103歳のLINE友達より頂いたもの

 103歳のLINE友達より頂いたもの - 龍光ブログ

僕の最年長の"LINE友達"は

福岡に住む"ますこおばあちゃん"です。



103歳。耳はすっかり遠くなりましたが、お元気です。

福岡に講演を頂いた脚で、今年もご挨拶に伺ってきました。


「今か今かと待っている"お迎え"が、マダ来ないのよ。

"お迎え"のかた、どこかで道に迷っているんじゃないかしら」


と、チャーミングな笑顔を見せつつ

いまでも毎晩ウィスキーを欠かさない。

会うだけで、幸せな気持ちとエネルギーを頂ける方です。


「これが最後になるかもしれないけど、また日本に来る度に

ここに寄って、挨拶にいらしてくださいね」

「お身体大事にしてくださいね」

別れ際にそう御言葉を頂き、

胸にこみ上げるものがありました。



そんな、ますこおばあちゃんの生まれは

1920年(大正9年)。


"1920年"を調べてみると、

第一次世界大戦の反省から、

史上初の国家連合となる"国際連盟"が誕生した年であり、

世界恐慌がはじまった年。


が、その世界恐慌により、

また世界は混乱を迎え、

結果、第二次世界大戦へと突入していくことになるのでした。


そして、その第二次世界大戦によって、

ますこおばあちゃんの旦那さまは、

左脚を失ったのでした。


まだ、ますこおばあちゃんと出会う前の旦那さまは、

第二次世界大戦により軍に徴兵され、

"史上最悪の作戦"と呼ばれるインパール作戦が行われ

19万人もの戦没者をうんだ

戦地ビルマ(現ミャンマー)に送られ、

そこで戦闘により左脚を失い、

命からがら日本へと帰ってきた。

そして、片脚の運命を背負ったからこそ、

その後、ますこおばあちゃんとの出逢いが生まれ

結婚に至ることになったそうです。


すでに、ますこおばあちゃんの旦那様は亡くなって久しく、

僕は直接お会いしたことはありません。


でも、ますこおばあちゃんとのご縁があったからこそ

これから、ここで紹介させて頂く

ますこおばあちゃんの旦那様の肉筆による

"戦争体験の手記"を読ませて頂くこととなり、

その強烈な印象があったからこそ、

僕は今年1月、"不要不急の渡航中止"とされる

内戦下のミャンマーに訪れる決断に至ったのです。


そして、そのミャンマー訪問は

今後の僕の人生に大きな方向性をもたらすものとなりつつあります。

※今年1月の訪問時の体験の一部は川の向こうへ をご覧くださいませ


ますこおばあちゃんと僕とのご縁は実に様々ですが、

長くなるので割愛させて頂き、

ここでは、そのますこおばあちゃんの旦那様

おじいちゃんの手記の共有をさせてくださいませ。
(おばあちゃんにも、お孫さんにも許可を頂いております)


僕自身にも、

そして縁がありここに訪れた方々にも

ただ、その事実を忘れぬよう、記憶が紡がれるよう、

祈りを込めての投稿となります。


下記、手記の写し(PDF)と共に、全文掲載させて頂きます。

ますこおばあちゃん旦那様 戦争体験の手記

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うらら かおり みちる けい るみる ゆうすけ へ

おじいちゃんより



昭和五十九年八月十五日の終戦記念日を前にして

うらら、かおりより

おじいちゃん達の戦争体験記を学校に出してくれとの先生の要望により、

他の人も出されると思い、

私も体験記の一部を激情の走るまま一夜、

うらら、かおりのかたり部として書いたのですが

穴田先生より感謝の言葉があり

六年うららの同級生より感想文をいただき

原稿のまま訂正せず書き写し

記念のため残します

泰生

うらら、かおりへ 昭和五十九年十一月



うらら かおり へ

おじいちゃんは戦争の話はあまりしたくないし、

今まで人にも話ししないんだ。

おじいちゃんは大正八年に唐津のおじいちゃんと、

この前死んだおばあちゃんの長男として生まれ大事に育てられた。

このころは大変平和で自動車や飛行機もほとんどなく、

博多の町にはチンチン電車が通っているだけで静かな町だった。


学校も小学校(六年)中学校(五年)高等学校(二年)

