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所有することでなく何に使うかが大切

バンコクのタンマガーイ寺院、3日間だけの滞在ではありましたが 僧侶の方々より様々な貴重な教えを頂けました。 自分なりに突っ込んだ質問に対しても とてもクリアな回答を頂け、本当に有り難い限りです。 その学びの中からいくつかシェアさせてくださいませ🙏。 ブッダの時代の教えにおいては 僧侶となった人間は お金は、所有どころか触ることすらしない。 スマホのような物を持たない。 当然奥さんもいてはいけない。 そう、定められています。 ですが、ミャンマーの僧院もそうでしたし、タイのタンマガーイ寺院もそうですが (僕が出逢った僧侶の方々においては) スマホを持っておりました。 お金については、たとえばお布施頂いたものは お寺に渡して、自身では所有しないように皆さんされていましたが、 所持金がゼロではないという方もいるようです。 (お金も触らず、持たず、スマホも持たずという方もいらっしゃるようです) そして、奥さんとの婚姻関係を保ちながらも(出家により離縁せずに) 僧院で修行を積まれている僧侶の方も、少数ながらいるようです。 これらについて、どのように解釈するのか? という所を、自分も自身で悩みながら自問することが多かったため タンマガーイ寺院の僧侶の方に聞いてみました。 あくまでも「これは、あくまで自分なりの考えでしかないですが…」と断ったうえで 下記のような教えを授けてくださいました。 「物やお金や奥さんを持つのがいけないということではなく、 そこへの囚われをもたずに心を保てているか、 そして、それらの物や存在があることで、 誰の何をしていけるのか。 それらの物や存在があることで、自分の心が乱れずに 苦しむ方に力になれたりことにつながるのであれば、 それは良いのでは。 ブッダも含め、我々ヒトは完璧ではない。 でも、そうして、誰かのためになれているのであれば、 それらを保持して精進していけばよいのでは。」 というものでした。 興味深かったのは、スマホを持つ僧侶の方は多いのですが、 スマホに没頭しているような方はほぼ見かけない、とうことです。 一部の僧侶の方は「スマホは、麻薬のようなものですから」と 仰っていましたが、僧院においては、 スマホを見続けているような方はほぼ見かけない。 もちろん、様々な僧侶の方もいるようで、 瞑想は嫌いでサボりたいという方もいたり、様々ではありますが

「日本がまだ持ってないもの」

 タイ・バンコクのタンマガーイ(Dhammakaya)寺院に滞在させて頂いております。 たった3日間の滞在の、まだ2日目の朝ですが、 すでにたくさんの学びを頂いております。 現地では、ソムキャットさんという僧侶の方にご指南頂いております。 ソムキャットさんは、タイ人ですが、 完璧に日本語を(漢字含めた読み書きも)使いこなし かつ、英語も中国語も話し、そのお考えや学びの深さ 立ち振る舞いなど、とても学びを多く頂いております。 このタンマガーイ寺院は、1000人以上の僧侶が滞在し 世界最大の僧院ともいわれる、要塞のようなどでかい寺院なのですが 元はたった一万円程度の資金と、ひたすら広がる平原より 1970年から始まった寺院だそうです。 その目的は、ブッダの教えに従い、徳を積み、その精神を養うために 真の寺院を建て、真の僧侶を育て、真の高潔なこころを人々にもたらすというものです。 今でこそ、広大な土地と100万人が集える会場がある、大きな施設となりましたが、 教えを学び、瞑想の習得を希望する方々が集まるに従い、その方々の寄付(お布施)により 拡大を続けてきているそうです。 巨大な施設ですが、規模や華やかさを目指したものではなく 簡素で頑丈で、装飾なども少なく、エアコンも少なく最近ファンが付いたくらいで、 できるだけ工事費や維持費を抑えることで、 寺院に訪れるあらゆる方に食事を提供するなど、 人々のために資金を使うというコンセプトで成り立っています。 そして、「内なる平穏を手にしてこそ、世界の平和につながる」という考えで ブッダの教えだけではなく、特に瞑想の練習に重きを置いています (これはタイのほかの寺院やミャンマーでも共通していると思います) ※必ずしもそうでないタイの僧院もあるそうです 。 といった情報は全てソムキャットさんから教えて頂いたのですが、 そのソムキャットさんの教えでとても感じ入った言葉が下記です。 ※ソムキャットさんは日本語を完璧に使いこなせるだけではなく、何度も日本に訪れている方です 「この寺院では、清潔、整頓、礼儀正しさ、心の平穏を大切にしています。 日本では、清潔、整頓、礼儀正しさは既に備わっているかもしれませんが 瞑想のような『心の平穏を得る方法』が、まだ備わって無いのかもしれません。」 僕は、たかだか瞑想を初めて2年未満で、 しっかりした師匠に

