投稿

9月, 2024の投稿を表示しています

ノータイムポチリは縁を起こす

イメージ
僕が、仏門をくぐって、ハゲアタマになったのは「ノータイムポチリ」の仕業です。   「ノータイムポチリ」? なんじゃらほい? ですよね😅。 僕が仏門をくぐるキッカケとなったのは、2022年のインドの旅です。 一般の旅行者として、インドに遊びに行っていたら、 たまたま、そこでインド仏教会1.5億人の最高指導者でもある 佐々井秀嶺上人にお会いする機会を頂き 「オマエ、ボウズになれ!」と仰って頂き 今の姿になってしまったワケですが、 2022年9月に訪れた、インド・ナーグプルにて佐々井秀嶺上人より頂いた御言葉のシーン JQクエスト より そのインドの旅がうまれたのは、髙橋淨休(じょうきゅう)さんが突如、日本で得度したことがキッカケです。 2022年7月、突如、得度をしJQこと「淨休さん」となった髙橋くん 僕が資本市場の膨張ありきの世界に嫌気がさし、 いったん無職になろうと考えていた時に 彼は「オモシロそうだから」と、突如お坊さんへの道に、 さわやかにカジュアルに飛び込んでいったのです。 いわば「ノリ」なワケです。 彼は、これまでも、ノリで始めた仕事が、 広瀬香美さんのYouTube立ち上げや、その人気に火を付けるキッカケにつながったり いつも「オモシロそうじゃん」と、直感で人生を切り拓いてきた人間です。 突然ボウズ(見習い)になった彼と、突然無職になった僕と、 ノリで行くことになったインド旅行。 そこで、悪ノリにも近いかたちで押しかけていってしまった 佐々井上人。 そして「ボウズになれ」と佐々井上人に仰って頂き、 悩みつつも、仏門をくぐってしまった自分。 これらは、いわば、全て「ノリ」で起きた出来事とも言えます。 その時の、直感に従って、えいや!と足を踏み出してしまうというような。 その髙橋くんとは、彼が突然ボウズになる10年以上前からの付き合いなのですが、 僕が当時、後先考えず、オモシロそうだと思ったら新たなチャレンジに飛び込んでしまう姿をみて、彼は、とある言葉を僕にくれました。 「小野チン、オマエ、それ『ノータイムポチリ』だな」 と。 アレコレ悩んだり時間をかけたりせずに(ノータイム)、 ポチっとカジュアルに、一歩踏み出してしまう。 僕のその行動様式に、彼は「ノータイムポチリ」と名付けてくれたのです。 その髙橋くん自身が、突如ボウズの道に進んだのも いわば「ノータイム

「自分らしさ」は変化し続け、日々育てるモノ

自分にはどんな生き方が合っているのか? そもそも、自分はどういった人間なのか? 「自分の軸」とか「自分らしさ」って一体なんなのか?  就活や受験などの時期もあってか、 そんな内容に関わるご相談や質問をチラホラ頂いております。 「自分とは?」という問いは 進学、就職、結婚など、人生の転機を迎えた際に限らず 何気ない日常の中でも、 ふと気になるテーマかもしれません。 ということで、「自分らしさ」について、自分なりの考えをまとめさせて頂きます。 あくまで、無職のハゲアタマの戯言として、お流しくださいませ。 冒頭から申し訳ない味気もない内容でスタートなのですが、 結論から申し上げると「自分らしさ」なんて、 「確かなコレ」と言えるものなど、どこにも無いのでは。 だけれど、今日、今この一瞬も含めて、日々「作っていける」モノでは。 「磨いていける」モノでは。 そう、勝手ながら思っております。 実は、仏教的にも、最新の脳科学的にも、 「確たる一つの実体としての"自分"」など存在せず 「自分らしさ」も、あるように感じている"感覚"でしかない。 (いわば、脳内の空想上のモノで、あるという"錯覚"を感じるだけ) そう、自分なりに理解しています。 「自分という"感覚"」を感じる「自分の意識」は、 空に浮かぶ雲のように、常に変化し状況が変わり " 変化し続ける 現象"。 なので、「自分らしさ」みたいな感覚も 「コレっていう何か」が「あるように"感じる"」だけで、 それは、変化し続ける感覚における "その時だけの感覚"かもしれない。 そうだとすると、就活などで「自分さがし」をしてみても、 「コレだ!」みたいな終着点にたどり着けるワケではなく、 もし掴んだような気がしても、 それは、"その時そう感じただけの錯覚"かもしれない。 実際、大胆な決断をしたくなる自分もいれば 慎重に動きたくなる自分もいたり それでチャンスを逃してしまう自分もいたり、 「自分らしさ」というモノも、その時の状況によって揺れ動くものではないでしょうか。 だから「自分さがし」といった行為は、 「人生ずっと続く、終わりなき旅」みたいなものかもしれない。 じゃあ、「自分さが

