ブッダとそのダンマ(教え) - 龍光ブログ
「ブッダとそのダンマ」という本は、現インド仏教のバイブルともいわれた本です。
"ダンマ"とは、聞き慣れないかもしれませんが、
ブッダの説いた"真理"や"法則/法"などとも訳されます。
その名のごとく「ブッダとそのダンマ」という本は、
ブッダの生涯と、彼の説いた"教え"をまとめた本です。
この本の著者のアンベードカル博士は、
一部でガンジーを超える尊敬を集めているインド独立の礎を築いた偉人であり、
亡くなる直前にヒンズー教から仏教徒へと改宗し、この本を遺しました。
その結果、インドにおいて2500年前に生まれながら、
12世紀にほぼ滅んだ仏教を、
この70年のインドにおいて劇的に復活する流れを生んでいます。
※アンベードカル博士についてはは、こちらのブログをご参照ください。
日本の教育では教えられてないインド〜"アンベードカル博士"について
下記、その「ブッダとそのダンマ」で語られる内容のシェアを
自分メモも含め
ランダムに書き連ねていきます。
なお、"仏教"には、様々な解釈が存在しており
その表現も様々です。
下記に紹介するアンベードカル博士の"解釈"もその1つ、
としてご覧くださいませ。
※3000年にも渡りつづくカースト制度による差別や、その中でのヒンズー教(過去のバラモン教)の位置づけ、差別の最下層で苦しみながら、差別の撤廃に人生を捧げたアンベードカル博士の生きた背景などを理解すると、よりこの"解釈"にも理解が進むと、勝手ながら考えております。
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「我々は生き物について考える時、区別と差別を始める。
友を敵と分け、家畜を人間と分け、友と家畜を愛し、敵と野獣を憎む。
我々はこの区別の境を克服しなければならない」
「(これら"区別"によって起こる)戦争は、
別の戦いの種を撒くだけ。殺人者は殺人者を生む。
悪意は愛情によってのみ消すことができる。」
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この本では冒頭にブッダの生涯が簡単に触れられていますが
ブッダが29歳で出家した背景として、彼が戦争への反対を貫いたからだと描かれています。
ブッダはシャカ族の国の王子として生まれたものの、政治は王の独断ではなく、
シャカ族の人々による合議で進められていたそうです。
そのシャカ族の国が、水の利権争いで隣国に戦争を起こそうと進めるなか
ブッダは戦争はシャカ族の将来にとって益はないと戦争反対の意見を述べ、
他のシャカ族の人々を説得しようとしました。
だが、一族は合議によって戦争を起こすと決めた。
しかしブッダはその決定に従わず、戦争反対を貫こうとした。
一族の合議に従わない行為は、一族の掟に反することでもあり、
ブッダの家族は土地を没収される罰を受けることになってしまう。
それを避けるために、ブッダは自分ひとりが出家をしてシャカ族を去る決断をした。
みなと分かれる際にブッダが言うには
「家族の絆はいかに長く保たれようと、何時か終りが来るものなのだ。
死に際して財産の世継ぎはいるだろうが、美徳の世継ぎを見つけるのは至難である。
雲が集まり散ってゆくように、生きとし生けるものには出会いと別離があるものなのだ。
この世は移り変わるのに、定かならぬ結びつきの中で何でも自分のものと思うのは
間違っている」
そうして、彼は出家をした、と描かれています。
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富、快楽は夢、幻の如く消え去るもの、
それら移ろいやすいものに人々の心は夢中になる。
快楽に溺れても真の幸福を得ることはかなわず、
風にあおられ油を求める火のように、
快楽を求めるものはそれに満足することはありません。
四海に囲まれた土地の全てを制服した者は生み海の向こうを征服したくなるでしょう。
流れ込む全ての水を呑み込む海のように人間は快楽に満足するということはありません。
世間では"快楽は喜び"だといっていますが、よく吟味してみれば
そのどれひとつとして真の喜びに価するものではありません。
美しい衣服や諸々の物は単なる飾りにしか過ぎず
苦痛を和らげるためのものに過ぎないのです。
