「悩み亡き人生は、無」 - 龍光ブログ


この投稿の内容は、自分で自身のくだらぬ葛藤に向き合い

いわば自分で自分を確かめたいだけの行為でしかありません。

このブログの趣旨である「誰かの役に立つ」ようなものでは無いかもしれません。

ですが、これを晒すことで、自分を客観視する機会にしたい「我欲」もある。

そんなモノはトイレにウンチと流せばよいのだが、

もしかしたら、この内容が何かお役にたつ方もいるかもしれない。

そんな期待も含めて書いてみようと思います。

くだらぬ独り善がりな内容が並ぶだけでしかありませんが

ご容赦くださいませ。

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オーストラリアに来て、入れ違いにネ申(妻)は日本に渡り

ポカーンと座る以外は、起きてから寝るまでずっと

本と向き合うだけの生活が続いております。

日本にいる時と違い、人様から会うご要件を頂く機会もほぼなく、

社会に、ほぼなーんにも役たつこともなく、

ただ一人息をして糞尿をするだけの

「何者でもない存在」という時間を有り難くも頂戴しております。

※X(twitter)やブログの更新がなく、ご心配を頂いた方々、お心遣いを有難うございます🙏。大変元気です🙏


"龍光ポスト"に頂くご相談へは毎日お戻しさせて頂いておりますが、

それ以外のネットには触らぬようにしており、

時にニュースが気になる時は、

「そのニュースに触れたところで、今のオマエは何の役に立つというのか。

世間の出来事にただ刺激を求めたいだけだろうが」

といなしたり、

何かの考えをXやブログで発信したくなる時は

「その発信で、誰の何に役に立つというのか。

オマエはまだ、何かを発信して他者からの承認を感じないと不安なのか」

とつっこんでみたり。


ヒトは死ぬときは一人でしかない。

長生きしてしまったら、おそらく孤独との対峙の時間がほとんどであろう。

たかだか1週間ほどの孤独に絶えられなくて、将来どうするというのか。

いやいや、それは未だ来ぬ未来のことではないか。今に向き合おう。

「でも以前よりは、孤独感の流しかたも上手になったかも?」

いやいや、それは油断の始まりだ。

そんなこんなの雑念もすべて流して、今ある自分や

今頂いているご相談に集中できないで、どうするか。


ポカーンと座りながら

そんな脳内議論を楽しむ、ささやかな心のトレーニングをさせて頂く日々です。



その間で、考えていた事を、自省を兼ねて記してみようと思います。



4月に滞在したミャンマーの僧院では、

ネットは完全にシャットアウトされており

1日中、ひたすら座り、自分や文字と向き合い、

ほぼ会話が無いながらも、同じく僧院で精進をするたくさんの僧侶や

みならい僧侶の方々と同じ時空を過ごすことで、

孤独は感じませんでした。

そこでは、大いに学びや気付きもあり、

とても心が洗われる(同時に、暑さと蚊に打ちのめされる弱さを思い知る)時間でした。

快適な気候のオーストラリアで、孤独の中過ごしていると、

「暑い僧院での生活に、もっとどっぷり浸かってしまい」と感じる自分も生まれます。


でも、それは「一人善し」という時間であり、

それだけでは誰かの役にたてるわけではないのでは。

もちろん「仏法を紡ぐ」という小さき小さき一助にはなれるでもあろうが、

自分が生きたい生き方は、これまで頂いた恩を縁ある誰かに巡らせること。

けっして、一人善しな生き方ではない。


オーストラリアでの生活でも、「一人善し」の時間が多くなる。

それにより、学びも得られるのだから、今後どなたかの役に立てるよう

活かせる学びとすれば、それでよい。

…でも、本当だろうか。

「独り善がりの過ごし方ではなく、厳しい僧院で時間を過ごす方がよいのでは」

という気持ちも膨らむ。


自分が根っこで欲っしているのは、なんだろうか。考えてみる。


もしかしたら、自分は「厳しい環境での体験を得たい」以上に