「よく気をつけて」生きるということ - 龍光ブログ

「よく気をつけて…」 なんて日常的で、当たり前に聴こえる言葉でしょうか。 ですが、ブッダのことば(経典)には 「気をつけて」という言葉が 実にたくさん 出てきます。 死の間際でも「 怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。 その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれ」 と語ってます。 個人的な解釈ですが、ブッダの教えのコアは この「よく気をつける」ことの 実践の継続(その努力 = 精進) にあるでは、と感じております。 じゃあ、何を「気をつける」のか? 経典において実にたくさん「気をつける」よう語られている中から 下記に抜粋してみました(多少の編集をしています)。 ----- この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に貪らぬよう よく 気をつけ れば、煩いから離れ、心安らかにいられる。 つねによく 気をつけ 、自己に固執する見解を打ち破り、世界をあるがまま見よ 平静であって、常によく 気をつけて いて、他人を自分と等しいとは思わず、自分が勝れているとも思わず、劣っているとも思わなければ、煩悩の燃え盛ることがない みずから制し、落ち着いて 気をつけて いて、とがのない言葉を奉じ… 常に戒めを見にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく 気をつけて … 食物と住処と寝具と衣の塵(ちり)を洗い去るための水を、よく 気をつけて 用いよ よく 気をつけて 諸々の欲望を回避するよう… こころを安定させ、うろつかせず、あとで後悔するようなことをやめ、怠けず、 熱心に努め、非難されてもくよくよせず、称賛されても高ぶらず、 誹謗をせず、嘘をつかず、荒々しいことばを用いず…これらをよくわきまえ、 つねに 気をつけて 学べ 世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、 気をつける ことである 気をつける ことが煩悩の流れを防ぎまもるのである ----- 他にもまだ、たくさん「気をつけて」という言い回しが出てきますが ブッダがいう「気をつけて」いるべきことを、ざっとまとめてみると 下記のようなことなのかなと。 外界からの刺激に意識をあちこちに振り回されてないか、 固執した考えにとらわれてないか、 他人を損ねる言葉を発してないか、 何かに耽ってないか、 食物や衣服や水を大切に扱っているか、 自分が正しい行いをしているか、 冷静であるか、 熱心に

さとりを開いて「仏」という別のものになるのではない - 龍光ブログ

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「ブッダとなったあとでも、 かれは依然として人間であったのであり、 悪魔(煩悩)の誘惑を避けねばならぬ点では同じであった。 だからブッダたることは、 誘惑を退けるという行為それ自体のうちにもとめられねばならぬ。 普段の精進がそのまま仏行なのである。 さとりを開いて「仏」という別のものになるのではない。」 これは「原始仏典 中村元編(筑摩書房)1974刊」にある、 中村元先生の注釈の御言葉です。 自分は「さとり」が何なのかも知らぬ分からぬ身ではありますが、 さまざまな本や僧侶の方々からのお話から自分なりに解釈するに "さとり"というのは、一度「体験」したらOKというものではなく 維持し続ける「状態」の事をいうのだろう 、 と考えていました。 体験 : 「さとった」とか「"さとり"を手にした」 状態 : 「"さとり"に則した生き方である」 そんなイメージでしょうか。 つまり、"さとり"と言われるものを手にしたら完了、とはならず その後も努力が続けられるべきものなのだろう、と。 そう考えていたので、冒頭にあげた、中村元先生の 「さとりを開いて〜別のものになるのではない」 「煩悩の誘惑を避けねばならぬ点では(さとった後も)同じであった」 という教えは、個人的に大変救われるものでした。 ブッダは超人などではなく、"さとり"というものは、誰でも手にしうる。 誰でも"成仏"(仏と成る = さとりの状態を手にする)ことは可能である。 中村元先生の教えは、そんな内容なのではと解釈しています。 実際、経典でも、ブッダの初期のお弟子さんたちは 次々と(というと失礼ですが)"さとり"を手にしていく様子が描かれています。 おそらく、「手にするのはできても、それを維持した状態を保つのが難しい」 そういうものが"さとり"なのではと、勝手ながら考えてます。 そして、世界でも仏教が色濃く国に浸透している数少ない国のひとつ ミャンマーで習ったこととしては 「さとりには様々な種類のものがある」 ということです。 以下も自分なりの解釈ですが、 たとえば、あらゆる物は、ヒトも含め、悩みのような感情も含め、 いっときでも、同じ状態でいることなどなく、変

