深く読み返しました。。。 つまるところ 「資本主義は快楽を求めるがそこで幸福にはなれるわけではない。」 ブッダの教えとともに、めっちゃ書いているじゃないですか…。 「ホモデウス」より抜粋 --------------  ブッダのこの幸福観は、生化学的な見方との共通点が多い。 快感は湧き起こったときと同様にたちまち消えてしまうし、人々は実際に快感を経験することなくそれを渇望しているかぎり、満足しないままになるという点に関して、両者の意見は一致している。 ところが、この問題には二つのまったく異なる解決策がある。 生化学的な解決策は、快感の果てしない流れを人間に提供し、けっして快感が途絶えることのないようにできる製品や治療法を開発するというものだ。 一方、ブッダが推奨するのは、快感への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにするというものだった。 ブッダによれば、私たちは心を鍛錬し、あらゆる感覚が絶えず湧き起こっては消えていく様子を注意深く観察できるようになれるという。 自分の感覚の正体、すなわち儚く無意味な気の迷いであることを心が見て取れるようになったとき、私たちはそのような感覚を追い求めることへの関心を失う。 湧き起こるそばから消えていくものを追い求めることに、何の意味があるというの

「自分の〜」という不確かな概念

※あくまでシロートの解釈の内容としてご笑覧ください※  初期の仏教経典を読むほどに 当時の時代(約2500年前)には 「所有」という概念に、現代の概念とは違う曖昧さを感じます。 ブッダの時代は約2500年程前で、貨幣というものが普及し始めた時代だったようです。 たとえば、土地の所有という概念も、今のようなしっかりと区画が仕切られていて そこに侵入するだけで咎められるようなしっかりしたモノではなかった様子です。 まだ貨幣経済の始まりの段階だったので、貨幣の代替物として得た、 土地やモノといったものへの「所有」の概念も違うものだったのでしょうか。 とはいえ、貨幣の普及とともに、「自分の〜」という概念も 一般の方々にも膨らんでいった時代でもあったのでしょう。 だからこそ、ブッダは、あらゆる「自分の〜」といった物事は 実体のない概念にすぎないから「気を付けて」と説いたのかもしれません。 なぜなら、「自分の所有」という概念は 実体がない、脳内での設定にすぎない。 自分や、周囲の人たちと、共通認識の上で「XはAさんの持ち物」という概念にすぎない。 そこに、言葉も話しも通じないゾウやトラが来て、Xをかっさらっても、 どうしようもない。 洪水でXが流されても、どうしようもない。 でも、その「自分の〜」という概念は脳内で膨らみつづけ それは自分をも悩まし、他人ともトラブルになりがちなものだから。 だから「自分の〜」という概念の不確かさに気がついていなさいと ブッダは説いたのかもしれません。 「自分の〜」という概念が不確か、というのはどういう事でしょうか。 なかなか、イメージがつかないかもしれませんので、ちょっと見ていきましょう。 たとえば、スマホ、のようにリアルな物体としての所有物。 いままさに手に持っているモノ(スマホなど)であれば 「持っている」という動作として表現はできるけれど それを「所有している」と表現すると、どうだろう。 「いや、自分で買ったスマホだし、自分の持ち物でしょ」というのが 現代の考えだけれど、それは、貨幣(お金)で持って「所有権」を手にした状態なだけ とも言える。つまり「権利」を持っているだけで、 そのスマホは泥棒に持っていかれたら、所有してない状態となる。 (所有権は主張し続けられるけれど) もともと、スマホを構成しているすべての物質は、地球のどこかにあった

誕生日への感謝のことば

8月30日は 自分の師匠でもある佐々井上人の誕生日です。 2024年、今年で90歳になられました。 お電話でお話した際は 「心は青春だが、身体は年寄りだ」と仰られておりました。 お元気でいらっしゃるだけで、有り難い存在です。 自分が散々悩み惑っていたなかで 生き方を示してくださった 自分にとっては、生命を拾って頂いた そして新たな生き方を示してくだった 文字通りの生命の恩人であります。 有り難い限りです。 そして、私事ではありますが、 8月30日は、僕の母親の誕生日でもあります。 今年で81歳になる母親に電話したら 「私、8月30日って、暑いさなかに生まれて 自分みたいにバカな人間が生まれる時で好きじゃなかったけど 今思うと、(生まれの)新潟の暑い中で (自分の)母は自分をお腹に身ごもっていて過ごしていた事を思うと 大変だったろう。と思うのよ。 生きていると、考え方って変わるもんなのね」 そう、とても有り難いお話をしてくれました。 今は亡きばーちゃんにアタマが上がりません。 有り難い限りです。 こんな風に、誰もが、いろいろなヒトの頑張りの元に いまこうして息をできているのだなぁと つくづく有り難い限りです。 このブログを読んでくださっている方がいるだけでも 自分にとっては、恵まれており大変有り難い限りです。 心より、有難うございます。 このように、いまも日常で頂く様々な御恩に ただただお返しを少しでもできるよう これからも精進してまいりたく存じます。 こうした生き方を授けてくださった佐々井上人 自分を生んでくれたかーちゃん、そのかーちゃんを生んでくれたばーちゃん、 あらゆる自分につながる人たちへ 有難うございます🙏

「とにかく頑張らないと」中毒?