頼れるものは自分しかない

  ブッダの(本来の)教えは結構残酷です。 「頼れるのは、自分しかない。他を頼るな。」 というものです。 ※その後仏教の発展や時代背景の変化とともに「他力本願」という考えも生まれてますが、オリジナルのブッダの教えは「自分を頼れ」です。 実は「他力本願」も、それを"心から信じて念じてこそ救われる"という「自身の努力」が土台にあるという点では実は「自分を頼れ」と共通の要素が含まれていると勝手ながら理解しています。 さらには、自分のことすら「どうにもならない」ことがあるものだ、と。 だから、何故、自分以外の他人のことをどうにかできると思うのか、と。 そんなスタンスの教えです。 自分の子供や伴侶であっても、それは自分ではないのだから、思う通りになるハズがないではないか、と。 だって、自分の肉体だって、実は知らぬところで病気になってしまっていたり 自分の感情だって、思う通りにならないときだってあるのだから。 だから、ひたすら精進(努力)が必要だよね。 といった考え、と理解しています。 「ひたすら自分で頑張れ」といった考えは、 「精神論」的なものに聞こえるものかもしれません。 でも、「精神論」って悪い事なのでしょうか。 何か困難にぶつかったときに「気合と精神で乗り越えろ」といった「精神論」は、時代的に流行らないとされてます。 たしかに、これまで精神を鍛える努力をしてこなかった人に「気合と精神で乗り越えろ」というのは これまで筋トレをしたこともない人に、重たいバーベルを持ち上げろというくらい、無茶なことでしょう。 ですが、だからといって、心(精神)を鍛えなくてもよい、とは思わないのです。 心(精神)だって、身体と同様に、日常から鍛えてないと、いざという時に困るものではないでしょうか、と思うのです。 たとえば、身体は、日常から鍛えてなければ、変化の多い気候の中で生き抜くのは大変なワケです。 それと同じく、心(精神)だって、日常から鍛える機会がなければ、難しい出来事にぶつかった時に、向き合うのは大変なワケです。 「精神論」が問題視されるのは、 人それぞれ、これまでの精神的な鍛錬レベルや、そもそもの耐性が異なるにもかかわらず、 同様のレベルで「精神的耐性を発揮せよ!」 「気合い(精神)があれば乗り切れる」と要求することが問題なワケであって 一方で、「心(精神)が鍛え

縁は巡る

イメージ
「時には、昔の話しを…。」 ということで、少しだけ自分の前世にまつわるお話をお許しくださいませ。   自分がこのようなハゲアタマになったのは、 2年前の2022年9-10月に、たまたま訪れた旅行先のインドで インド仏教会の最高指導者でいらっしゃる佐々井秀嶺上人にお会いし 「オマエ、ボウズになれ!」と仰って頂いた事がキッカケです。 そして、その旅行の縁となったのが、JQこと髙橋淨休(じょうきゅう)さん。 彼とは20年来の親友で、元々はtwitter(X)経由での出会いという、 また変わったご縁での繋がり。 その彼が、僕が前世でのビジネスの世界で苦しみ、 いよいよその世界から離れる直前まで勝手に自身を追い込んでいた時に 夜中、突然、僕に突飛な写真とメッセージを送ってくれました。 「得度したったww 京都の仁和寺で。 淨休になりました」 「は??ww え?www どういうこと???www ちょw、話しきかせて!!!」 彼の家は、お寺や仏教とは全く縁が無い。実家にも何度も言っているし、 なんなら兄弟やその家族とも合うくらいに深い繋がりだけど 「仏教」なんてキーワードも聞いたことがない。 彼は元々、突飛な行動をとる人間ではあったけれど、なんで?いきなり? そして「得度(とくど)ってなに?出家ってこと?」 いろいろ、イミがわからない。 にも関わらず、なぜだか、半泣きでゲラゲラ笑いが止まらない自分がいました。 何だか良くわからないながら「あのやろう、やりがたって!」という気持ちの自分がおりました。 そして、数日がたち、僕のもとへやってきてくれた淨休さんに 根掘り葉掘り聞いていく。 「いや〜、なんか、実は昔から、お坊さんになりたいっておもってたんよ」 「(本名の)淨久(きよひさ)って名前、じいちゃんがつけてくれたんだけど どうやら、お坊さんになってもいいような名前を選んだらしいし」 一見、人生の一大事の決断をしたように全く見えない彼が カラカラと明るく笑いながら、ことの顛末を話してくれる。 「でも、得度?出家?っていうの?そんな簡単にできるもんなの?」 「いや〜、普通はお寺の子供だったり、仏教の大学でたりとからしいんだけど たまたまオモロい事に、お坊さんと出会う縁があって、そのお坊さんに 『ぼく、実はお坊さんになりたいって思っていたんですよ〜』って言ったら 『あ、なれますよ。なりま