水は渇きを癒やすために、食物は飢えを癒やすためのものです。
家は雨風、太陽の熱から身を守り、衣服は寒さを防ぎ裸身を覆うために求めるのです。
乗り物は旅の疲れを癒やし、腰掛けは立ち続ける苦痛を和らげ、
水浴は健康を保つための手段です。
それ故これらの外的事物は、人間にとって苦痛を和らげるためのものであり、
それ自身の中に喜びの源が存在するのではありません。
全ての快楽は実に千差万別なのですから、それを真の喜びとは申せません。
快楽を生む条件そのものが次に苦痛の原因になりうるからです。
厚着は寒さには快適でしょうが暑い時にはかえって邪魔だし、
暑い時の夜空の月影は快いでしょうが、寒い冬には逆の効果をもたらすでしょう。
損得といった2つの相矛盾する一対の事柄はこの世の全てにまとわりついています。
ですからどんな人間でも際限なく幸福でもきりなく不幸というわけでもありません。
(王として)この地上を全て征服したとしても、住む場所として1つの町、
いや一軒の家さえあれば事足りるのに、
何を好き好んで王は他人のためにあくせくするのでしょう。
王にしても一組の衣服と飢えを満たすに足る食事、1つの寝台、
1つの座るところがあれば事足りるのです。
他の諸々の区別は王たるプライドに必要なだけなのです。
もし人が一度そのように満足するならば他の区別は無用ではありませんか。
このようにして人が真の幸福を得るなら、快楽に欺かれることはありますまい。
豊かさに囲まれながらもなお欲望に苛まれる人こそ憐れまれて然るべきです。
「他の生物に苦痛を与えてまで(自分たちだけの)繁栄を望みたくはありません」
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この本で語るブッダの考えとしては
苦の克服は
1. 清浄な道
2. 正しい道
3. 徳行の道
を歩むことによって可能である、と書かれてます。
1. 清浄な道とは
1)傷つけず、殺さず、2)盗まず、他人のものを我がものとしない、3)真実ならざることを口にせず、
4)欲情に耽らない、5)酔いをもたらす飲物に耽らない。
※日本の仏教用語でいう「五戒」です
全ての人間は、その行為を判断する基準(規範)がなければならない。
人はみな過ちをすることがある。しかし過ちには二通りがある。
規範をもつものと持たぬものの過ちである。
規範を持たぬものは過ちに気づかず、規範を持つものは過ちから立ち直ろうとする。
問題はなのは過ちを犯すことより、むしろそのような規範が無いことである。
2. 正しい道とは
これには八つの道がある(八正道)。
■正しい見方
人は邪見、迷信、事実や経験に基づかない単なる推測に囚われ
土牢の明かりの無い暗闇に閉じ込められている状態であるに気が付かねばならない。
(無知で物事が正しく見えてないことに気が付かねばならない)
この世の全ての現象は変化してゆくものであり、
全ての現象には原因があって起きているということを正しく認識しなくてはならない。
邪しまな行為、言葉、考えは、結局不快な、嫌悪すべき、益のない苦痛となって返ってくる。
■正しい考え
邪見から離れ、自由な心によって
人がみな生きるうえで持つ何らかの目的、抱負、野心は
気高く価値あるもので、卑しく無価値なものであってはならない。
■正しいことば
1)真実のみを語り、2)嘘をつかず、3)他人の悪口をいわず、4)中傷を慎み、
5)仲間に向かって怒りや罵詈を投げつけず、6)全ての人に親切で丁寧な言葉を用い、
7)無意味で馬鹿げた話に夢中にならず、8)分別ある目的もった話をすべきである。
■正しい行い
全ての行為は他人の感情、権利の尊重にもとづくべきである。
■正しい生活
他人を傷つけたり不正を行ったりせずに、各自の暮らしを立てる。
■正しい努力
無知を取り除くための最も大切なものは努力である。
正しい努力には4つの目的がある。
1)"正しい道"と対立するこころの状態を起こさぬこと。2)もし起こっても抑制すること。
3)"正しい道"を実践できるような"こころ"の状態を作ること。 4)生じた"こころ"を一層育み深めること。
■正しい念(おも)い
注意深さと思慮深さをもち、邪な情欲に絶えず監視の眼を光らせ注意を怠らない心をもつ。
そういった"こころ"が常にめざめていることを求める。
■正しい瞑想(集中)
これら諸々の正しい道を達成しようとする努力を妨げる5つの障害がある。
