能力は囚われにもなる - 龍光ポスト

 タイのチェンマイにて

僧院で滞在させて頂く傍ら

現地の盲学校にお連れ頂く機会を頂戴しました。

チェンマイでの滞在をサポートくださっている方に我がままをお伝えし

「もし可能なら、様々な社会課題にまつわる現場に学びに行かせて頂きたい」と

ご相談させて頂いていたのですが、

各方面をいろいろと検討頂いた結果、

縁が生まれたのが、その盲学校となります。

いろいろと感動的な出来事があったのですが、まずは”タンブン"について。


タイ語の"タンブン"は、

日本でいうと「お布施」や「寄付」など

「功徳(くどく・徳を積む)」といった意味合いだそうです。

仏教が浸透しているタイでは、タンブンをするのは一般的だそうです。

僕を盲学校に連れて行ってくださる方も、盲学校にタンブンとして食品などを用意くださったのですが、

それを知った周りの方々も、次々と集まり

「その盲学校にタンブン(寄付)をしたい」と、

僕を盲学校に連れて行って頂く方のお家にたくさんの品々が届けられたのです。

「(タンブンをする)貴重な機会を有難うございます」とまで仰って頂きつつ。


改めて感じたのは、何か徳を積む機会を喜んでされる方が多い、

その機会が生まれればとても積極的に寄付やお布施などの行為をされる、

ということです。


モチベーションとしては、

来世や現世で善きことが、という「信仰心から」ということもあるかもしれませんが、

お話を聴いていて感じるのは

「ただ、誰かの役に立てる機会が嬉しい、幸せに感じる」という

純粋な善意で動かれる方が少なくないという事です。


もともと、誰かのために何かをすることへの喜びを実感していらっしゃる方々が、

たまたま今回、自分が盲学校に連れて行って頂く

という機会によって、その機会で行動を起こしてくださった。

自分は、たまたま、その触媒というか、アンプというか、

携帯の電波の増幅アンテナというか、人々の善意が巡る繋ぎの役割になっただけで

それは、リューコーじゃなくてもヨーコーでもパーコーでも良いわけですが、

皆さんの善意が集まる縁が起きたという点では、有り難い限りでありました。



お米だけでも50kg分と、皆様のたくさんの善意が、チェンマイの盲学校にお届けすることができました。

そして、その盲学校にて…。

10名くらいの生徒たちが、タンブンを運んでくださった我々に

お礼として、歌を披露してくださいました。


もう…、

そのなんとも美しく、心地よい歌声たるや…。


泣き虫な自分はもはや泣き寸でしたが、一緒にいらっしゃっていた方も涙を流して聞いておりました。

目が見えない方は歌を歌うことで生計を得ることもあり、上手な方もいるそうですが、

上手かどうか、というより、

心より楽しそうに、気持ちよさそうに、心地よさそうに

身体をゆすりながら、頭を動かしながら、にこやかな歌うのです。

その姿が、何よりも、美しく、感動的でした。


それは、目が見えないのに頑張って、といった、そんなお話ではありません。

とにかく、心から楽しそうに、嬉しそうな気持ちが、伝わってくるのが

言葉にならぬ温かさ、心地よさ、嬉しさとして胸を満たしてくれる感動でした。


感動しながら聴き入りながら感じていて、ふと思ったのは

「いかに、自分は、視覚情報に囚われ、見た目に意識して生きているのだろう」

という事です。


周りに心地よい印象を与える見栄えや行動を意識するというのは、

自分の為だけではなく、周りに心地よさを提供する意味で

社会において大切な事と思います。

ですが、だからこそ、かもしれませんが、

一方で、「どう見られているか、見られたいか」という事が

無意識に頭にこびりついている自分もいるのだと思います。


仮に、人前で、歌を歌うなんて(ネ申に「オマエ、音楽だけはマジやめとけ」とお伝え頂いておりますし、しませんが😅)したときに

恐らく、歌っている姿をどう見られたいかを意識する自分がいるでしょう。

どううまく歌いたいかを気にするでしょう。

歌を歌うわけではなくても、例えば、仕事をしている時、

もしくは日常で誰かに何かを相談したり向き合ったりする時、

自分がどう見られたいのか、どう評価されたいのかをどこかで意識する。

それは悪いことではないかもしれないけれど、一方で、

それ以上に、仕事において「周りに何を提供できるのか」とか

「期待された結果を出せるのか」とか「相手の気持ちに寄り添って向かい合っているのか」とか

「自分がどう見られたいか以外の、周囲への意識」が優先されてはいなかっただろうか。



人の意識のメモリ(容量)には限度がある。

ドラマを見ながら人の話しを聞くのは難しいですし

仕事のメールを見ながら会議に集中するのは難しいし

車を運転しながら携帯で話しをすると運転もおろそかになる。

何かに意識を傾けるほど、他の物事に意識が向かなくなるものです。


「どう上手く歌いたいか、カッコよくみられたいか」

