投稿

2023の投稿を表示しています

目指す「生き様」(生きる道/方向)を考えてみる

 年末年始は、1年の目標を立てるのに、よい機会だと思います。 いつだって目標は立てて目指せるのですが、日常ではつい忘れがちなので、 よい機会として、目標を立てたり、すでに目標があれば見直してみる。 目標なんて特に無くても生きていけるのですが、あると成長に繋がりやすい。 では、どんな目標がよいのでしょうか。 前世(得度前)の自分は、「目標を期限とともに明確に定めて努力する」事で様々な成長を経験することができたかもしれませんが、それにより「達成」「成功」への囚われが生まれ、惑いが大きくなり、とても、苦しみました。 今、師匠の佐々井秀嶺上人の生き様に触れ、自分の生き方を変えなおす機会を頂き、 おかげさまで、とてもおだやかに、クリアに日々過ごせております。 そんな体験をもとに、目指す「生き様」を持つことの大切さについて、 自分なりに考えまとめてみました。 目指す「生き様」を考えてみる by 小野龍光 趣旨としては、あくまで個人的な考えですが、点としての目標だけではなく 目指す生き様(生きる道/方向)をイメージし設定してみるのが大切では というものです。 点としての目標は、分かりやすいのですが、それは「達成した瞬間に消える」1シーンの状態を目指したものかもしれません。 それはそれで、成長には大切だと思います。 でも、人生は、その「点」の前にも後にも続きます。 その点に到達した後、どうするのか。 その点に到達せず人生を終えなくてはならない時、その人生は「失敗」なのだろうか。 そして、点として目標を追いかけているうちに、本来の自分の価値観や倫理観から離れて、目の前の点を追いかける快楽にハマる自分が生まれることもある。 自分が目指す道を見つめずに進むほど、目の前の点ばかりを追いかけて、気がつけば、本来生きたい道のイメージから大きくハズレる自分が生まれうる。 家族のためと思って働いているはずが、仕事の楽しさばかりに目がいって、家族と目をみて話すよりも、スマホで仕事やニュースばかり見てしまう。 将来の目標のために稼いでいるけど、稼ぐことばかりが毎日一生懸命になり、なんのために日々過ごしているのかわからなくなる。 でも、仮に今晩、隕石が落ちて、災害が起こって、家族がバラバラになってしまったり、自分の生命が終わってしまったとして、その人生はどう解釈すればよいのか。 目の前の事ばかりに囚

足るを知れば 満たされる

イメージ
嵐による停電で、電気が無い生活をしました。 真夏のオーストラリアはクーラーが無いと暑いです。 山に籠もっているので、太陽が沈むと真っ暗になります。 かなりの広範囲で停電がおきており、他にも嵐による倒木などの災害被害が出ているので、 年末年始ということも有り、しばらく電気が無い生活が続くかなと考えてました。 幸い、水はあるし、山にはパパイヤなっている木もあるし。 まぁ、死にはしないだろう。死んじゃったら、腹も減らず暑くも感じないし。 そんな感じで、ポカーンと停電生活を楽しんでおりました。 はるか先では激しそうな雷雨を起こしている雲をバックに、美しく色を変えていく夕焼けも堪能しつつ。 電気がないので、暗くなると本を読めなくなる。 充電ができないので、電子書籍も控え、このようにスクリーンに向かう時間も無くなる。 そうすると、自然を見る時間も増えます。 日常でも、朝焼け、夕焼けは楽しんで眺めているつもりでしたが、 停電という機会で、いつも以上に自然と向き合う時間が生まれる。 そうすると、いつも以上の、細やかな自然の変化の美しさに気がつける。 とても、有り難い時間だなぁ。 結果、自分のいる場所は24時間で電気が復旧しましたが、まだ停電の箇所も広範囲で残っています。 あらためて、日常に「ある」ものは、当たり前ではないのだ、という良い体験を頂きました。 まさに「足るを知る」だなぁ。 そう感じました。 と、ながーい前置きとなってしまいましたが、今日のタイトル、 「足るを知る」  好きな言葉です。 アレもコレも、もっとほしい。 モノ、カネ、名声、地位、賞賛、愛情、権力…。 今は手に入ってなく、手に入るなら「ほしい」。 誰か、自分よりもっていそうな人が目についたら、自分も、ほしい。 そう思っても、いざ手に入れると「もっと手に入るなら、ほしい」とキリなくムクムクと膨らむ。 どこまでも「もっと」とキリなく求めるココロが生まれると、「満たされない(手にいれられてない)」と感じ、その満たされなさが、苦しみとなる。 そして「もっと」のココロが強まる中で、誰かからの搾取や、誰かを蹴落としてでも、など、他人の気持ちに無頓着になってきてしまい、かつ、「持てている」自信が何か特別な存在かののように傲慢なココロが生まれて、人にやさしくないココロの自分が膨らんでいく。 怖いのは、そのような変化が自分でも気づ

