「ゼッタイ」は黄色信号かも


とつぜん、自分や、家族、親しい人が重い病気にかかったり

事故に巻き込まれてしまうと

「なんで?」「まさか」と感じてしまう。

でも、誰だって、いつだって、

病気や事故に巻き込まれないとはワカラナイものではないでしょうか。

いつ台風が生まれるか、地震が起きるかだって、ワカラナイように。


でも、人は、自分や、自分の周りのことを

「分かっている」つもりになりたいもの。

「どうにかできる」と信じたいもの。

だって、ワカラナイ事や、どうにもできないかもしれない事態は

気持ち悪いし、時に不安や恐怖を起こすから。


だからこそ

「病気も災害も、いつくるかワカラナイもの」と頭では

「分かっている」つもりになっていても、

いざ、それが訪れると「なんでだよ!」「マジか」と感じてしまいがち。

それは、無意識の自分の脳が、自分の不安や恐怖を和らげるために

「自分だけは大丈夫だろう」と勝手に言い聞かせているからかもしれません。


人の脳には、自分に都合が悪い物事ほど

自分の脳が無意識のうちに「そんなはずはない」と自分を錯覚させる

そんな便利な機能を持っているようです。


「あの人、あんなに内容を、

なんで恥ずかしげもなく『こうだ』と言えるのだろう」

と感じる「あの人」自身にとっては、

ご自身の脳が無意識のうちに当人を「こうに違いない」と信じ込ませていて

ご自身にも、

「まさかそれが間違っている可能性がある」

「他人には違うかもしれない」

とは感じられてないだけのかもしれません。


そして、このようなお話を聞いても

「信じられない。普通、人って、そんなふうにならないでしょ。どっかで気づくでしょ」

という気持ちが生じた方がいらっしゃったとしたら、

それは自分を安心させたい自分の脳が

無意識のうちに「自分はそんな風にならないから大丈夫」と伝えたことで

生まれた感覚かもしれません。


脳は、無意識のうちに、自分に都合のよい解釈を意識させてしまう

というのは、なんだか面白くない内容かもしれませんが、

それは、誰もが脳に持っている、生き延びるための仕組みでもあるかもしれません。


さて、何が言いたいかというと、

つまりは、ヒトは「偏見まみれで生きているもの」なのでは、という事です。

「自分にとって都合のよい見立てで、世界を解釈してしまうもの」

と言ってもいいかもしれません。


「いやいや自分は大丈夫!」「偏見なんてないし」

とすぐに感じた方こそ、

「もしかしたら、それは無意識の自分が勝手にそう思わせているのかも」

と、少し自身を観察してみてもよいかもしれません。


なぜなら、

「自分の解釈には、自分びいきな解釈がつきまとっているもの」

と気を付けて生きていたほうが、格段に生きやすくなる

と感じているからです。


ヒトは、自分の脳を通してしか世界を解釈できない以上

自分びいきで、自分に都合よく世界を感じ取ってしまうのは、

もうこれはいかんともしがたい。


でも、その事実に気が付かずにいると

実は、「分かっている」「どうにかできる」「こうに違いない」

などと感じるものごとには、

常に必ずしも「そうともかぎらない」可能性があることに気付けなくなるからです。


「どうにかできる」と信じたいし、どうにかなることもあるでしょうが、

突然の災害など、どうにもならないことだって起きてしまうことはある。

「そんなはずはない」と思うほど、そうならない時に苦しみが大きくなる。


「いいや、これはゼッタイ」と強く断定したい時ほど、

「そうともかぎらない」可能性を、無意識のうちに排除してしまっているかもしれない。

それは、自分の脳が、そう信じ込ませたいだけかもしれない。

でも、「思う通りではない」「まさか」は、いつだって起こり得るのが現実。


そして、「ゼッタイそう」は、人付き合いも難しくする。

だって、世間には「そうとは限らないのでは?」というヒトは存在するものだから。

「こうにちがいない」と感じるほどに、違う意見のヒトを遠ざけ

その人達に否定的な感情が沸き起こり、時にケンカや犯罪にまで発展してしまう。


空が「青い」にしたって、その「青」は、

他の人にとっての「青さ」とは違う可能性もある。

なんなら違う色と認識している人もいるでしょう。

犬にいたっては、グレーっぽく見えているかもしれません。

なのに、自分の脳は「そうだ」と言っている以上、「そうとしか見えない」

「そうに決まっている」「それが(他のヒトにだって)当たり前でしょ」

どうしても、そう感じてしまう。


自分には、自分よりに物事を解釈してしまうことがあるもの。

それは、自分が悪いとか、自身の欠点とかではなく、

生き物の仕組みとして、大切な自身を守るため、

有り難く手に入れた仕組みとも言えるかもしれません。

でも、それは時に、自分が「自分よりに解釈しがち」であることを忘れさせ

「ゼッタイこうだ」と思い込ませることもある。

だけど、冷静に考えれば、ヒトは人それぞれの価値観があるもの。

文化的背景や、受けた教育も違えば、家庭ごとに「常識」も微妙に異なるもの。

インドでは、首を横に振るのが「Yes」ですが、

日本ではそれは「No」にしか感じにくいように。


もしかしたら、違う解釈もあるかもね。

と思えるほどに、「なんでこうなんだよ」

「思う通りじゃないじゃないか」という腹立たしさが起きにくくなるもの。

それは、ぶつかりもすくなく、心もおだやかになれて、

周りともうまくお付き合いしやすい、

実は生きやすい考え方かもしれません。


「ゼッタイ」は黄色信号。

「ゼッタイこうだ」と感じる時ほど、すこし「ホントか?」と気をつけてみる。


受験や、スポーツの試合の時だって

「ゼッタイうまくいきますよう」と力むより、

「なるようになるでしょう」とリラックスして平常心のほうが

良いパフォーマンスにつながるものかもしれません。


「ゼッタイこうだ」のように「ゼッタイ」という言葉が気持ちに生じるほど

自分が自分よりに偏って物事を見てしまっていて、

それにすら気が付かなくなりかかっている、黄色信号にあるのかも、と

少し立ち止まって、深呼吸して、自身を見つめてみてもよいかもしれません。


ただし、 我が家のネ申(妻)がお話される

「オマエ、そんなもん、ゼッタイそうに決まってるだろ。

少しは考えろ!」という御言葉は、

僕にとっては、唯一絶対の真理であり

「仰るとおりでしかございません」という有り難いものでございます。

その点のみご了承くださいませ😅🙏


今日もお付き合いくださり、有難うございました。

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