明日は来る - レ・ミゼラブルを観て

 パリオリンピックは(いつ開催して、まだ続いている?)よく状況を分かってない自分ですが どうやらフランス革命に関わる演出があったとかなかったとかで 我が家のネ申(妻)が興奮しながら「久々にレ・ミゼラブルを観たい」とのことで 自分も久々に映画「レ・ミゼラブル」を鑑賞させて頂きました。 前世の事ではありますが、 もともと「レ・ミゼラブル」が大好きすぎて、日本でのミュージカルだけでなく 海外含め、何度も舞台を観させて頂く機会があり、映画も何度も何度も観ており オープニングの音楽だけで「パブロフのイヌ」の条件反射ばりに号泣してしまうような自分です。 ですが、中学の頃、さまざまな文学作品をかたっぱしから読むんで過ごしていた自分が 唯一、なぜだか避けていたのが、レ・ミゼラブルでした。 おそらく、日本語タイトル「ああ無情」が暗いオーラを出しすぎていて、 本を手にするのを避けていたのかもしれません(笑)。 でもこの作品は、歳を取るほどに、 体験が積むごとに、スルメのような味わいを感じられるようになる。 (ファンのみなさまには失礼な表現で申し訳ございません) ※ちなみに、一部の仏教の戒律では、踊りや音楽を楽しむこと禁じられており 欲にまみれた大変お恥ずかしい身です。 まだご覧になった事がない方は、ぜひ一度オススメをしますが (映画版については賛否両論あるようですが…) このストーリーの特徴は とても「愛」にあふれていることではないかと思います。 土台にはキリスト教の色があるものの、絶対的な善悪ではなく それぞれの立場のそれぞれの信じる正義を、 それぞれの苦悩の中で描かれており 誰もが人は強くなくまどい苦しむものでありながらも そして、時に絶望に感じるような悲しいやるせない 現実の厳しさを突きつけながらも 他に善きことを行い生きようとする姿のすばらしさ 誰かを愛することの喜び そして、どのような切ない別れや苦しいさなかにあっても 希望を夢見ることの素晴らしさを高々と掲げる。 たくさんの大好きな歌詞にあふれていて ご紹介したいセリフもたくさんあるのですが、 中でも好きなのが とある、とてもとても切ない別れのシーン。 愛するけれど、想いはかなわない相手をかばおうとして 代りに怪我をしてしまい、 その痛みと苦しみのなか、 雨にまで打たれ 死が迫ってくる中で 大好きだけれど、でも想いが届かない