クリスマスの贈りもの

 今日はクリスマス・イブですね。 仏道で得度した人間に、キリスト教のイベントは関係無い? そもそもクリスマスはイエスの誕生日とは関係が無かった? いいじゃあないですか。 事実、世界中で多くの人達が、楽しみにしている日なのですから、 そんな日がある、ということ自体を、有難く受けとめてもいいじゃあないですか。 (ちなみに、インドの熱心な仏教徒の方でもクリスマスを楽しんでおられる方もいらっしゃいます) と、僕は思っております。 クリスマスに贈り物、はマーケティングから生まれた商業イベント? でも、よきご縁(キッカケ)にすることだって、できるじゃあないですか。 誰かが、誰かに、心を込めて何かをお贈りする。 そんなステキなことがしやすい、すてきなキッカケをくれる日なんですから。 とはいえ、僕は前世(得度前)から、自分の誕生日やクリスマスでは 「僕からネ申(ヨメ)に何かプレゼントをさせて頂く権利を、僕が頂戴する日」 もしくは 「僕がネ申とお食事をご一緒させて頂く権利を、僕が頂戴する日」 でありました。 今年も、後者です。大変に、有難き事です。 そして、自分からはここを訪れて頂いたあなた様へ、 勝手ながら、ささやかなお贈りものです。 せっかくの世界中で多くの方々が、 温かい気持ちをお贈りするイベントの機会なのです。 まずは自分自身に 「今年一年間、頑張ってここまで来たね、よく頑張ったね!おめでとう!有難う!」 という言葉をお贈りしてみては、と願っております。 そして、何かのご縁があって、このページをご覧頂いている方にも お会いしたことは無いかもしれませんが、 小さきハゲボウズからも下記の言葉をお贈りさせてくださいませ。 ---------- 今年1年、ここまで頑張りましたね! 悲しい紛争や災害で生命を落とすことなく、そこそこ動かせる身体もあって、 今があるコトは、とても有難きことではないでしょうか。 いろいろ、難しい出来事や、不安、悩みや困難もあるかもしれません。 でも、ひとまずは生きて今こうしていられているのですから。 その事自体が、僕にとっても有難き(有るのが難き = 有る事は簡単ではない)事と勝手ながら嬉しく思っております。 そして、わざわざこのページにたどり着いて頂き、ご覧頂き、大変有難うございます。 今年の残りの毎日が、そして来年からの毎日も、 あたな様にとって、おだや