貪欲、悪意、怠惰と無気力、疑念、不決断である。
この障害は克服されねばならず、それを可能にするのは瞑想(集中)である。
大切なのは、こころの永続的状態であり、その状態は"正しい瞑想"によってのみ獲得される。
"正しい瞑想"は"良い行いと考え"に没頭するよう心を訓練し障害から生じる悪しき行い考えに
こころがむかわないようにさせる。
3. 徳行の道とは
持戒、喜捨、捨身、離欲、精進、忍耐、真実、決意、慈悲、慈愛の徳目を実践することである。
■持戒
道徳的気質、邪まなことをしたくない、良いことをしたいという気質、
間違った行いを恥じるという性質である。
※善からぬことをせぬよう戒めを自らに持つ
■喜捨
何らの報いを求めず他人のために己が持ち物を与え、困窮者の苦しみを取り除く
■捨身
物事に自分の"好き嫌い"や"正しい悪い"といった"自分の"こころのあり方を持たずに、
超然とした態度をもつ。物事に左右されずにいる心。
■精進
ただしい努力
■忍耐
耐え忍ぶこと
■真実
嘘をつかぬこと
■決意
目標に到達しようとする固い決心である
■慈悲
人間への慈しみ、思いやり、深い善意であり、
"慈"とは自分の友人だけでなく敵に対してすら、人間だけでなく全ての生き物に仲間としての感情をむけることである。
■慈愛
人間に対してだけでなく生きとし生けるものへの友愛。
公平な、全てにひらかれたこころで、全てのものへの温かいこころ、
いかなるものも憎まないこころで己が欲する幸せを、全てのものに与えること。
そして、これら全ての実践において重要なものとして"叡智"がある。
盲目的に良いことを行うのが好ましいわけではない。
"叡智"のない喜捨はかえって人を堕落させるかもしれない。
"慈悲"はなくてはならないが、"叡智"のないそれは邪悪を勢いづけるかもしれない。
上記の全ての行為は、"叡智"によって確かめられねばならない。
善悪の行為への理解と自覚なしには、たとえその行為が良いものであったとしても
真の善は期待できない。
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そのうえでブッダはこう言う。
「人格的清らかさがこの世の善の基ではないか?
人格的清らかさは、貪り、情欲、無知、殺生、盗み、邪淫、嘘によって損なわれないだろうか?
人格的清らかさは、このような邪悪さを抑制できるような性格的強さを身につける必要はないだろうか?
人格的清らかさを持たぬものがどうして善の役に立とうか。
人はなぜ他人を支配させて平気なのか?
何故に他人を不幸にして平気なのか?
それは互いに正しからざる振る舞いをするからではないのか?
私の説いた"正しい道"を全ての人が実践するなら
この世の不正、非人間性は克服できないだろうか?」
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ブッダの説くダンマ(真理)は、
苦の存在を強調するがゆえに厭世的と思うかもしれないが、
それは間違っている。
彼の教えでは、たしかに苦の存在を認めているが、
同時にその克服をも強調している。
そこには希望と目的とがある。
その目的は苦の存在への無知を取り除くことであり、
苦の止滅をもたらすという大きな希望を示すことである。
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ブッダの教えは、霊魂や神や死後の世界への信仰とは何の関係もなく
それらから解放された自由な心と考えによって
道徳的目標を知性豊かに実践する、
自己練磨と自制力によってもたらされる
自己の内的変革が、自分自身の苦からの救済を可能にさせるものである。
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大きな富を持つ人が
「仕事を愛し、事業の成功を願う仲間と働くこと生き方では
心の喜びを得ることはできないのだろうか?」とブッダに相談したところ
ブッダは
「八つの"正しい道"(八正道)を歩むものには誰でも心の平安と歓びはえられるのです。
しかし富に執着るものはそれによって毒されるより富を捨てたほうがよい。
富に執着がなければその富を正しく用い同胞のために尽くすが良い。
人をとりこにするのは生活や富や権力ではなくそれに対する執着である。