「厳しい僧院で、修行しました」といった "ラベル"を求めようとしているだけでは。


自分は、たまたま佐々井上人の元で旅行先のインドで得度し、

衣や名前は頂いたとはいえ、

(日本以外の仏教で認められてない)「妻帯」をしたままであり、

「僧侶」でも、その見習いでも、何でもない。


ただ"得度"という儀式をさせて頂いた、

ままごとのような独学しかしていない

何者でもない身。


一時は、佐々井上人のアドバイスの元、

(妻帯を許されている)日本のお寺で道場にいれさせて頂くべく

様々なお寺を参らせて頂いたり、僧侶の方ともご相談させて頂きました。

今後その選択もあるだろうし、

そうすることで新たな価値ある学びや体験もあるでしょう。


でも、それは「何者でもない」という不安を埋めるために

ただ「僧侶」という"ラベル"を得て安心が欲しいだけではないだろうか。


道場に入ることで

より「学べて、自己を磨ける」環境は確かにあるだろうけれど、

学びも"精進"も、どこまでいけば「合格」というモノではなく、キリはない。

大切なのは、日々の中で精進を重ねること。

手に入る環境の中で、死ぬまで積み重ねていけば良いのでは。

それは、僧院に入らずとも、日常生活でも、できるはずでは。


なにより、自分の生き方は、これまで頂いた恩を、

ただ縁ある方に(求められれば)巡らせていくことだったハズ。

そうだ、その「本来の目的」を再確認せねば。


「〜の僧院での修行」を終えないと、

人様のお役にたつだけの学びや心は得られないというのだろうか。

「僧侶」という名がつかないと、人様の役にたつ資格がないというのだろうか。

役に立つと仰って頂く方がいらっしゃり、

「有難う」と言って頂ける方がいるのなら、

その方々に、今できることをしていくだけでも良いのではないか。



ミャンマーのような僧院での生活は

これまでの体験では得られない学びがたくさんあったのも事実。

何事も、体験してみねば、分からぬ事もある。

今後も、可能な範囲で、縁が生まれれば僧院での学びの機会を作っていけば良い。

「ラベル」を求めることを目的へと惑わされるな。

自己鍛錬は、どこにいたって、毎日できるはずだ。

そうして、より難しい状況でも人様のお役にたてるような心へと、精進を続ければよい。

このまま「何者でもない」身でも良いのだ。

あわてない、あわてない。

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そして、この1週間は、自分なりの原点回帰で、

ひたすらブッダの教え(初期仏教)を見つめ直す時間としておりました。

何度読んでも、新しい発見があり、

いかに「分かったつもり」になっていた自分がいたのか。と。

当たり前じゃないか。オマエなどまだ、何も分かってないのだ、と。


そして、その"教え"をまだロクに理解もできてない自分では、

いま満たされずに、苦しい渦中の人の前では、無力である。

自分のことすらままならないのに、なぜ他人をどうこうできると思うのか。

ブッダの言葉は、その通りじゃないか。

そもそも、人様のお役にたとうという考え自体が勘違いで傲慢でしかない。

ただ浅ましい奢りでしかないではないか。


究極的には自分には"救いになる何か"など提供できる立場ではなく

ただ本人が自らを"救いあげる"キッカケ"にしかなれない。

しかも、時に全く役にたたない、頼りない"キッカケ"でしかない。


…だけど、それだけでも、いいではないか。

今回の1週間の日本滞在でも、

過去、龍光ポストでご相談をのらせて頂いた方などから

「大変救われました」と涙を流して頂く方もお越し頂く機会もあり、

大変、有り難く、むしろこちらが救われる気持ちになった。

泣きたくなるほど、ありがたかった。

本当に、有難うございます。



その程度の自分でも、いま何か役割になれるなら、

喜んでさせて頂ければいいではないか。