生き方を変えたいと思う方へ

立派なタイトルに見えるかもしれませんが、大した中身はございません。 ただ、欲にあふれて苦しんでいた50歳手前のオジサンが、無職のハゲボウズになった中で、大きく生き方が変わった体験からの小さき学びをシェアさせて頂く内容にすぎません。 世の中には「自分を変える方法」は本や動画などで実に様々と用意されてます。 多くの偉人たちによる、生活習慣の作り方や考え方についても学べます。 わざわざ、こんなハゲボウズの体験や考えなどご覧頂かなくても、他に学びはいくらでも得られます。 何かのご縁があってご興味頂いた方へ、あくまで一個人の一事例としてご覧頂く、という前提にて、ご容赦くださいませ。 あくまで自分個人の体験ではありますが、 得度前と今では、生活スタイルも、物事の考え方も、普段の感情も、劇的に変わりました。 得度前は、常に何かに追われ、不幸ではないけど何か満ちたれてないような、実感のえられない何かを求めているけど何が正解かわからないような、充実感はありつつも、苦しみが膨らむ生活でした。 今は、とても心おだやかに、でもおもしろきと感じることに溢れる生活になりました。 ただ、まず最初にお伝えしたいのは、 「人生を変えるのに、出家や得度は必要とは思いません。 そして出家や得度したからといって変わるとも限りません。 出家や得度はあくまでキッカケにすぎないと思います。」 ということです。 そして、「どのような生き方へと変わりたいのか」によって、取るべきアクションも変わってくると思います。 たとえば、「おだやかな生き方」を目指すのだとしたら、「囚われない考え方」を手に入れることが大切だと思います。 「おだやかな生活を手に入れるには出家は効果あるはずだ」 「おだやかではない今の状況から抜け出さなくては」 「家族がいるから、興味があるけど出家なんてできない」 実は、これら 「〜のはずだ」「〜しなくては」「〜はできない」という考えは 何か一つのものの見方や判断の仕方(視点)に囚われの心持ちがある、と考えてます。 「出家しなくても何かかわるかもね」「今の状況から抜け出せないと死ぬわけじゃないかもね」「家族いながら出家して日常生活してる人もいるよね」 などなど、少し違う視点(心持ち)を持てれば、「一つの視点、という囚われから離れた」状態に近づける一歩となります。 極端なお話し、自分の命だって、いつどの

瞑想について - 龍光ブログ

瞑想について - 龍光ブログ エラそうなタイトルですが、まず皆様にお断りとお詫びです。 自分は決して「瞑想とはどういうものか」を知っているのかすら、分かってない、というコトです。 自分なりの学びや実践はしてはおりますが、果たして、その行為は「瞑想」と呼んでよいのか、「ただポカーンと座っているだけ」なのか…。 「食事」という体験を言語で説明しつくすのが不可能なように、「瞑想」という体験も、言語化しきれるものではない。 そもそも「食事」という体験には、味、見た目、匂い、音、食感、その場の環境や一緒にいる人達などトータルの雰囲気、その時の自分の気分や体調などなどなどなど…。 実に様々な情報が合わさっての「体験」なワケで、単語を順番に連ねることでものごとを表現をする「言語」というモノでは説明がしきれないモノ。 同じように、「瞑想」という体験も、その時の場所の雰囲気、変化する五感の情報、体内の気分や体調などで、実に様々で、かつ刻一刻と変化するモノ。とても、言語化しきれない。 じゃあ書くなよ! なのですが、有難くも瞑想の体験会をご依頼を頂く機会が増えてきている中、限られた時間で少しでも自分なりの「瞑想の効果」を皆様にもできるだけ分かりやすくお伝えできるよう、自分なりの「瞑想について」をまとめてみました。 あくまで、現時点での、自分で表現可能な範囲での「瞑想」(と自分が感じているモノ)にすぎませんが、少しでもお役に立てば幸いです。 ながーい前置き(言い訳)はともかく、こちらです。 瞑想についてver0.2 by 小野龍光 この資料は、自由に活用頂いても全く問題ありませんが、あくまで一人のハゲボウズの「感じるコト」でしかありませんのでご容赦くださいませ。 内容としては、資料にまとめさせて頂いた通りなので、それに付加した説明はできますが、言葉を尽くせば尽くすほど混乱も生むものなので、まずは一旦ご笑覧頂き、ご意見やご批判などありましたら、 龍光ポスト にご遠慮なく頂けましたら幸いです。 改めてお伝えしたいこととしては、「瞑想」という単語を聞くと、なにやら特別な人が行う特殊なモノのように誤解を与えてしまいますが、「雑念から離れて何かに集中できている」「無に近い感覚」という状態は、ほとんどの方の日常でも起きている現象だと思います。 掃除、料理、裁縫、薪割り、などなど、単純作業の繰り返し