「仕事で自分がどう評価されているか、どうみられたいか」

を意識するということは

「どう、気持ちよく歌うか、気持ちよく聴いてもらうか」

「どう、気持ちよく仕事の成果を受け取ってもらえるか」

に意識を向けにくくなるということだろう。


盲学校の子たちは、視覚という体験なく生きているなかで、

視覚での情報というものに縛られてないためか

自分たちの姿が他人からどう見られるのかという概念にすら意識にのぼりようがなく、

縛られる必要がないだろう。

だからこそ、とってもに幸せそうな表情豊かに、思う存分身体を動かしながら

自分の声や旋律に思う存分意識を注ぎながら、気持ちよく、楽しみながら歌えるのではと。


ヒトには、ミラー・ニューロンという、他人の感情が伝播する能力があるそうですが、

とっても心地よさそうに歌う歌声や、表情や、身体の動きだからこそ

楽しさ、心地よさとして、聴くもの、視るものに深く伝わったのではと。


視覚がある人からすると、視覚がない方は、

かわいそうにという感情も生まれるかもしれない。

でも、元からその感覚が無い方にとっては、そもそも「無い」という概念すらなく

ただ、そういうものとして生きるのが「あるがまま生きるという事」であるはず。


ヒトが、コウモリやイルカから「え、君ら、超音波で世界視ることできないの?」とか

イヌから「ニオイで世界嗅ぎ分けられないって、生きていけるの?」とか

仮に言われたとして、概念がないから「だって、こうして生まれたんだし」

ということでしかない。


逆に、最初から、その感覚があることによって、その感覚に頼った生き方になるため

「その能力に縛られている」「能力に囚われている」という表現も有るかもしれない。

イルカでの超音波や、イヌにおける嗅覚のような能力が無いからこそ、

その概念に囚われないヒトは、肉声による多様なコミュニケーションを手に入れることが

できたのかもしれない。


こうして考えてみると、とかく、ヒトの能力は、視覚や聴覚だけではなく、

記憶力とか、論理力とか、計算力とか、表現力とか、交渉力とか、

様々なものにおいて「ある」ほうがよい、「ない」と困る、とこだわりがちだけれど

「能力がある」事による「縛り」「囚われ」も存在しているのでは。

それに縛られないことは、他の能力が育つ可能性に目を向けることもできるのでは。


視覚に頼れない分、「見た目」に縛られず、

音の感性に意識を思いっきり注げることがあるように、

計算力に頼れない分、(それに囚われなければ)、

他の感性(たとえば色や空間把握)に意識を注げられるかもしれない。


意識のメモリ(キャパ)は限られているからこそ、

無意識に囚われているものから解放されるほど

存分に脳の意識をほかの物事に振り分けられるはず。


世間の常識を強く意識する能力は、世間の見立てに縛られる自分を生むかもしれず

お金を稼ぐ能力に長けた人は、「お金を守る」意識に縛られるかもしれず

評判を稼ぐ能力に長けた人は、「評判を落とさぬよう」意識に縛られるかもしれず。

その分、目の前で、ニオイや耳や、視覚や、心で感じ取れる世界に

気持ちを傾けるだけの意識のメモリ(キャパ)が限られてしまっているかもしれない。


能力があるとかえってマイナスだとか、

能力が無くてもいい、無い方がいい、というのではありません。

能力は、その能力に頼る自分をもたらし、能力に縛られ囚われもする自分が生まれるかも

と自身を意識するのは、自分を新たな能力に気づくキッカケを生んでくれるかもしれない。


なにより、自身の能力がどうのこうのに縛られずに、

ただ自分が心より喜んだり、楽しそうにできる何かをつかめるのは

その個人としても、幸せをもたらすことだろうし、

その幸せそうに打ち込む姿は、周りの誰かにも、心地よさをもたらすことかもしれない。


それは、自身の能力を振りかざしたり、能力にしがみついたりする生き方よりも

とても周囲に幸せをもたらす生き方かもしれない。


そんな事を感じた時間でした。

ちなみに、その盲学校では、鶏や豚をキノコや様々な植物を校舎内で飼育し

豚の出産や、給餌など、様々な実技を教えて、

社会の中で活躍できる実践的な教えをしておりました。

そして、歌で生計をたてる人もいらっしゃるそうです。


どう見られるか、よりも、心からできることを楽しみ心を注いでいく

もちろん、それだけでは生きていくのは簡単ではないですが、

時に社会の中で「生き抜く」ことばかりに必死になると

「どう見られるか」ばかりを気にして、自分の心をよろこばせるだけの余裕が

心にも、意識にも生まれにくくなるのかもしれません。


今でも、彼ら、彼女らの心地よさそうな歌声が

僕のなかで勇気を与えてくれています。

貴重な体験を、大変有難うございました。



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