信じ、赦し、寄り添う力 〜「イエスの生涯」を読んで - 龍光ブログ

 

信じ、赦し、寄り添う力 〜「イエスの生涯」を読んで - 龍光ブログ


遠藤周作さん著の「イエスの生涯」を拝読しました

僕はカトリック系の幼稚園に通っていた事があるのですが、

正直「キリスト教」に対して

石をパンに変えたり、死後3日後に復活する、

といった、"奇跡物語"に対し

「んなバカな」という勝手な拒否反応を持ちながら過ごしてきました。


今は、いかに自分が、何も知らずに

勝手に偏見のイメージを持っていたことか

と大いに反省しております。


考えてみると、仏教でも、

ブッダが生まれてすぐ7歩歩いたり、オデコからビームを放ったり

表面だけ見ると「んなバカな」にも感じる

"奇跡"的な"物語"が描かれているわけです。


でも、偏見を捨ててそれらに触れてみると、

それらの"物語"には、ちゃんと伝えたい意図があり、

あえてドラマチックに脚色をされて残されているのだろう、

と、薄っぺらな理解ながらではありますが、学びつつあります。


考えてみると、宗教に限らず、

およそ現代に残っている様々な「歴史」にも

ドラマチックに脚色された物語はたくさんあるでしょう。


歴史は常に「(勝って)残った者が書き記す」ものなので

残った者は自分たちを正当化し権威付けするためにも

脚色してヒーロー化したがるものでしょうし、

その物語を聴いて伝える側の我々も

ドラマチックな物語の方を好むし

その方が記憶に残りやすいでしょうから。


残された物語が厳密に「本当だったか」かは

すでに確かめようが無いものばかりですし、

それが真実だったかどうか以上に

「価値ある物語と信じられ続けたから、結果として残っている」

という事なのでは、思います。


"宗教"という名で残されてきた、過去の物語や教えも

現代に到るまで残っているからには、

「価値がある内容と信じ続けられたから、結果として残っている」

のだろうと考えております。


三国志や源義経の物語を、

「カッコいいなぁ」と、自分の生きる勇気として心に保つのと

イエスやブッダの物語を、

「有り難い内容だなぁ」と、自分の頼る信念として心に保つのと

そこに大きな差はないのでは、と感じております。



というのはながーい前置きでして、

この遠藤周作さんの「キリストの生涯」での学びについて、下記。


この作品は、

あくまで"小説家"の立場としての推測も交えつつも

聖書に残された内容にのっとり、

"生身の普通の"人間味あるイエスの姿と、

残された"奇跡物語"が意図されたであろう現実的な解釈を

リアルに描いた作品でした。

浅はかながらキリスト教に対する理解がとても進む

素晴らしい作品と思います。有り難いかぎりです。


この本で語られるイエスは、

周囲の人々から、

「この方こそが我々を救うのだ。

貧しさや病いなどの困窮や、

数百年にわたる多民族から虐げられた

苦しい状況から救ってくださる方なのだ。」

という、いわば勝手な期待や熱狂の中においても

自分は神だとは、もちろん語らず

預言者(神から言葉を預かる者)であるとも名乗らず

ただ、苦しむ人に寄り添い、励まそうとすることの

大切さを伝えようとの姿勢を貫いた方だったのだろう。


自分には、民衆が期待するような"病を治す"や

"死者を蘇らせる"などという能力は決して無いにも関わらず

それらの"奇跡をおこす事"を一方的に期待され、

それができないことに勝手に幻滅され、

しっぺ返しのように冷たい態度をとられようとも、

自分に対するひどい仕打ちも赦し、寄り添うことの価値を信じ

ただ、実践していく。

病を直したり貧困を救ったりはできなくとも

苦しむ人に寄り添い、より善き未来を祈ってあげることの大切さを

伝えようとしたのだろう。


ひたすら、そういった姿勢を死ぬまで貫いたがゆえに

結果として多くの人々の記憶に残り

(脚色も含めて)物語として残され、今も多くの人が信じる

ものとなったのだろう。

そんなイエスの姿を描いておりました。


もちろん、これも1つの「解釈の物語」ですので

誰も史実かどうかは分かりませんが、

そこで描かれているイエスという方が

実践でしめそうとした"教え"自体は、

大変に有り難い内容だと感じております。


そして、この、

"信じ、赦し、寄り添う"

といった教えでは

仏教も、イスラム教も、コアな所で共通していると感じております。

さらに、

憎しみからは憎しみしか生まれない、

という主旨も、共通して持っている概念だと、感じております。


聖書の言葉ですが例えば、

「剣をとる者はみな剣で亡びる」

「汝等の敵を愛し、汝等を憎む人を恵み、汝等を迫害する人のために祈れ」


仏教においても

「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」


イスラム教においても

「慈悲を与えない者に、慈悲は与えられないだろう」

といった主旨の内容があります。


つまるところは、これは、個人や集団が

幸せを感じて生きていくにおいては、

人は人と支え合いながらでなければ生きにくい生物としての実態から考えても

おそらくは正しい道なのだろうと。


でも、その実践が簡単ではないからこそ、

未だに戦争も起きており

奪い合いや傷つけ合いもあるのだろう。


そのように実践で示すのは簡単ではないからこそ、

それを強烈に行動で示したであろう

ブッダやイエスやムハンマドという方々は

それぞれの時代と地域の中において、伝説的な存在として

語り継がれたのではないか。と。


僕はもともと無宗教の人間でした。

たまたま縁あり、仏門をくぐったといっても、

仏教が唯一絶対だとは考えてはおりませんし、

他の宗教や哲学や偉人の教えも素晴らしいと感じるものを

有り難く学ばさせて頂く考えの人間です。

何を信じるか、その解釈はといったことはさておき、

個人や集団として「幸せに生きる」ということこそが大切で、

そのために役に立ちそうな過去の偉人の知恵を、

その状況に応じて利用させて頂き、実践していく。


そんな立場ながら、様々な教えを学ぶほどに、

信じ、赦し、寄り添う、

ということはおそらく間違いの少ない道なのだと

感じている次第です。


何より、それを少しでも実践することで、

それらの教えを紡いできた先人に感謝をしながら

次世代にもよき知恵として残していきたいものです。


そんな、まだまだ浅はかな学び途上の人間の戯言でした。


今日もお付き合い頂き、有難うございました。




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