満たされてない、と感じる方へ

イメージ
「満たされない」という苦しみについて。 相変わらず、無責任なただのハゲボウズの一人思考の落書きとしてお流しくださいませ。 いま「満たされてなくて苦しい」と感じていらっしゃる方へ。 まず、「大丈夫ですよ!」とお伝えさせてくださいませ。 だって、今、あなたは呼吸をしていらっしゃり、ある程度自由に動かせる身体を動かせていらっしゃり(目、耳、触覚のどれかが無事に使えている!)、インターネットにつなげるだけの環境や、スマホやパソコンなどを使える電力もあり、端末も持っており… 決して、今にも消えそうな呼吸でも、自由が聞かず感覚も薄れそうな身体でもなく、紛争や災害で家を失っている訳でもなく、寒さにふるえている訳でもない。 素晴らしい、有り難いことじゃないですか。 実は、とても満たされているんですよ。その自分に、まだ実感を持ててないだけなんです。 なので、大丈夫ですよ! と、冒頭から、無責任な戯言で、失礼いたしました。 少し、噛み砕いてお話しさせてください(ふざけんな!とお感じでしたら、いつでも立ち去りくださいませ)。 ちなみに、このブログ、ちょっと長くなります。ご容赦くださいませ。 「どうやったら、満たされてるって、感じられるようになるの?」 そのヒントになるかもしれないコトも後の方に書いていきますので、お付き合い下さいませ。 まず、「満たされていたい」って、欲望なの?煩悩なの? 「満たされたい」って願うのは駄目なの? そんなことはない、と考えてます。 「満たされたい」という思いは、人間として大切な想い、願い、だと考えております。 でも、もし 「何かが足りてないから、満たされてない」 「何かを手に入れれば、満たされるのだ」 そう感じていらっしゃるのだとしたら、その気持ちからは離れることをオススメさせて頂きます。 そのスタート地点から進み始めると、どこまでいって「苦しみ」はつきまとうかもしれません。 欲、には、2つの方向がある。 「幸せ(満たされ)」につながる欲と、「苦しみ(満たされない)」につながる欲。 まず、今、立っている立ち位置(スタートライン)で、 「どちらの欲の方向へ向かうか」 が変わりうる、と考えてます。 立ち位置A : 「今、実はある程度満たされてるのだ」 立ち位置B : 「今、満たされてないのだ」 Aに立つか、Bに立つか。 つまりは、自分は自分をどう解釈するか。自分