「僧侶」や「修行を積んだ」といったラベルなどなく、

独学で学んで自己満足な生活をしているだけの自分でも、

役立つと仰って頂く方がいらっしゃる限りは、尽くさせて頂けば良いではないか。

まだまだ足りない学びや精進は、あわてずに積んでいけばいいではないか。

朝の散歩の、ささやかなゴミ拾いだって、時に役に立てるのだ。


そして、自分の心が、ある程度満たされているという"エネルギー"があるからこそ

時に心の余裕がない方に対して、微力ながら"エネルギー"をお伝えすることができるもの。

まだ僅かな体験ながら、それを実感してきているじゃないか。

熱は温かいところから冷えたところに移るもの。

心のエネルギーも、より"満たされた"人からこそ、

"満たされず苦しむ"人に伝えうるものではないか。

だからこそ、自身を修練して、

心のエネルギーを保ち続けるトレーニングに意味が生まれるのではないか。



……でも、本当にそれだけで十分なのだろうか…。



時に頂く

「金欲で金儲けしてスゴイっていわれて、次は名誉欲でメディア出てスゴイって言われたいだけ」

「"何者でもない"と言いつつ、人に説法をしていい気分になりたいだけ」

「それっぽい格好をして、それっぽい事を言って、認められたいだけ」

という有難いご指摘は、まさにその通りなのだろうなと想い

戒めともなり、ご指摘に感謝しております。

たしかに自分は、ある程度快適な環境からモノを発しているだけでしかなく、

苦しんでいる方のその現場にずっと居るわけでもない。


自分は、佐々井上人のような

「傷まみれ、泥まみれ、くそまみれになって、民衆とともに生きたんだ。

体を壊して、くそだらけ。垂れ流しだ。小便だらけだ。

長く生きた人はみな、くそだらけ、小便だらけになって死にますよ。」

そんな生き方とは程遠い。


たまに、ミャンマーの難民キャンプにいったり、

新宿で野宿してみたところで、結局は帰る場所があり、

頼まなくてもご飯を用意してくれるネ申がいる(捨てられなければだけど)。

食事も1日1.5食のみとし、水道も電気も可能な限り節制して生きているけれど、

それでも、自由に使わせて頂けている環境がある。

ネットだって自由に使わせて頂けている。

いくら自分なりに自分を律した生活をしても、所詮は「自己満足」でしかない。

やはり自分は、安全な高所から人様にアドバイスすることで

承認欲求を満たしたいだけの自分なのではないか。

そんなものは、偽善でしかないのでは…。


じゃあ、今直ぐ家を捨てて、

文字通り一文無しになって、泥まみれクソまみれの生活をすべきだろうか。

でも、そんな生活をすることが目的ではないハズだ。


ブッダも苦行を否定している。

より厳しい環境だからエラいわけではないし、

それは「もっと」のキリなき我欲とも言える。

無理に自分を厳しい状況に落とさずとも、

今の自分が、エネルギーを保ちやすい環境を頂けている恩を、

有り難く感謝を忘れずに受取り、

その恩を、縁あるどなたかに巡らせていけばいいじゃないか。


そんな風に、脳内会議がグルグル巡る中、ふと佐々井上人の本を読み返し出会った言葉…。


「人間というのは、なまじ経験や知識が増えると、余計な"飾り"まで増えてしまって、

身動きがとれなくなる」

ぐさりと胸に刺さる。


そいういや、佐々井上人からも直接

「本ばっかり読んでないで、バカになれ!」と叱られたっけ。


最近の自分は、「学びや精進の足りて無さ」を、本での知識ばかり詰め込んで

安心を得ようとしてはいないだろうか。

自分で「知識だけでは、人を救えない」と言いながら、

「人の役に立ててない」焦りを埋めようと、知識に頼っていたのでは…。


あわてるな。「人様の役にたとう」と焦るから惑うのだ。

そもそも、何者でもないオマエなど、頼られる存在などではないのだ。

本当に「役に立った」と言ってもらえる何かをした積み重ねの上に、

頼られる自分が生まれていくのだ。

奢るな。あわてるな。バカになれ。