職人、上人、役人として世俗の生活を送ろうと、
世を捨て瞑想一途の生活に専心しようと、
それぞれの仕事に専念し勤勉に精一杯やることだ。
妬みや憎しみを抱かず人生を闘い利己的にならず真実の人生を送るならば、
間違いなく歓びと平安と祝福が心に宿るであろう」
そう答えた。
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ブッダが語った4つのこと
1) 世界は流転し変化する
2) 世界には保護者も守護者もいない
3) 我々は無所有であり、一切を後に残して行かねばならない
4) 世界は不足を感じ渇望し、欲望の虜となっている
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一切の事物は、さまざまな原因と条件の組み合わせによって造られており
それ自身の独立した本体というものは存在しない。
その原因と条件の組み合わせは常に変化している。
つまり人間は常に変化し常に生成する。
ある過去の時点の自分と、今の自分と、未来の自分は同一ではない。
全ての物事も現象も一時的であり、一瞬ごとに起こる変化が連続がしている。
だからこそ、「何者にも執着するな」というブッダの教えが重要である。
財産、友、全てから超然とすることを学べ。
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カルマ法則(道徳的秩序)
物質界には一定の秩序がある。
天体の運動と活動には一定の秩序があり、それによって季節は定期的に縁起する。
人間社会にも同様に道徳的秩序がある。
道徳的秩序が乱れるのは人間の悪業のせいであり、
良い秩序が生まれるのは善業によるものだ。
善業の良い結果によって幸いする人が生まれるように
それは夜の次に昼が来るように、
とある行為(= カルマ、"業"とも同義)がとある結果を引き起こす必然性である。
しかし、行為(カルマ)とそれによる結果(報い)が現れるまでには間がある。
また、結果に影響する力が弱い行為(カルマ)もあれば、
大きな結果をもたらす行為(カルマ)もある。
さらに、行為(カルマ)の結果は、その行為の当事者にはね返ってくるというわけでは
必ずしもない。
ある行為はその行為者以外の他者に影響を与えることが多々ある。
そして、人は生まれ死んでゆく。しかし世界の道徳的秩序は残っていく。
故に世代を超えて影響を及ぼしていくこともある。
この"道徳的秩序"が、ブッダの説く「カルマ法則」である。
※ (補足)カルマは日本語で"業(ごう)"とも呼ばれますが、
本来の意味は、良いも悪い関係なく、ただ"行為"という意味です。
手に持ったリンゴを手放せば、下に落ちる、といったような
何かの行いをすれば、それに応じた結果が生まれる。
という、"因果(原因と結果)"の関係です。
日本でも"因果応報"といって、
"自分が行った善き行為/悪しき行為は、善き結果/悪しき結果として返ってくる"
という言葉がありますが、その"結果"は、必ずしも行為をした本人だけではなく、
知らない遠方の人にも(知らず知らずに)影響を及ぼしてしまうことや、
何世代も過去の人の行為が今の自分の境遇に結果として影響しうる、
といった解釈です。
"業が深い"という表現は、たとえば殺人のように、
その行為を犯した当人だけではなく、犯人の家族や、被害者の家族、
その事件を眼にした人、そしてその全員の子孫など、
時間的にも物理的にも影響範囲が広いであろう"行為"の事を呼ぶ、という解釈です。
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因果説
ある現象を前にすると、人は常にそれがどうして起こり、
その原因が何かを知りたがる。
時に原因と結果が極めて接近していれば、その出来事の発生を説明することは難しくない。
でも、どうしてその現象が起きたのか、その原因からかけ離れすぎており
原因なしに事が起こるように見えることがある。
そんな時、人は”奇跡"など超自然的なものに原因を求めたがる。
ブッダは、そういった"迷信"を信じる行為を否定し、
あらゆる事象には原因があるだけでなく、
その原因は人間の行為や自然法則によるものだとした。
この本では、ブッダが超自然主義を否定した理由の1つは