怒りとは

 「怒り」をテーマにしたオンラインでのセッションを持たせて頂く機会があったため、自分でも改めて「怒り」について考えてみました。 すでに様々な偉大な先人たちが、「怒り」について語り思索をまとめていると思うので、興味ある方はそれらを学べば良く、自分がココで書き綴るものは、あくまで自分の思索をまとめるためのメモを公開しているモノ、とお受け取りくださいませ。 (皆様にとってはゴミのようなモノです。いつでもこのページをお閉じ下さいませ) まず「怒り」を含めた、負の感情は「思う通りにならない」状態から起こる。 と、考えてます。 そして、その解消のカギは、実は、自分の中に答えがあります。 実は、「思う通りにならない」モヤモヤは、自分の脳内が生み出した「思う通り」のイメージとのギャップにすぎず、「思う通り」のイメージへの囚われを自ら流していく(そのイメージから離れていく)ことで、モヤモヤ/怒りは流れていく(消えていく)のです。 そう、考えております。 もう少し、詳しく書いていきます。 「思う通りにならない」という状態は、「思う通り」にならない/ならなそうな時に生じる。 いわば、自分にとって「こうあってほしいイメージ」に対して、現実が違った時に「なんでだよ!」と感じる。 これが「怒り」含めた「思う通りにならない」、負の感情の根っこでは、と。 「こうあってほしいイメージ」は、脳内で「こうだといいな」(期待)、「こうあるべき」(理想)、「こうありたい」(希望)、といった前向きな感情から生まれる。 これらは「欲」とも呼べますが、これらは前向きな成長を促しうる感情で、決してそれ自体が悪いものではない。 でも、「思う通りにならない」ことは、とてもよく起こるもの。 だって、自然は常に予測不能で刻一刻と変わるのだし、関わる様々な人達の中では、自分とは違う感情や意識や意図で、自分とは違う「こうあってほしい」「こうあるべき」という状態に向かって進むことも、よく起こるものだから。 そもそも、残念ながら、我々は必ず死んじゃうし、いつどこでどう死ぬかというのもワカラナイもの(「知っておきたい!」は、思う通りにならない)。 だけど、時に起こる感情 「なんでこうじゃないの」 「なんでこうなっているの」 「自分にとっての『思う通り』」に囚われると、怒り、という負の感情が膨らみやすい。 まず、ここで大事な事は、これ

何にも無いから たくさん気付ける

 この1ヶ月ほど、毎朝目覚めてから就寝するまで、ほぼ何も予定が無く、ネットやニュースにふれることもほぼ無く、ほぼ誰ともコミュニケーションも無い日々を過ごしてみております。 ひたすら、活字と自分に向き合う時間で、退屈そうにも聞こえるのですが、多くの気づきに溢れた、とても充実した時間を頂けております。 起床し、まだ暗い空を見上げると、星空の中で、月は位置も姿も日々変えていく。 うっすら東に薄紫色が出始め、徐々に様々なオレンジのグラデーションが刻一刻と生まれては消えていく。 朝の散歩に出かけると、色々な方とすれ違い挨拶をし、時にとてもステキな笑顔に出会える。 そして、風のニオイ、草木の様子、様々な鳥の鳴き声など、美しく眺める。 畑では少しずつ、植えた野菜たちが日々育っていく。雑草も増えていく。 毎日、雲の様子で様々な夕日を眺める。 特に大きな変化が何も無いような毎日なのですが、実に多くの自然の変化に気がつけて、それに心おもしろく過ごせる自分がおります。 大変に、有難きことです。 日々の生活で、やるべき仕事がなく、自由な時間が多いから、それらの事柄に気がつきやすいだけかもしれません。 でも、講演などで様々な人と出会い、コミュニケーションや移動など刺激が多い毎日が続く1か月前の日本やインドにおいても、空を見上げたり草木に意識を保て、そこに喜びを感じられておりました。 一方、得度前の生活では、何かをしていないと価値が無い自分のような、常に次々と何か心を満たしてくれそうな出来事を追い求めていないと、人生を損してしまっているかのような、そういった焦燥感に駆られていた。 そんな心持ちの中では、自然の変化を、おだやかに眺める意識はほぼ持てておりませんでした。 「何か常に新たな刺激を」と追いかけていた前世(得度前)では、満たされ無さがずっと続き、それが苦しみに感じ、その苦しみを埋めようと、さらに「何か」を求めて、慌ただしい(=心が荒れた)状態になってしまっていた。それは自分が望む状態ではなかった。 今は、時に刺激に少ない退屈や孤独にも感じるような時間にあふれているものの、何もない分、ちいさき様々な事柄に気づきと、おもしろきと感じる時間が、おだやかな時間の中に溢れている。 どちらの状態が絶対的に良いとか悪いとか、そういった事ではなく、 自分としては望ましい状態を、今頂けているという事がただ