安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから - 龍光ブログ

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自分だけは… 自分こそは… ヒトは自分の脳を通してしかセカイを見ることができないので つい「自分の周りにセカイがある」(セカイの真ん中に自分がいる)ような "錯覚"を起こしてしまう。 でも、我々は、ちょっとの自然の不調で簡単に消え去るような 地球上のちっぽけな生物種の一種でしかないのが実体。 それは東北の大震災で街が無力に波にさらわれてしまったような過去の災害や 世界中で増えている洪水の被害の様子を見ても明らかなハズ。 そんな頼りない存在だから、ヒトはこれまで互いに協力しあって 今に至るまで生き延びてきたハズ。 ヒトの社会は、周りのヒトとの支え合って成り立っているハズ。 なのに、すぐにそれが「当たり前」のように忘れてしまう。 "自分中心"に、都合よく世界を解釈してしまう。 なんなら、自分だけでもなんとか生き抜いていけるような"錯覚"を起こして。 だけど、いま使っているガソリンも電気もインターネットも全て 誰かの支えで成り立っている。 昨日頂いた食事も全て、育てたり運んでくれたりした 世界のどこかの誰かの支えで成り立っている。 社会のあらゆる所が、誰かの支えがあって成り立っているのに つい空気のように「あってあたりまえ」の"錯覚"を起こしてしまう。 そして、その"錯覚"は、 時に、さも「自分だけ」でも何かを成し遂げられるように感じさせ 「自分こそ」は他人と違う「なにか特別な何者」かになれるかのような "ファンタジー"を我々に見せていく。 実際の我々は、どれだけ肩書が立派になったり テストの点数が良かったり、かけっこが早かったり、歌がうまかったりしても 全て等しく、空気を必要として、誰かが作ったご飯を必要として生きている みな同じ、ホモ・サピエンスという生物種の一個体のハズ。 でも、時にヒトは、"ファンタジー"にあこがれて 「自分こそ」他人とは違う、何か特別な存在なのだと信じたがる。 けっして、「何者か」になろうとする事が悪いと言いたいわけではないのです。 「何者か」を目指そうとするから個人として努力が生まれ 集団として文明が発展し より衛生面でも食糧確保でも安心して暮らせるようになったのも事実です。 ただ、問題なのは「何者か」にな

「幸せな脳」の育て方~脳と感情と身体の関係から学ぶ幸せな生き方へのヒント - 龍光ブログ

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「心とは何か?」 というアリストテレスの本があります。 "こころ"というものが、どこにあり、何でできており、どのように働くのか…。 古代ギリシャのずっと前の時代から、 人は、"こころ"に悩まされてきたのでしょうか。 "こころ"に振り回され、時にバカな決断をしてしまったり、 時に人を傷つけてしまったり…。 "こころ"の定義は今でもまだ議論があるようですが、 "こころ"の中でも、「感情」に限定してみると、 最新の脳科学で、その解像度がだいぶ上がってきているようです。 この所、最新の脳科学にまつわる本を続けて読んでおりましたが、 今回得た大きな学びは、 感情の体験は脳で生じており、脳は大人になっても鍛える事ができ、 「感情の感じ方」も変えられる可能性がある、 というもの。 特に、「瞑想」は脳の構造的な変化も確認できるほど 脳や身体に良き効果をもたらす事が科学的に確認されている事。 それらの学びをまとめたスライドを公開しておりますので よろしければご笑覧くださいませ。 ※いまだ発展途上の科学の知識を元にしており、龍光なりの解釈を踏まえた内容であることをご理解のうえお楽しみくださいませ。 ※スマホでご覧になりにくい方は、下記リンクをクリックし、 スマホを横向きにしてご覧ください(スマホ画面の縦向きロックを解除した上で) ※指で拡大もできます スライド:「幸せな脳」の育て方~脳と感情と身体の関係から学ぶ幸せな生き方へのヒント ↑どなたでもご自由にご活用くださいませ🙏 これまで、心を識るには脳を識るのがよいだろうという考えから 最新の脳科学についての学びを進めつつ、 それらの学びを元に下記2つのスライドを作成してきました。 「”わたし”という意識」について~脳科学と仏教の視点から考える「無我」とは 「意識」が生じる仕組みから“わたし”という概念に生まれる「錯覚」を知ることで、 心おだやかな生き方につながるヒントを考察しています。 なぜヒトは「答え」を求めるのか~脳と意識の進化から学ぶ、心おだやかな生き方とは~ 脳や意識が生命進化の過程でどのように生まれてきたかを知ることで、 何か「答え」をもとめがちなヒトの意識の仕組みを学び、 心おだやかな生き方へのヒントを考察しています