「結果(現象)に対する原因への探究心を失わせることになるから」としている。
もし世界の創造者としての神のような存在がいるとしたら、
我々は何を望み、何を積極的に行う意味が生じるのか。
そして、なぜこの世はかくも不正にみちて苦しみが多いのか。
全ての被造物に祝福、悲しみ、善、悪、なんであれかなえてやれる全能者がいるとしたら
その存在は罪ではないか。
宗教の核心は、人間の神に対する関係にあるのではなく、
人間対人間の関係であり、宗教の目的は、
全てのものが幸せになれるよう人は他人にどう振る舞えば良いのかを教えることにある。
ブッダが宗教的儀式や祭礼に反対したのは、それが迷信の巣であり
"正しい見解"の妨げになると考えたからだ。
そのような信仰は礼拝や祈祷を効果づけ、
その効果づけは司祭僧を権威づけ、司祭僧こそが全ての迷信を作り出す元凶であり
そう、語られてます。
※補足
ブッダの時代は、さまざまな動物をたくさん生贄としてささげ
何かを祈祷し祈るバラモン(僧)が権威を振るっていた時代であり、
そのあり方を否定しようとした背景の理解があると、
この主張も理解しやすいのではと思います。
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ブッダは教育の重要さを強調したが、それよりも知識をどう活用するかを重視した。
したがって、ブッダは、知識のある者は徳性を磨かねばならず、
徳性のない教養は最も危険だと特に強調した。
教養は二の次であり、行いが第一である。
どのような、誰からの教えであれ、
経典にかかれているからとか、偉い人がいったことだからとか、
ことわりが巧みに説かれているからとかで
それを直ぐ受け入れず、それらの教えの内容が健康的か不健康か、
いけないことかいけなくないか、幸福か不幸かどちらかに導くことなのかを
十分考慮すべきである。
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心の善き性質こそ変わることなき善の不変の基礎であり保証なのだ。
それゆえ、心の鍛錬こそ第一義である。
第二は、たとえ一人であっても正しいものの側にたつ勇気をもつことである。
「あなたはこのように決意し、心の悪しき性質を取り除かねばならない。
他人が害を与えても自分は他人を害しない。
他人がより清らかな生活を送るまいとしても、自分はその道を歩む。
他人が貪欲でも、自分は貪らない。
他人が怒り、悪意、妬み、偽善、欺瞞、頑なさなどを抱いても自分はその反対であろう。
他人が一時的なものに固執ししがみつこうと自分はそのようなものに固執せず捨て去ろう。
行為や言葉はいうまでもなく意識の正しい状態を保つのに
最も有効なこころの開発なのだ。
それ故これらの決心を失わぬよう意思をきたえねばならないのだ。」
空中に絵を描いたり、河に放火などできるだろうか。
空中に絵の具を塗りつけたり、河に火で燃やしたりできないように、
悪しき情念をこころに残してはならない。
降りかかるすべての侮蔑と不正に耐え、相手に対しても慈愛を持ち続けなければならない。
思いやりや慈悲のこころをもつだけでは十分ではなく、
慈愛を実践せねばならない。
自分が良いことをされた時だけ相手に慈悲深くなるようでは真の慈悲ではなく、
悪く言われた時にも相手に慈悲のこころを抱いた行動をできるかが問題なのだ。
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不殺生について
ブッダは布施としてあたえられたものなら肉を食べることに反対しなかった。
僧侶は自ら手を下して動物を殺さない限り、与えられた肉を食べることを許すと考えていた。
一方で、祭礼の犠牲(いけにえ)として動物を殺すことを反対していた。
つまりブッダは、殺そうとする意思と、殺す必要とをはっきり区別している。
というのがこの本での解釈です。
※蛇足
自分も、自らは肉を所望しないものの、目の前に頂いた肉は、
「食物としてその生命に感謝を示す」として頂くようにしております。
考えてみると、なぜ動物を食べるのは殺生で、
植物(葉類/果実/穀物/豆類)を食べるのは殺生でないと言えるのだろうか。
どちらも同じ生命で、それらの生命を頂くことでしか我々は生きていけないというのに。
そんな考えです。
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仏教徒の生き方