今日が人生の最後と思って

 大変ご無沙汰している方からメッセージを頂きました。 僕が大変可愛がって頂いた方についての、ニュース記事のリンクをお送り頂いた内容でした。 その方が、80年間の人生を閉じられた。 その方の、訃報のニュース記事でした。 自分にとっては前世(得度前をそう呼ばせて頂いておりますが)、つまり、すでに死んだも同然の人間の時代の事なので、あまり自分が語るべきではありませんが、大変有難きご恩を頂いた方なので、少しその事を。 その方との出会いは、10年ほど前、大変に不思議なご縁から生まれました。 当時、自分が「成功の快楽」への欲望に苛まれ苦しみ、そのバランスを取ろうと「何か」を探してさまよっていた時、とある「牧場」のご縁でお会いさせて頂きました。 その方は、個人の名を世に出そうというタイプではない方でありましたが、今や、かなりの方が(自分含め)お世話になったサービスを提供されていらっしゃる企業を一大で築き上げられた、大変有名な企業の創業者であり、また、世の中に対して強いメッセージを発信されていらっしゃる方でもありました。 ビジネスで積み上げてこられたものもスゴいのですが、プライベートでもとても大きな事をされていらっしゃり、自分はプライベートのご縁で、その方の持つ「牧場」でお会いさせて頂く機会が生まれ、その初日から「小野くん、まぁ飲みなさい」とご一緒させて頂き、それ以来、ちょくちょくお電話を頂き「飲みませんか」とお誘い頂き、可愛がって頂きました。 その方とのご縁で、自分もプライベートで大きな趣味がひとつ増え、「何かで世界の舞台を目指してみる」という大変貴重な体験を頂いたり、その過程で、自分の小さき師匠と呼べる方との出会いが生まれ、その小さき師匠との濃い師弟関係の時間を得られ、でも、その小さき師匠の急逝による突然の別れを経験し… これまでに無い様々な体験や人とのご縁を頂く機会を頂戴し、また個人的にも隣で座らせて頂き飲ませて頂きながら、多くの学びを得させて頂き、大変恩を頂きました。 なにより、大変可愛がって頂きました。 そんな恩を沢山頂いた方でありました。 2022年8月、自分が突然ビジネスの世界から離れた時、結果的にその後得度に至るインドへの旅へ発つ直前にも、その方よりお電話を頂き、一緒に飲ませて頂く時間を頂きました。 自分がビジネスを離れた事に大しても、さほど驚かず「そうですか」とさ

大丈夫 これでいいのだ

 「天才バカボン」は実は仏道に関係がある? そう耳にした時はビックリしました。 「西から登ったおひさまが東に沈む」「これでいいのだ」 すぐキレてピストルをガンガン撃ちまくるお巡りさん なんでしょうか。なんだか、とてもメチャクチャな世界にしかみえません(笑。 仏教の生まれたインドでは Bhagavan (バガヴァン)はお釈迦様を表すサンスクリット語だったり、 バガボンのパパは生まれた時、お釈迦様の誕生神話と同じく、「天上天下唯我独尊」と言ったり。 ひたすらお掃除と挨拶をする「レレレのおじさん」は、賢くは無いけどひたすらお掃除をして悟りをひらいたとされるお釈迦様のお弟子さんを彷彿させたり、 「太陽が西から上り東へ沈む」という「常識のハンタイ」とされる事を「これでいいのだ」と受け入れるという姿勢は「両極端な(端に偏った)考えから離れ、両端の関係性をふくめて全体としてあるがまま受け入れる」という仏道の考え(「中道」といいますが)にも通じたり… まぁ、御本人の公式サイトでも、バカボンの由来は「謎」としているので、ただ僕自分が仏教に紐づけて解釈したいという「極の端っこ」の見方に囚われているからなのかもしれません(汗。 でも、あらためて「これでいいのだ」というのは、とても愛のあるコトバだなぁと思うわけです。 なんでもかんでも「いい」というワケではなく、天才バカボンのストーリーの中は、メチャクチャにも視えるバカバカしいシーンがある中で、人に対する愛がある。 その上で、一見不条理や常識外れにみえることすらも「これでいいのだ」と受け入れる姿勢はステキだなぁと思っております。 生きていると、不条理に感じたり、思う通りにならない事がたくさん起きるもの。 自分の意見や価値観が受け入れられない人たちが、罵り合ったり、争ったり殺し合ったり。そういった悲しい事が目につきつつも、それに対して無力で何もできない自分がいて苦しかったり。 でも、今できることは、今、という瞬間を有難く、顔を向ける方角さえ間違えずに、できうることをしようと生きていくこと。 「今」を生きられているだけでも有り難い。 その「今」の瞬間に、感謝のココロを持ち、その恩返しとして、誰かへのやさしさのココロを育てていこうと、前を向いて、上を向いて、息をする。 悩ましいこと、苦しいことは生まれても、下を見ても明るい方向は見えてこず。 起こ

