「いま、自分の人生を生きる」という事 - 龍光ブログ


なぜヒトは、悩み、苦しむのか。

それを起こさせる、「意識」というものは何なのか。


このところ"意識"というものの勉強に時間を費やしております

※ご興味ある方がいましたら、その片鱗の表面の一部を薄っぺらにまとめた下記ブログをご覧くださいませ 「"わたし"という意識」について - 脳科学と仏教の視点より


「"意識"が何か」という問いにすら、しっかりした答えがない状況なので

ソレを学ぶ事に何の意味があるのか、

という自問自答をしながらの学びです(ややこしい😅)。


でも、

個人的には、大いに「実践の生活において得るもの」があると感じております。

今日は、自分なりのペラッペラな学びの中からの、一つの解釈を。

それは

「自分の人生を生きる」という事のは、「努力を重ねる生き方」なのでは

というお話です。


自分がいま自覚している「今ある、自分、その姿、その行動」は

過去(数ミリ秒など)の自分の脳内で"無自覚(無意識)"に整理され用意されたものである。

というのが、最新の脳科学などの研究による知見です。


信じがたいかもしれませんが、

今、感じている「自分の意識」は、自分の脳が過去に生み出した

既にお膳立てされて用意済みのイメージ/感覚/内容である。

それが、川の流れのように、今この瞬間も刻々と生み出され続け

自分の「意識」に流され続けている。


ややこしいですよね😅。


今、この瞬間は、過去の自分(の脳)が用意した世界観の中で生きている。

ちょっと過激な言い方をすると

「自分は、今、自分の人生を生きているツモリになっているけれど、

現実には、過去の自分の脳が無意識に生み出した"今"を見続けて生きている」

のかもしれない。

それは、「いま、自分の人生を生きている」とは言えないかもしれない。

過去の無意識の自分が用意したレールの上を

走らされて「生かされている」のかもしれない。


それでも、生きられます。ってか、生きてます。大丈夫です。


でも、その「無意識に生み出され続ける自分の意識」に流されるだけで、本当に良いのか。

それは、往々において、イヌや猫のように、本能の赴くままに流される生き方に近いかもしれない。

それでも、生きられるのではあるけれど。

自動運転で、運転席で居眠りしつつマンガ読んでる間にも、無意識の脳は自分の人生を

進めてくれている。

それはそれで、楽ちんそうな生き方かも。

でも、その自動運転の行きつく先の終着点は、

いずれにせよ「死」という場に向かっているのだけれども。


それは、自分の人生を生きている、と言えるのだろうか。

本能の自分に運転をまかせて、本能のままに流されて生きている自分とも言えるのでは。


繰り返しですが、それでも生きられます。生きている。大丈夫。

そして、流されるのが悪い生き方とも思わない。


でも、もしそんな生き方が違う、と感じる方がいるのなら。

違和感があるのなら。

自分で自分の人生をしっかり生きたい(生きれるのかも)、と感じるならば。


どうするか。


それは

いまこの瞬間の自分へと、意識を集中させていく、努力をする。

という事が必要なのでは。と、勝手ながら考えております。


今、なぜこの行動を自分はしているのか?その意味は何なのか?

今、なぜこのような考えを自分は持っているのか?それは正しい考えなのか?

そう、自身に問い続ける努力をしなければ、

無意識の脳が過去にお膳立てをしたママの、時間が流れていくのではないだろうか。


ダラダラと動画やニュースを見てしまったり

ボリボリとお菓子に手を伸ばしてしまったり

ぬくぬくと心地よいお布団の中でとどまっていたり

それも悪くない。

でも、そのままでは、何か違うと感じるのなら。


はたして、今の自分の行動は、どうなっているのか。

時に、鏡に写った自分を見るように

いまの自分の姿を、第三者の目線で観察するように見つめ直してみる。

自分の先祖が空の上から、自分の人生を眺めているようなキモチで自分の今の状況を観察してみる。
(幽体離脱した自身が天井から自分を見つめるイメージでもよいですが)

こういった「努力」をしていくと

時に無意識にお膳立てされた自分の行動、感情、思念などに流され続ける"川"から

自身の力で這い上がって、「流れに流され続けるだけではない、自身の『ありたい』行動、感情、思念」へと近づいていけるのでは。


その状態で感じている「意識」すらも、過去の自身の脳が作り出したイメージかもしれないけれど、

少なくとも、なすがままに"意識の流れ"に「流され続けている」状態からは

自分の足裏で地面を掴んで立ち上がる場所にはいけるのではないか。

それが、流され続けるのではなく

(わずかながらでも)「自分の(生きたい意思の)人生を生きる」事につながるのでは。


どんな時でも、自身の行動に意識を向けることはできる。

呼吸をする時、顔を洗う時、

トイレで💩をする時、ご飯を口に運ぶとき、

誰かに会った時、挨拶する時、どんな表情でどんな挨拶をするか、

何を発するか、どんな行動をするか、いま感じる感情にどう対処するか…。

(まぁ、現実では、そこまで細かく自分に意識などできませんし、

「自分に意識を向けなきゃ」も囚われになるので、

ちょっちストイックなイメージとして捉えくださいませ)

それは、ちょっとの「努力」が必要な行為。


でも、日常で、無理ない程度に、自身の行動、感情、思念に対し

「どういう自分がいまそこにあるのか」を自己観察(「内観」とも言いますが)する機会を

少し増やすだけで、実は自分の生き方は磨かれうるし

自分の臨む姿に近づけるし

それは、自分で自分の人生を生きているという生存実感を感じる

満たされた時間につながるのでは。


そんな風に感じております。

意識は、川の流れのように、次から次へと流れる刹那の連続でしかない。

立ち上がろうとしなければ、流され続けるものである。

流され続けている時は、心地が良い。努力が少ないから。

でも、かならず、最後に終わりが来る。

壁に当たるのか、滝に落ちるのか、干からびるのか、わからないけれど。

つまり、意識の流れが終わる時がくる。「死」と呼ばれる時が。


流されるのも、悪くないし、なんだかんだ言いながら

流され続けるのが「生物としての仕組み」かもしれないけれど

可能な範囲で、その流れに乗りたいではないか。

流れの上に(サーフィンのように。やったことないけど)立ちたいではないか。

そうすれば、時にブレーキをかけたり、岩に当たらないように避けたりも

できるかもしれない。

それは「流されて生きる」のではなく、「いま、自分の人生をいきる」ことなのかも。

そのために、小さき、努力を積み重ねてみる。

ときに流れに委ねることもしながら。


そんなイメージでしょうか。

「意識」について言語化するのは、難しいですね。

自分の眼の網膜の状態を、自分の眼で観てください、

って言っているようなモノかもしれません。


何か、ヒントとなる言葉があれば、

有難いことです。


今日も、ワケのわからぬ戯言にお付き合いくださり

有難うございます。


※この考え方は

日常生活で実践できる"努力"としての「早起き、散歩、挨拶、掃除」に生かしたり

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