現代を生きる我々は 「とにかく頑張らないと」の中毒にかかっているのかもしれない。 そんな戯言です。 40代くらいの方なら聴いたことがあると思いますが かつて「24時間戦えますか!」と 明るく元気よく高らかに歌われれる栄養ドリンクのテレビCMが流行りました。 そのCMが流れていた時代を調べたら1988年のことでした。 まだバブルの余韻があった頃でしょうか。 今でこそ「ブラック企業」という言葉がありますが その当時は、24時間でもモーレツに働くのが 「イケてる」姿と捉えられていたのだと思います。 さて、あくまで私見ですが、なぜ、このような風潮が生まれたのかについて。 第二次世界大戦の敗戦は、物質的にも心理的にも 大いにくじけた、強烈なショックをもたらすものだったのでしょう。 とにかく食べるだけでも苦しかった苦しさからの解放を求めて、 一方で、耐え抜いて努力したのに結果に出なかった(負けた)悔しさや、 戦前の様々な不条理に対するやるせなさや怒りの矛先として 日本の「高度経済成長」へのエネルギーが生まれた。 食べられる物の充実、衛生環境の改善といった、生きるための土台の改善とともに 冷蔵庫、洗濯機、掃除機、カラーテレビ、などなど 生活で極めて実感のある「進歩」「新しさ」といった 生活の変化に溢れていった。戦後の数十年は、そんな時代だったのかもしれません。 だから、働く程に、努力するほどに、「生活が豊かになる」実感を得やすかった。 生きる意味として、「豊かな暮らしを目指す」というのが、わかりやすく 「物質的な豊かさによる、生活の変化」もわかりやすかったのでしょう。 そのために、一生懸命勉強して、いい大学に入って、 「良い」と世間で言われる職業につけば、 そしてそこで一生懸命頑張っていれば、 「豊かな生活」につながると信じられていたし ある程度は実感できることもあった。 大昔の話しではなく、たった80年ほどのお話です。 「頑張るほど豊かな生活」の実感は、 (肌感ですが)30年前くらいまではまだ強く感じられていたものの、 ここ30年くらいは、どうでしょう。 この30年ほどは、それほど生活の質を劇的に変えるような 新たなものはコンピューターやインターネットの普及くらいかもしれません。 もちろん、車は衝突を予防してくれたり、 全国高速道路や新幹線でいけるようになったり 掃除機は自動で

能力は囚われにもなる - 龍光ポスト

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 タイのチェンマイにて 僧院で滞在させて頂く傍ら 現地の盲学校にお連れ頂く機会を頂戴しました。 チェンマイでの滞在をサポートくださっている方に我がままをお伝えし 「もし可能なら、様々な社会課題にまつわる現場に学びに行かせて頂きたい」と ご相談させて頂いていたのですが、 各方面をいろいろと検討頂いた結果、 縁が生まれたのが、その盲学校となります。 いろいろと感動的な出来事があったのですが、まずは”タンブン"について。 タイ語の"タンブン"は、 日本でいうと「お布施」や「寄付」など 「功徳(くどく・徳を積む)」といった意味合いだそうです。 仏教が浸透しているタイでは、タンブンをするのは一般的だそうです。 僕を盲学校に連れて行ってくださる方も、盲学校にタンブンとして食品などを用意くださったのですが、 それを知った周りの方々も、次々と集まり 「その盲学校にタンブン(寄付)をしたい」と、 僕を盲学校に連れて行って頂く方のお家にたくさんの品々が届けられたのです。 「(タンブンをする)貴重な機会を有難うございます」とまで仰って頂きつつ。 改めて感じたのは、何か徳を積む機会を喜んでされる方が多い、 その機会が生まれればとても積極的に寄付やお布施などの行為をされる、 ということです。 モチベーションとしては、 来世や現世で善きことが、という「信仰心から」ということもあるかもしれませんが、 お話を聴いていて感じるのは 「ただ、誰かの役に立てる機会が嬉しい、幸せに感じる」という 純粋な善意で動かれる方が少なくないという事です。 もともと、誰かのために何かをすることへの喜びを実感していらっしゃる方々が、 たまたま今回、自分が盲学校に連れて行って頂く という機会によって、その機会で行動を起こしてくださった。 自分は、たまたま、その触媒というか、アンプというか、 携帯の電波の増幅アンテナというか、人々の善意が巡る繋ぎの役割になっただけで それは、リューコーじゃなくてもヨーコーでもパーコーでも良いわけですが、 皆さんの善意が集まる縁が起きたという点では、有り難い限りでありました。 お米だけでも50kg分と、皆様のたくさんの善意が、チェンマイの盲学校にお届けすることができました。 そして、その盲学校にて…。 10名くらいの生徒たちが、タンブンを運んでくださった我々に