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誕生日への感謝のことば

8月30日は 自分の師匠でもある佐々井上人の誕生日です。 2024年、今年で90歳になられました。 お電話でお話した際は 「心は青春だが、身体は年寄りだ」と仰られておりました。 お元気でいらっしゃるだけで、有り難い存在です。 自分が散々悩み惑っていたなかで 生き方を示してくださった 自分にとっては、生命を拾って頂いた そして新たな生き方を示してくだった 文字通りの生命の恩人であります。 有り難い限りです。 そして、私事ではありますが、 8月30日は、僕の母親の誕生日でもあります。 今年で81歳になる母親に電話したら 「私、8月30日って、暑いさなかに生まれて 自分みたいにバカな人間が生まれる時で好きじゃなかったけど 今思うと、(生まれの)新潟の暑い中で (自分の)母は自分をお腹に身ごもっていて過ごしていた事を思うと 大変だったろう。と思うのよ。 生きていると、考え方って変わるもんなのね」 そう、とても有り難いお話をしてくれました。 今は亡きばーちゃんにアタマが上がりません。 有り難い限りです。 こんな風に、誰もが、いろいろなヒトの頑張りの元に いまこうして息をできているのだなぁと つくづく有り難い限りです。 このブログを読んでくださっている方がいるだけでも 自分にとっては、恵まれており大変有り難い限りです。 心より、有難うございます。 このように、いまも日常で頂く様々な御恩に ただただお返しを少しでもできるよう これからも精進してまいりたく存じます。 こうした生き方を授けてくださった佐々井上人 自分を生んでくれたかーちゃん、そのかーちゃんを生んでくれたばーちゃん、 あらゆる自分につながる人たちへ 有難うございます🙏

「とにかく頑張らないと」中毒?

現代を生きる我々は 「とにかく頑張らないと」の中毒にかかっているのかもしれない。 そんな戯言です。 40代くらいの方なら聴いたことがあると思いますが かつて「24時間戦えますか!」と 明るく元気よく高らかに歌われれる栄養ドリンクのテレビCMが流行りました。 そのCMが流れていた時代を調べたら1988年のことでした。 まだバブルの余韻があった頃でしょうか。 今でこそ「ブラック企業」という言葉がありますが その当時は、24時間でもモーレツに働くのが 「イケてる」姿と捉えられていたのだと思います。 さて、あくまで私見ですが、なぜ、このような風潮が生まれたのかについて。 第二次世界大戦の敗戦は、物質的にも心理的にも 大いにくじけた、強烈なショックをもたらすものだったのでしょう。 とにかく食べるだけでも苦しかった苦しさからの解放を求めて、 一方で、耐え抜いて努力したのに結果に出なかった(負けた)悔しさや、 戦前の様々な不条理に対するやるせなさや怒りの矛先として 日本の「高度経済成長」へのエネルギーが生まれた。 食べられる物の充実、衛生環境の改善といった、生きるための土台の改善とともに 冷蔵庫、洗濯機、掃除機、カラーテレビ、などなど 生活で極めて実感のある「進歩」「新しさ」といった 生活の変化に溢れていった。戦後の数十年は、そんな時代だったのかもしれません。 だから、働く程に、努力するほどに、「生活が豊かになる」実感を得やすかった。 生きる意味として、「豊かな暮らしを目指す」というのが、わかりやすく 「物質的な豊かさによる、生活の変化」もわかりやすかったのでしょう。 そのために、一生懸命勉強して、いい大学に入って、 「良い」と世間で言われる職業につけば、 そしてそこで一生懸命頑張っていれば、 「豊かな生活」につながると信じられていたし ある程度は実感できることもあった。 大昔の話しではなく、たった80年ほどのお話です。 「頑張るほど豊かな生活」の実感は、 (肌感ですが)30年前くらいまではまだ強く感じられていたものの、 ここ30年くらいは、どうでしょう。 この30年ほどは、それほど生活の質を劇的に変えるような 新たなものはコンピューターやインターネットの普及くらいかもしれません。 もちろん、車は衝突を予防してくれたり、 全国高速道路や新幹線でいけるようになったり 掃除機は自動で