生きてる証拠

 オーストラリアの山の中で一人っきりの時間を過ごし半月が過ぎました。 ソーシャルメディアだけでなく、インターネット自体から離れるようにして、「龍光ポスト」より頂くご相談や、今後の講演会などの最低限のご連絡に限り他とのコミュニケーションと距離を置いて過ごしてみています。 「なんで?修行なの?バカなの?」 「ネ申」(我が家の唯一絶対神=ヨメ)からは、そのようなお誉めのコトバを頂きますが、ぜんぶ当たってます(ネ申のコトバゆえに)。 様々な苦しみや不満といったものは、「思う通りにならない」から沸き起こるモノ。 「こうあったらいいな」が生まれ続ける限りは、どこかで「思う通りにならない」ことは起こるモノ。 とはいえ、苦しみたくない = 「思う通りならない」事から離れたい。 なら、「こうあったらいいな」という「欲」から全て離れなきゃいけないのか? でも、そうもいかない。 だって、生きてる限り欲など無くなりはしないモノだから。 空気も吸わなきゃ、すーぐ死んじゃうし、たまに飯も食わなきゃ生きていけないし。 「欲」は生きるエネルギーとしても、成長へのエネルギーとしても大切なモノ。ムリに遠ざけては、「成長する生き方」になりにくい。 じゃあ、どうするか。 自分なりの一つの答えが 「足りなく感じる環境を、たまに持つ」 事です。 「当たり前、と感じているモノたちから離れる時間を、たまに持つ」 と言い換えてもよいかもしれません。 たとえば、夏の四国を限られた荷物とお金で野宿しつつ歩き回る、とか、冬の北海道を素足に雪駄だけで歩く、とか、オーストラリアの山の中で、ネットにも触らずほぼ誰とも合わずに過ごすとか。 そうした体験の中では、冷たい水を飲めるだけでも、温かい場所に身をおけるだけでも、誰かとお話しをできるというだけでも、どれだけ有り難いと感じられることか。 でも、それが当たり前に手に入る環境にいると、その環境に慣れてしまい、それらが実は「有り難い」(有る事が簡単ではなく、難しい事もありうる)事と実感しにくくなる。 でも、「欲」はキリなく膨らみうるモノなので、「もっと」が膨らむと、どこかで「思う通りにならない」事態にぶち当たりがちになる。 そうすると、怒りや不満(「思う通りならない」感情)が生まれる。 常に冷たい水が当たり前に飲めたり、寒い時は温かい思いをできたり、退屈で孤独を感じたら誰かのコミュ