たかが「あいさつ」されど「挨拶」

  当たり前すぎて忘れがちですが どれだけ能力やお金や権力や名声を手に入れても 誰かの支えなくては生きていくだけでも難しいのがヒトの実態だと思います。 大きな屋敷を所有し、お金もうなるほど持っていても スーパーに食品が出回らなかったら(いまのコメのように)、 もしくは農家さんが高齢化でどんどん減っていってしまったら、 はたまた外交問題で海外からの食品の輸入が細ってしまったら、 食べるものを入手するのが難しくなるかもしれない。 (日本でも、たった80年ほど前にそれが起きてました) お金や健康に余裕がなければ、なおさら、 生きていくのに、まわりの支えが必要になる。 ときには少し食物をわけてもらう事も必要かもしれないし、 心身がおぼつかない時は、食物を買いにでかけることすら 自分だけでは難しくなり、誰かの支えが必要なときもある。 そんな時は、余裕もないから、ついイライラして、 周りにあたりたくもなるかもしれません。 でも、どれだけ、政治や、経済や、家族や、まわりにケチをつけても 結局は、まわりや、 顔の見えない誰かに支えてもらって生きているのが実態なのだと思うのです。 生きていれば、「思う通りにならない」不満は沸き起こってくるのは 避けがたいことかもしれません。特に余裕を感じなければ、なおさらです。 それは、能力やお金のある無し関係なく、睡魔や空腹感のように 「どうやっても勝手に沸き起こってくる感覚」なのだと思います。 そんな「思う通りでない」モヤモヤが起きたとき、 その不快感を周りの誰かにぶつけても、自分の不快感は消えてくれないどころか、 周りとの関係は冷めていく一方。 だって、誰だって、ケチをつけたり、イライラしていそうな人とは あまり一緒にいたくないし、何かを支えてあげようと思いにくいものだから。 「なんで自分にイライラぶつけるのさ」と、逆に反感を買ってしまう。 「思う通りにならない」と感じているのは自分でしかないのだし、 背景としては「こうあってほしい」という自分の希望や期待から起きている感覚のハズ。 じゃあ、まずは自分がどうすれば「こうあってほしい」姿に近づけるのだろう。 周りに「こうしてほしい」ではなく、自分が「どうありたいか」を見つめてみるのはどうだろう。 だって、周りの他人は、自分ではどうにもならないことが多いのだから。 自分がまずできる確かなことは、自分

我々ヒトはどこへ向かおうとしているのか - ホモ・デウスを読んで

"知の巨人"ユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた世界的なベストセラー「サピエンス全史」。 そこでは、ただの動物種の一種である私たちヒトが、 どこから来たのか、を描いてました。 そして、同氏が「そのヒトは、どこへ向かおうとしているのか」を描いたのが 「ホモ・デウス」という本です。 この本はすでに数年前にベストセラーとなった本です。 つい昨日、氏の最新作"Nexus"が発刊されたばかりでもあり、「いまさら」の本かもしれません。 実は、この本は、前世(2020年前半)に途中まで読みかけていました。 でも、冒頭でストップしていました。 そして、今回、改めて最後まで読んだうえで感じたことをまとめたのが、このブログです。 なぜ、いまさら改めて読み直し、感じたことをまとめてシェアしようと思ったのか。 それは、この本の内容は、なぜ自分が前世で苦しんでいたのか、 そして、今のような姿になる決断をするにつながるに至ったのか、 という伏線とも言える内容が含まれていたからです。 もしかしたら、当時、この本を冒頭だけ読んで、投げ出してしまった理由も、 この本の内容に理由があったのかもしれません。 というのも、この本では、資本市場の拡大による"さらなる繁栄"や、 科学技術の発展による"より快適な未来"をがもたらしうる将来の脅威について、 警鐘を鳴らしているのです。 それは、当時の自分が、言語化はできないながら、勝手に違和感を感じ苦しんでいた事柄です。 当時の自分は、「成長や発展」という耳聞こえのよいキーワードに酔いしれ、 それを求め続けることに、言葉にならぬ違和感を感じつつも、 でもそこから離れられずに「規模拡大による成長こそ正義」と囚われ苦しんでいた。 まさに「拡大と成長を求めた先のリスク」を見事に言語化したこの本は、 当時の自分には、読み続けるのがいたたまれなくなったのでは。 それほど、経済と技術の発展や個人至上主義の追求に対する警告とも言える内容に溢れた本でした。 さて、ながーい前置きはともかく、本の要約を試みていきます。 そして、それは、要約と呼べるレベルでなく、とても長くなっています(汗。 もはや、自分のための読書メモとなっています。 その内容も、世界の天才と言える氏の思想をうまく読み込みきれてないがゆえに、