専門学校(三年)大学(三年)と勉強ばかりでなく、

運動も盛んで

進学ばかりでなく、のんびりと人がらを作れる時代で

文武両道といって、両方できるのが立派なことでした。


このころは教育勅語(明治天皇のおことば)というのがあって、

これをいつも学校で教えられていました。

この内容は

「日本の国は天皇の先祖が作り、代々の天皇が

よいまつりごとをして、やさしく国民をみちびき

永久に続いてゆく国であり、

そのためには国民全部が天皇に忠義をつくし、

親に孝行し、兄弟姉妹は仲良く、

友達とは仲良く信じ合い

弱い人は助けてやり、

よその国の人とは仲良く世界平和をめざし、

そのために努力し

又ひとたび国難が生じた時は

身命をなげうって国を守ることが必要であり、

そういう事が立派に行えるように、

ふだんからしっかり勉強し

強い身体をつくり立派な精神を作りなさい」

というようなことです。


むかしから日本の国は小さな海にかこまれた島国で

攻められた事も少なく、

天然の資源もあまりなく、

明治大正時代になって人口が多くなり、

自然とブラジル、ハワイ、満州、シナへと

働きに出かけたのです。


まだ小さいお前たちには歴史はむつかしいので言わないが、

満州シナにだんだん無理な事がでてきたのです。

日本は小さな国で人が多いだけですので、

原料を輸入し加工して輸出し利益をうけるという事が

日本の宿命です。

現在でも日本は戦争に負けてはだかになったが、

この方法で一生けんめい勉強し

新しい知恵で方法を考えて加工し輸出して

けいざい大国になったといわれています。


いづれにしても よその国へ出てゆき

だんだん力で利益をあげるような事が多くなると、

その国と仲がだんだん悪くなり、反対によその国から、

ひなんされ原料の輸入も出来なくなってきました。

平和産業にも また国防にも必要な

石油やガス等が入ってこなくなりました。


日本のいいたい事、外国の言いたい事

また日本のよい所悪い所、

外国のよい所悪い所いろいろあり、

話し合いがありましたが、だんだんけんかのようになり、

国と国との戦争になったのです。


おじいちゃんは学校を出て会社に入りましたが、

すぐに戦争が始まりました。

その時代は戦争が始まったら、

国民が皆兵隊になって国を守る規則になっていました。


国を守るという言葉は

言葉をかえていえば

親兄弟姉妹、先祖からの土地財産、

また現在の家庭生活を守るという事ですので、

皆戦争に行ったら死ぬかも判らないので、

こわいけれども戦争に行ったわけです。

どこの国でも同じです。


勝ったアメリカでもソ連でも

皆法律が行ったわけです。

今はイランやイラクでも同じく行われています。


ただおじいちゃん達は皆そういう教育をうけていたので、

みんなが死をかくごして兵隊になったのです。


昭和十七年二月(今から四十二年前)