人生をやり直すキッカケ - 佐々井秀嶺上人について

自分語りなどすべき立場ではありませんが、 このブログが生まれた背景として、佐々井秀嶺氏との出会を少々。 自分は、2022年10月、旅行で訪れたインド・ナグプールにおいて、ご縁があって出会った、佐々井秀嶺上人の生き様に触れた事で、得度をし、人生をやり直す大きな転機を頂き、今に至ります。 それまで、得度前の人生(「前世」と呼ばせて頂いております)では、ひたすらに「成功」といった実態が無いものへとひたすら自分を駆り立て、立ち止まったら負け、死ぬまで前のめりだ、と、「成功」たるものの実態の無さに苦しんでおりました。 いわば、自分が薬物中毒でありながら、その状況を自覚できておらず、中毒の苦しみの解消をさらなる刺激の追求によりハマっていっていたかのような。 時におごり高ぶり、他人を蹴飛ばしても結果を出せばいいかのような錯覚に陥り、決して人様に胸を張って生きられるような人間では無くなっていっていたにも関わらず。 そんな苦しみから、生き方を見直そうと決意し仕事を離れ、でも、その先にどう生きていいか分からず、さまよっていた時に出会ったのが、佐々井上人でした。 佐々井上人は、1935年、岡山県の山奥で生まれ、自身の生き方に散々苦しみ、悩み、日本で仏教僧として得度した後、仏教発祥のインドに単身乗り込み、そこで出会った壮絶な差別や貧困にあえぐ人々に、仏道を示すことを通し、ひたすら人々に寄り添い、力になり55年間を過ごされていらっしゃる。 今でこそ、1.5億人にも広がったと言われるインド仏教徒の最高指導者として政府より任命されるような存在になっている方だが、いまだに、トイレはバケツ一つといった粗末な小さな部屋に暮らし、毎日、ただ求める方の力になるべく、89歳の高齢の身を一切顧みずに、人様のために時間を重ねていらっしゃる。 その結果、佐々井上人の周りでは、かつて治安も教育水準も悪かった地が、道徳心に溢れ教育レベルも高い地に生まれ変わり、とても幸せそうに暮らす人々にあふれている。 ビジネスやテクノロジーなど振りかざさずとも、人々の生き様をここまで善きものに変えていく、このような生き様があるのだ。そう、全身での体験を通して示して頂いた。 そんな佐々井秀嶺上人から、たまたま旅人としてインドに訪れた自分に「お前も得度してボウズになれ」「オレが衣と名前を授けてやる」とのお言葉を頂き、得度をさせて頂き、新

はじめに - 書く理由

ここに書かれている全ての内容は、何者でもない、ただのハゲボウズのトイレの落書のような戯言にすぎません。 元々、日常での自分の思考をまとめる手段として、自分用の文章を書いておりました。 それらの文章を、このようにわざわざ人様の目に触れる場所に置く必要など、本来は無いのかもしれません。 ですが、下記のような理由から、実験的に、このように人様の目にふれるところに自分の戯言を置いてみようと思い立ちました。 自分の今もつ思考は、これまで様々な方々が、それぞれ苦しみつつ紡ぎ出してくださった言葉によって成り立っており、僕はそれら皆様の思想に大いに救われながら今の自分が存在してます。 それらの言葉を生み出してくださった様々な方々に大変感謝しており、その恩返しを何かしらしたい。 自分の考えや言葉などは、過去の方々の寄せ集めや切り貼りでしかなく、本来価値など無いものだけれども、これまでご縁を頂いた方々の一部からは、多少なりとも価値を感じて頂くケースもあった。 もしかしたら、こうして自分の文章を外に置いておくことで、今後全く知らないどなたかのお役に立つ可能性も、生まれるかもしれない。 何者でもない自分とはいえ、ご縁が生まれうるのであれば、お役にたちたい。 そんなささやかな願いと期待が、このブログの背景です。 突然、削除するかもしれませんし、途中でパッタリ止まるかもしれませんw。 ご笑覧いただき、ご興味があれば、お付き合いくださいませ。 何かご意見やご相談が生まれた際は、「 龍光ポスト 」よりご連絡頂けると幸いです。