善を行い、悪に加わらず、罪を犯すな。
これが仏教徒の生き方である。
善いことを行うべきなら何度でも行い、心をそのように向けさせよ。
善行の積み重ね、それが幸せというものである。
"それは私に訪れないであろう"といって善を軽んずるな。
渇望と欲情に囚われるな。
これが仏教徒の生き方である。
豊かさに取り巻かれても欲望は満たされることがない。
何ものにも執着するな。失うことは苦痛だ。
執着、情欲、貪欲から嘆きとおそれが生じ、
それから解放されたものには嘆きも恐れもない。
人を傷つけるな。悪意を抱くな。
怒りを抱かず敵意を忘れよ。
これが仏教徒の生き方である。
人は己れの心が造り上げる。善を追い求める心を培うことが、正しい道の第一歩だ。
悪しき事を語り行うなら、苦しみはその人につきまとう。
快楽を求める心は抑制し難く不安定である。
良く制御された心は幸せをもたらす。
賢い人は少しずつ時間をかけて己れの穢れを取り除く。
鉄から生じたサビが、サビを生じた鉄を腐蝕させるように、
犯した罪は人を悪しき道へ導く。
どのような穢れよりも大きな穢れがある。
無明こそ最大の穢れである。
※無明 - 自分は実は正しい見方に気づけてないにも関わらず、正しく見えていると勘違いして明かりの無い暗闇に囚われている状態。
恥を知らず、人を中傷し、侮辱し、図々しく堕落したものは生き易い。
しかし謙虚で、清らかなものを常に求め、執着を離れ、穏やかで穢れなく
明智を有する人は生き難い。
生き物を殺め、虚言を吐き、自分に与えられていないものを奪い、
他人の妻に言い寄り、酒におぼれるものは、
この世においてすら自ら墓穴を掘っている。
人よ、このように知れ。
慎みがないのは悪しき状態であり、貪りと邪悪が汝を長く苦しめることがないよう注意せよ。
他人のくれた食物や飲物に不平をいうものは昼も夜も心の安らぎがない。
人がこのような不満を根元から取り払うなら昼も夜も心の安らぎをうる。
人は他人の過ちをもみ殻のように吹き散らすが、
自分の過ちは隠したがる。
他人の過ちを探し求め常に腹をたてたがる人は、煩悩が増し、
煩悩の消滅からほど遠い。
一切の悪を慎み、善を培い、諸々の思いを清めよ。
人が自己を持つならば、自己抑制を学べ。
これが仏教徒の生き方である。
自己こそ自分の主である。
他の何人が主でありえようか。
自ら悪をなすなら自ら苦しむ。
自ら悪をなさないなら自ら浄められる。
浄まるのも浄まらないも自ら行うことであり、
誰も他人を浄められない。
快楽のみを追い求めたがり、
諸感覚が無統制で食事に節度がなく、
怠惰で意思が弱い人は、ひ弱な木が風に打ち倒されるように
自らの放縦さに打ち負かされるであろう。
もし人が自己を愛おしいと思うなら自分を良く守れ。
賢く、正しくあれ、そして良き友を選べ。
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以上、箇条書き的に並べておりますが、いかがでしょうか。
冒頭にお伝えしたように、仏教には実に様々な"解釈"と"表現"があると思っています。
というのも、2500年前にブッダが語ったとされる教えは、数百年ものあいだ
"口伝"を通して伝わり、死後1000年ほどに渡り、徐々に"経典"として残っていったので
はたして本当にブッダその本人が語った教えがどれかも誰も確定はできないからです。
が、だからこそ、仏教は国によっても時代によっても、さまざまな解釈につながった
懐の深さと幅の広がりがあるのだと感じております。
ここでご紹介したアンベードカル博士の解釈したブッダの教えも、様々な"解釈"の1つではあり、
日本で仏教を親しむ方には、共通した部分と、違和感を感じる部分もあるかもしれません。
でも、日本で発達した仏教も、日本のその当時の政治や価値観に大いに影響してきたことを考えると、
アンベードカル博士の時代のインドにおいてなりの"解釈と表現"があったのだろうと
理解しやすいのではと考えております。
全ては移り変化していくもので、何一つ"我"として固定した実体などない、というのは
仏教の根底にある考えだと思うので、だからこそ、
様々な"解釈"を否定せず、あるがままに感じ入る。
それが大切なのではと考えております。
長くなりましたが、お付き合い頂き、有難うございました。