兵隊の一番下の位の二等兵になり、

毎日きびしい訓練をされました。

2回の試験を通り士官学校に入り、

昭和十八年少尉になりビルマに部下をつれて戦争に行きました。

おじいちゃんが二十三才の時です。

高い山をこえ、川をこえて行きました。


十メートル先もみえないジャングルの中には象や虎がたくさんおり、

木の上には何十匹の猿が一杯むれをなして、

おじいちゃん達がゆくとキャアキャアとないて先へ先へと進みます。

また敵をまってじっとしていると

向こうからキャアキャアとないて進んできます。

おそろしいです。

猿がないている事は敵がきているしょうこです。


ジャングルの中の小枝がきれて

切り口から つゆ がでています。

おそろしいです。

たった今敵が通って小枝をきって道を作ったしょうこです。

そばで敵がひそんでいるかもしれません。


ジャングルの木には山ビルが一杯木の葉について、

くびすじや口や はな や また 洋服をとおして

シャツやサルマタの中まで入って血を吸います。

血をすって大きくなって出れずに

体温でむされて死んでいますが、

体中おきゅうのあとのように穴がほげてこびりついています。

おじいちゃんの洋服、シャツ、サルマタは

小さな黒いはんてんのあるシラミが何百、

何千匹もいます。

殺すひまもないし殺しても限りはありません。

なれてかゆくもありません。

むしろうちのリンリンと同じく家族の一員のようでかわゆいです。

おじいちゃんの顔は しょうき様の長い長い真黒なヒゲです。

一度も顔を洗った事もなく、

木の葉でおしりをぬぐい、

手も洗いません。

それが戦争です。


あの長いヒゲの写真をとってお前達にみせたかったと思います。

写真機なんてありません。


高い山(2,000m位)の上から下をみると、

ジャングルの中に、

ゆうきゅうの大河が帯のように流れ、

白い雲、ちいさな敵の飛行機がとんでいき、

きついのも忘れます。

今思うと夢のようで美しい景色がなつかしく思い出されます。


おじいちゃん達は毎日毎日戦争のうち合いでした。

ジャングル戦ですので、

歩兵といって一番前で五十メートル百メートル位のきょりで

敵とうち合い殺しあいです。

敵の顔も何辺もみました。


敵といっても同じ人間です。

平和な時なら友達になれるのに、

国と国との戦争では殺し合いになるのです。

おじいちゃんの部下も毎日毎日死んでゆきます。

敵も死んでいます。

国を守るため、

戦争に負けて敵が日本にきて

親兄弟子供が殺されないためにと思って

力の限り戦うのです。

死ぬという事はおそろしいのですが、

戦っている時はすべてを忘れてしまいます。

一種の気ちがいになっていると思います。

次から次へと兵隊は死にます。

おじいちゃんの部下も五百人位死にました。

死んでも埋めるのがせい一杯で

小指をきって、カンにいれて

おじいちゃんがもっていました。

とうとうおじいちゃんも

体に二十六発の迫げき砲弾をうけてたおれました。


中隊長がやられた。

皆心配しました。

その時兵隊は四人しか残っていませんでした。

夕方六時頃でした。

すぐ暗くなり、ジャングルは一歩も動けません。

おじいちゃんは死にかけて苦しかった。

息が出来なくなりハァハァいっていたのをおぼえています。

二十六発やられたけれど頭だけはどうもなく

気おくはしっかりしていました。

暗い静かなジャングルの中で死にそうになった時、

「死んではいかん、死んではいかん、

死んだら始めての便りで戦死の手紙が父や母の所へ行き、

お母さんが泣くだろう」と。

必死に努力しました。

戦争中には父や母へも手紙は出せません。

書いても出すとこがありません。


朝になりました。

敵に囲まれています。

ジャングルの戦争が始まります。

幸いのことに朝の静かなジャングルは、

しっけが多いので三十分位

一寸先もみえないモヤがたちます。

おじいちゃんは必死の気力で夜があけると

死神をおっぱらったのでしょう、

元気になりましたが動けません。


四人の部下はおじいちゃんをせおって、

モヤの中を脱出しました。

無事に二日位で、師団にたすけられました。

しかし、その時三十人位の部下はそこで戦死し、

死体はおきっぱなしでした。


自分は助かりました。

おじいちゃんの部下だった五百人位の人も

みんなおじいちゃんと同じく一生けんめい

国のため、家族のため努力した人達ばかりで、

よい人達ばかりで、

子供のお父さん達でした。

しかし皆死んでビルマの山の中にすてられています。

幸いおじいちゃんだけ足を切断し、

手を曲がらないようになったけど、

生きています。

どんなに足がいたんでも

皆死んでしまった事を考えると

すまない自分がよい目にあってと毎日思って

今日まで生きています。

お前たちと話をするももたのしいね。


おじいちゃんの足もビルマの山の中にあって

くさっているだろう。


戦争はこんなものです。

大学に行っていた若い学生さんも

皆そつ業を目の前にして、

飛行機にのって、魚雷にのって