能力は囚われにもなる - 龍光ポスト

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 タイのチェンマイにて 僧院で滞在させて頂く傍ら 現地の盲学校にお連れ頂く機会を頂戴しました。 チェンマイでの滞在をサポートくださっている方に我がままをお伝えし 「もし可能なら、様々な社会課題にまつわる現場に学びに行かせて頂きたい」と ご相談させて頂いていたのですが、 各方面をいろいろと検討頂いた結果、 縁が生まれたのが、その盲学校となります。 いろいろと感動的な出来事があったのですが、まずは”タンブン"について。 タイ語の"タンブン"は、 日本でいうと「お布施」や「寄付」など 「功徳(くどく・徳を積む)」といった意味合いだそうです。 仏教が浸透しているタイでは、タンブンをするのは一般的だそうです。 僕を盲学校に連れて行ってくださる方も、盲学校にタンブンとして食品などを用意くださったのですが、 それを知った周りの方々も、次々と集まり 「その盲学校にタンブン(寄付)をしたい」と、 僕を盲学校に連れて行って頂く方のお家にたくさんの品々が届けられたのです。 「(タンブンをする)貴重な機会を有難うございます」とまで仰って頂きつつ。 改めて感じたのは、何か徳を積む機会を喜んでされる方が多い、 その機会が生まれればとても積極的に寄付やお布施などの行為をされる、 ということです。 モチベーションとしては、 来世や現世で善きことが、という「信仰心から」ということもあるかもしれませんが、 お話を聴いていて感じるのは 「ただ、誰かの役に立てる機会が嬉しい、幸せに感じる」という 純粋な善意で動かれる方が少なくないという事です。 もともと、誰かのために何かをすることへの喜びを実感していらっしゃる方々が、 たまたま今回、自分が盲学校に連れて行って頂く という機会によって、その機会で行動を起こしてくださった。 自分は、たまたま、その触媒というか、アンプというか、 携帯の電波の増幅アンテナというか、人々の善意が巡る繋ぎの役割になっただけで それは、リューコーじゃなくてもヨーコーでもパーコーでも良いわけですが、 皆さんの善意が集まる縁が起きたという点では、有り難い限りでありました。 お米だけでも50kg分と、皆様のたくさんの善意が、チェンマイの盲学校にお届けすることができました。 そして、その盲学校にて…。 10名くらいの生徒たちが、タンブンを運んでくださった我々に

「ゼッタイ」は黄色信号かも

とつぜん、自分や、家族、親しい人が重い病気にかかったり 事故に巻き込まれてしまうと 「なんで?」「まさか」と感じてしまう。 でも、誰だって、いつだって、 病気や事故に巻き込まれないとはワカラナイものではないでしょうか。 いつ台風が生まれるか、地震が起きるかだって、ワカラナイように。 でも、人は、自分や、自分の周りのことを 「分かっている」つもりになりたいもの。 「どうにかできる」と信じたいもの。 だって、ワカラナイ事や、どうにもできないかもしれない事態は 気持ち悪いし、時に不安や恐怖を起こすから。 だからこそ 「病気も災害も、いつくるかワカラナイもの」と頭では 「分かっている」つもりになっていても、 いざ、それが訪れると「なんでだよ!」「マジか」と感じてしまいがち。 それは、無意識の自分の脳が、自分の不安や恐怖を和らげるために 「自分だけは大丈夫だろう」と勝手に言い聞かせているからかもしれません。 人の脳には、自分に都合が悪い物事ほど 自分の脳が無意識のうちに「そんなはずはない」と自分を錯覚させる そんな便利な機能を持っているようです。 「あの人、あんなに内容を、 なんで恥ずかしげもなく『こうだ』と言えるのだろう」 と感じる「あの人」自身にとっては、 ご自身の脳が無意識のうちに当人を「こうに違いない」と信じ込ませていて ご自身にも、 「まさかそれが間違っている可能性がある」 「他人には違うかもしれない」 とは感じられてないだけのかもしれません。 そして、このようなお話を聞いても 「信じられない。普通、人って、そんなふうにならないでしょ。どっかで気づくでしょ」 という気持ちが生じた方がいらっしゃったとしたら、 それは自分を安心させたい自分の脳が 無意識のうちに「自分はそんな風にならないから大丈夫」と伝えたことで 生まれた感覚かもしれません。 脳は、無意識のうちに、自分に都合のよい解釈を意識させてしまう というのは、なんだか面白くない内容かもしれませんが、 それは、誰もが脳に持っている、生き延びるための仕組みでもあるかもしれません。 さて、何が言いたいかというと、 つまりは、ヒトは「偏見まみれで生きているもの」なのでは、という事です。 「自分にとって都合のよい見立てで、世界を解釈してしまうもの」 と言ってもいいかもしれません。 「いやいや自分は大丈夫!」「偏見なんてない