安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから - 龍光ブログ


自分だけは…

自分こそは…

ヒトは自分の脳を通してしかセカイを見ることができないので

つい「自分の周りにセカイがある」(セカイの真ん中に自分がいる)ような

"錯覚"を起こしてしまう。


でも、我々は、ちょっとの自然の不調で簡単に消え去るような

地球上のちっぽけな生物種の一種でしかないのが実体。

それは東北の大震災で街が無力に波にさらわれてしまったような過去の災害や

世界中で増えている洪水の被害の様子を見ても明らかなハズ。


そんな頼りない存在だから、ヒトはこれまで互いに協力しあって

今に至るまで生き延びてきたハズ。

ヒトの社会は、周りのヒトとの支え合って成り立っているハズ。

なのに、すぐにそれが「当たり前」のように忘れてしまう。

"自分中心"に、都合よく世界を解釈してしまう。

なんなら、自分だけでもなんとか生き抜いていけるような"錯覚"を起こして。


だけど、いま使っているガソリンも電気もインターネットも全て

誰かの支えで成り立っている。

昨日頂いた食事も全て、育てたり運んでくれたりした

世界のどこかの誰かの支えで成り立っている。

社会のあらゆる所が、誰かの支えがあって成り立っているのに

つい空気のように「あってあたりまえ」の"錯覚"を起こしてしまう。


そして、その"錯覚"は、

時に、さも「自分だけ」でも何かを成し遂げられるように感じさせ

「自分こそ」は他人と違う「なにか特別な何者」かになれるかのような

"ファンタジー"を我々に見せていく。


実際の我々は、どれだけ肩書が立派になったり

テストの点数が良かったり、かけっこが早かったり、歌がうまかったりしても

全て等しく、空気を必要として、誰かが作ったご飯を必要として生きている

みな同じ、ホモ・サピエンスという生物種の一個体のハズ。

でも、時にヒトは、"ファンタジー"にあこがれて

「自分こそ」他人とは違う、何か特別な存在なのだと信じたがる。


けっして、「何者か」になろうとする事が悪いと言いたいわけではないのです。

「何者か」を目指そうとするから個人として努力が生まれ

集団として文明が発展し

より衛生面でも食糧確保でも安心して暮らせるようになったのも事実です。


ただ、問題なのは「何者か」になろうとする過程で

「自分だけ」「自分こそ」が

"他人とは違う""他人よりも立派な自分"という錯覚を膨らましてしまいがちになる。

"我"を膨らましすぎてしまうことが、様々な社会の問題を起こすのではと思うのです。


誰しも自分や仲間はかわいく大切なものだけれど、

「自分(たち)だけ」「自分(たち)こそ」が膨らみすぎると

周りに"自分たちとは違うヒト"や"テキ"と「想像上のラベル」を貼り

それらを踏みにじっても問題ないかのような

耳障りのよい「セイギ」やら「タイギ」の"物語"をこさえ

「自分たちこそ」「自分たちだけ」と

「我」の声を張り上げながら、

他の人を踏みにじってしまうことを時にしてしまう。

それが、戦争と呼ばれる行為なのではないかと。


生き物として、「自分こそ」生き延びようとするのは

自然な「生きる」行為ではあるでしょう。

ですが、ヒトは、お互いに支え合いながら社会を保っており

互いに協力しあわなければ、自然の中では簡単に消し飛ぶような

ちっぽけな存在であることもまた事実なのでは。


そして、ヒトは時に、「何か特別な存在」への憧れから

自分たちに都合のよく聴こえる"セイギ"やら"タイギ"の

"ファンタジー"に酔いしれてしまう生き物でもある。

そうして、同じくヒトであり

同じく「愛する人や家族を守り、平和に暮らしたいだけ」な人を

"テキ"を呼び、殺戮をしてしまう。

「自分たちこそ」が"セイギ”なのだと自分に言い聞かせて。


それは、ただ"我"を膨張させすぎてしまっているかもしれず

「セイギをなすワレワレ」というファンタジーにすがりたいだけかもしれないのに。

やっているのは、お互い支えあいながら

厳しい自然の中で生き抜くため助け合うナカマであるはずの誰かを

ただ殺し合っているだけかもしれないのに。

大切な家族や仲間の生命を奪い合っているだけかもしれないのに。


たった80年ほど前でさえ、世界のあちこちで

多くの人が怯えながら、涙を流し血を流し殺し合ってしまった。

それを反省し、世界のあちこちで

このような石碑などが建てられたはずだと思う。


「安らかに眠って下さい

過ちは繰り返しませぬから」


この言葉を、改めて、胸に刻みたいと切に願っています。


今の時代を生きる我々は、残念なことに

世界のあちこちで紛争の火種が広がっているかもしれません。

憎しみに憎しみでぶつかり合っても、出口はない。


かつての戦争で、苦しみ悲しみながら生命尽きていった

文字通り「死にものぐるい」で必死に平和を願い

生きようと努力した数多の人々の想いを無駄にせぬためにも

「過ちは繰り返しませぬから」

の言葉を胸に刻み続けたい。


ヒトは、いまある環境が空気のようなものと

すぐに"錯覚"を起こしてしまうものなのだから。

そして、さも自分だけで生きられるかのような勘違いを持ち

「自分(たち)こそ」というファンタジーに酔いしれ

他を蹴散らしてもよいような"錯覚"に苛まれてしまうものだから。

だから、忘れぬよう、刻み続けたい。


他に支えてもらい、互いに支えあってこそ生きのびられるという事実を

そして自然があって生きられているという事実を

忘れぬよう、刻み続けたい。

そう、改めて願っております。


そして、今起きている様々な苦しみと憎しみの連鎖が

少しでもおだやかな心持ちへと収まっていくように

日々できることを努力していきたく存じます。


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