…。

そうだ、オーストラリアに着いてから、まだ佐々井上人にお電話をさせて頂けてない。

お電話をさせていただこう…。


プルルル…


龍光「もしもし、バンテージ(佐々井上人の呼び名)、龍光です!お元気ですか?」

上人「おぉ、龍光か!元気にやっとるか。」

龍光「有難うございます。お陰様で元気です。バンテージもお元気ですか?」

上人「まぁ、なんとかやっているよ。タイにはもう行ったのか?」

龍光「タイは、8月にお呼び頂いております。また、僧院にも入らせて頂けそうです。有難い限りです。」

上人「そうか。オマエは本当に恵まれているな。オマエなりのやり方で仏法を世界に広げていけ!」

龍光「有難うございます(涙)」


…。

いつもながら、お電話一つで、どれだけのエネルギーを頂けるのだろうか。

本当に、有難い…。その恩を、あせらず、一歩ずつ踏み出し、巡らせていかねば。…。


そうして、また佐々井上人の本を引っ張り出し、読み直す。


必生(ひっせい) - 闘う仏教」より…。


「人間は苦悩のどん底にいるとき、一秒でも早くこの闇から抜け出したいと思うばかりで、

そこに意味を見いだすことなど、なかなかできません。」


「悩むからこそ人生の山から山、谷から谷を肥えて、前進していくことができる。

生きることすなわち修行」

「みんな苦しんで生きている。人生とは、自己との闘いです。

他人がどう評価するかは、二の次。

もちろん、張り詰めた糸は切れやすいものですから、

たまには休憩も必要だとは思います。

ですが、自分の苦悩から目を逸らすことなく、逃げずに、大いに悪戦苦闘し、

修行を深めていくことです。

苦悩を離れて人生無し。悩み亡き人生は、無、なのです。」


そうか。それで良いのだ。


自分は佐々井上人のように、「くそだらけ」の生活に入ることで

そこで苦しむ方々の苦しみに向き合うという選択までは、今すぐできないかもしれない。


でも、より苦しい環境に身を置くこと自体が目的なのではない。

それは、学びの手段でしかない。

いま、何かに苦しんでいる方がいて、

何者でもない自分ごときとはいえ、お役に立つと言って頂けるならば、

全身全霊でお応えしていけばよいではないか。

佐々井秀嶺が、なんども背中でその姿を見せてくださっていたように。

それが、

「本来の仏教と違う」だとか

「ただの社会運動だ」とか

散々な批判を55年以上も受けながら、

佐々井上人は、ただ目の前の苦しむ人と向き合い続けてきているじゃないか。

そして、それを感謝し、幸せそうな数多くの方々を、この目で観てきているじゃないか。

それで、いいのだ。


「何者でもない」という不安定で、寄る辺がない状態など、

「クソまみれ」にもならぬ、かわいいモノじゃないか。


ここ1週間ほどネットから離れていたのは、

時に自分が「何かの寄る辺」を自分以外に求めそうになってないか

その「囚われ」を確認するよい機会とさせて頂いておりました。

たった1週間ほどですが。

少しでも、「囚われ」を感じると、

またXも閉鎖し、

ブログやYouTubdeの収録も全て辞めてしまおうか、という気持ちも生まれる。

そんなものがあるから、頼ろうとしてしまうのだ、と。


でも、発信を期待してくださっている方が、(今のところ)居て頂けている。

人様のお役にたてる機会がそこにあるのなら、活用させて頂ければよい。

「ネットに依存せぬよう、ネットを捨てるべき」のも「我欲」とも言える。


ネットに依存しすぎず、離れすぎず、

ほどよい付き合い方をしていけばよいではないか。

そうした強い心を育てていけばいいのだ。

そうして、自分のできる役割を信じて、進んでいこう。


ということで、また発信を続けさせてくださいませ。


長々と、独り善がりの脳内劇場にお付き合いくださり、

有難うございました。



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