さとりを開いて「仏」という別のものになるのではない - 龍光ブログ


「ブッダとなったあとでも、

かれは依然として人間であったのであり、

悪魔(煩悩)の誘惑を避けねばならぬ点では同じであった。

だからブッダたることは、

誘惑を退けるという行為それ自体のうちにもとめられねばならぬ。

普段の精進がそのまま仏行なのである。

さとりを開いて「仏」という別のものになるのではない。」


これは「原始仏典 中村元編(筑摩書房)1974刊」にある、

中村元先生の注釈の御言葉です。




自分は「さとり」が何なのかも知らぬ分からぬ身ではありますが、

さまざまな本や僧侶の方々からのお話から自分なりに解釈するに

"さとり"というのは、一度「体験」したらOKというものではなく

維持し続ける「状態」の事をいうのだろう

と考えていました。


体験 : 「さとった」とか「"さとり"を手にした」

状態 : 「"さとり"に則した生き方である」


そんなイメージでしょうか。

つまり、"さとり"と言われるものを手にしたら完了、とはならず

その後も努力が続けられるべきものなのだろう、と。


そう考えていたので、冒頭にあげた、中村元先生の

「さとりを開いて〜別のものになるのではない」

「煩悩の誘惑を避けねばならぬ点では(さとった後も)同じであった」

という教えは、個人的に大変救われるものでした。


ブッダは超人などではなく、"さとり"というものは、誰でも手にしうる。

誰でも"成仏"(仏と成る = さとりの状態を手にする)ことは可能である。

中村元先生の教えは、そんな内容なのではと解釈しています。


実際、経典でも、ブッダの初期のお弟子さんたちは

次々と(というと失礼ですが)"さとり"を手にしていく様子が描かれています。

おそらく、「手にするのはできても、それを維持した状態を保つのが難しい」

そういうものが"さとり"なのではと、勝手ながら考えてます。



そして、世界でも仏教が色濃く国に浸透している数少ない国のひとつ

ミャンマーで習ったこととしては

「さとりには様々な種類のものがある」

ということです。


以下も自分なりの解釈ですが、

たとえば、あらゆる物は、ヒトも含め、悩みのような感情も含め、

いっときでも、同じ状態でいることなどなく、変化し続け、いずれ消えていくといった事実

それを「正しく理解して(覚って)、その前提で物事を解釈したり、言動をしている状態」

も、ひとつの「さとり」でしょうし、

「怒りを起こしても、ただ自身の負の感情を発露させるだけで、自身にも周囲にも何ら善きことはない」

ということを「正しく理解して(覚って)、怒りに振り回されず冷静でいられている状態」

も、ひとつの「さとり」なのでしょう。

このように、さまざまな「さとり」があり、たくさんの「さとり」を維持し続けられている状態が

ブッダのいう「悟り」なのかもしれません。

なので、「さとりA」はうまくキープできてるけど、時に「さとりD」は忘れたり道を踏み外しそうになることもある。

そんな姿が、人間の実態なのでしょう(恐らく生身のブッダという方の生き様も含めて)。


だからこそ、ブッダのラストメッセージ(遺言)は

「怠ることなく、修行を完成させよ」

という内容だったのではないかなと。

さまざまにある"さとり"の一部を、

彼も怠りそうになることがあった、一人の人間だったのでは、と。

油断すると「モード"さとり"」の平均台から落ちそうになることもあったから、

このような内容を最期に遺してくださったのではないかなと。

そう考えております。

※あくまで、何者でもない身の一つの解釈です。


そして、この考えは、個人的にもとてもしっくりきます。

生きていて、何かを成し遂げたり、手にいれて、「それで人生万事OK!」なんてモノはひとつもないだろう、というのが自分の考えです。

アリストテレスさんも

「富や権力や力や美しさなどは、一時的な幸せ感しか与えてくれず、

人生を通した幸せ感は別にある」

と語ってました。


合格、就職、結婚、昇進、独立、上場、受賞…。

それは素晴らしいことですし、それを目指す努力は自身を成長させてくれますが

それこそが自身の「人生の大切な"何か"」と囚われるのは

時に苦しみをもたらす。

だって、手に入らないこともあるし、

晴れて成し遂げても、それは期待と違うものと感じたり、

その瞬間から色褪せて慣れていきますし

手に入れたものは、失ったり、価値が失われていったりする不安も生むものでしょう。

実際に、なくなることも多々起こり得る。

それでも、その後も人生は、生きているまで続くわけです。

人生は、終わるまでは、何がおこるか、どうなるかはワカラナイ。

だから、何か一つのものだけに囚われすぎるのは、苦しみを増すことにもつながる。

一つの何かで人生が片付くわけではないからこそ

努力を続けていくことが大切なのでしょう。

「さとり」というものも、恐らくそうなのでしょう。

それをゲットして「はい、自分、さとりマン!もう無敵」というワケにはいかないのでしょう。

だからこそ、「"さとり"は、得ようとするものではなく、生まれてくるものだ」という教えもあるのでしょう。

生まれるからには、必ず朽ちていくものでもあるのでしょう。

だから、最後まで「怠ることなく」努力をしていくのが大切なのでしょう。


そして、それを都度確認して、噛み締めて

行動に落とし込んでいくことが大切なのだと考えております。


今日も、精進の一日を楽しませて頂きます。

有難うございます。



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