特攻隊として敵の舟に、歩兵になって、

ばくだんをかかえ戦車に体当たりしました。


皆 国を思い、父母またお前達のお父さんお母さんの事を思い

敵が日本にきて亡ぼされないようにと

一生をかけて戦って死んだのです。


今日本が戦争をして負けたのですが、

戦後は戦争の事を悪くいいます。

軍人は罰人のようにいいます。


たしかに戦争する事は悪いし、

ひさんで二度とこんな悲しい事があってはいけません。

大東亜戦争の善悪は別として、

おじいちゃん達の時代の人は

国のため、天皇制のため、

ひいては家のため、家族のため

自分をぎせいにして戦ったのです。


おじいちゃんは戦争から帰って

いつも思っていました。

今度戦争が始まったら、

自分はくさりにつながれて第一線に立たされ

敵の前で鉄砲をうっても、

子供の代りに出て子供だけは出したくないと。


おじいちゃんも弟二人が一緒に兵隊にゆきました。

海軍の弟は戦病死して中尉になりました。

おじいちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんは

悲しかったろうと思います。


今からの戦争は原子ばくだんの時代です。

一発で兵隊ばかりでなく、女、子供、全国民が死にます。


おじいちゃんが東京の病院におる時、

東京はB29のばくげきで毎日何千人の

女子供を含めた人が死にました。

目の前で毎日みました。


二度と戦争はしてはいけません。

しかし敵から自分の国を守る努力は

いつもしていなければならないと思います。


悪い非行なわんぱく子供が

弱い子供をいじめる事があるように。

強い国が弱い国に無理な事をおしつけて

いじめる事があるかもしれません。


国連というものがありますが

仲々善悪を決定する力がありません。

早く強い国連で戦争のない

武器をつくらない時代にならないかなあと思っています。


うらら かおり へ

おじいちゃん


まだまだたくさんかきたいが

時間がないので一部を書いておきます。

大きくなったら わかるだろうと思って。

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大正八年七月九日生まれ 古藤泰生氏へ

この手記を残してくださったことへの感謝と共に

※一部、現代においては適切ではないとされる表現の言葉もありますが、

当時の時代背景を鑑み、そのまま利用させて頂くと共に、

一部の漢字は現代の漢字に置き換え、

読みやすいように多少の手を加えさせて頂いております。


以上が、ますこおばあちゃんの旦那様の手記です。

いまだ紛争が広がり、

世界の軍事費が過去最大となるニュースが流れる

現代を生きる自分として、とても切なくなります。

苦しくなります。


おじいちゃんの手記にあるような体験は日本中にも

世界中にも、

そして、いまこの瞬間も、

至る所にあるのかもしれません。

とても切なく悲しいですが。


そんな中できることが何があるかなど分かりませんが、

中村哲先生の

「平和には戦争以上の忍耐と努力が必要」

の言葉を心の灯火にして、

ただ小さきながら出来ることを積み重ねて生きたいと思っております。


そして、今年の4月に、再びミャンマー(旧ビルマ)に訪れます。

それも、おじいちゃんが一生けんめい生きのびて

ますこおばあちゃんと出会ったから。

ますこおばあちゃんが今もお元気で、

おじいちゃんの手記を共有してくれたから、

それに直接触れることができたから。

だから、僕とミャンマーの"縁"がうまれています。


そして、1月に初めてミャンマーを訪れた際に

現地で生まれた、新たな"縁"のおかげで

僕の中で、ちいさきささやかな"平和"への

あらたな道も生まれつつもあります。



人生というのは本当に不思議な縁の連続で、

けっして自分一人で生きているのではなく、

過去の様々な方々からの縁で生かしてもらえている。

そう強く感じている次第です。


紛争が絶えず、

いまだ同じ様な過ちを繰り返してしまっているようにも感じ

ときに絶望的にもなるかもしれません。

が、われわれ人類は、

たった数百年の短い時間軸のなかで

まだ平和と戦争の間を行ったり来たりの最中におり、

すこしずつ学びながらも、

平和への小さき灯りは紡がれ続けており、

一人ひとりの努力によって

少しずつ、未来へ灯は広がっていくのだ。

そう信じ、願い、祈っております。


この手記を目にした人に

また新たな縁が生まれ

その人の心に灯火がともり、

ますこおばあちゃんの旦那様の、

そして、過去の戦争で苦しんだ

もう戦争が起こらない未来を祈った

世界中の全ての人たちの

願い、祈り、が紡がれていきますよう。


長い投稿に

最後までお付き合いただき、大変有難うございました。

そして、ますこおばあちゃん、

その縁をくださった、かおりちゃん、

そしてその旦那さまの信ちゃん

有難う。


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