「流される生き方」から抜け出すには by ブッダ - 龍光ブログ


少し調べ物するだけのつもりが、ニュースサイトやSNSで時間潰してしまっていた…。

ついつい、お菓子に手を伸ばしボリボリ食べ続けてしまっていた…。

この後やるべき事に気をとられ続けて、仕事や勉強が手につかない…。


「はいっ!思いつく人は手ぇ上げて!!」

( 自分も  \(^o^)/ ハイハ〜イ!! )


 我々は、自分の「意のまま」に生きているようで

実は、目の前の様々な刺激に「突き動かされて」流されて生きがちである。

その状況から「どうやって抜け出し、自由な生き方を手に入れるか」(by ブッダ)。

というのが、このブログのお話です。


ネット情報の洪水の中にいると、

次々と我々に飛び込んでくるメッセージやニュースや通知やらで

常に「忙しい」状態になりがち。

そういう状態は、心地よく感じるもので、

さらに「もっと」刺激を求めて、

マルチタスクでネットサーフィンしたり、寝る間を惜しむ生活になったり。

でも、そんな状況は長くは続かず、心は疲れてしまい苦しくなる…。

(前世の自分です…)


でも、それは

自分の生きたい人生を、本当に生きていると言えるのだろうか?

外部に流されて生きてしまっているだけなのでは?

自由に生きてるつもりで、実は縛られて流されて生きているのでは?


まるで映画「マトリックス」のように、

刺激にあふれ心地よく見えている日常は、

実は、心地よいものだけに目が向けられている世界では?

本当の現実から目を背けており、

背けている事実すら気が付かなくなっているのでは?

にも関わらず、心地よい見える日々にだけ目を向け

生きようとしているのでは?


このブログは、そのように感じる方に向けてのブログです。
(違うな、という方は、そっ閉じくださいませ🙏)


さて、ブッダ先生おっしゃるに(意訳)、

それは、

『物事が見えているつもりで、実は暗闇のなかで彷徨っているよう』


『ものごとは因果法則により起きる「瞬間」の連続として流れゆく』

なので、

『今経験している"こころ"が、次の「瞬間」の"こころ"を生み出していく』


つまり、今、目の前の刺激にポカーンと自身を委ね楽しんでいると、

"ポカーン"な生き方が明日以降もダラダラ続いてしまうかもしれない。

それはなんだか、悪くなさそうな未来に聞こえるのは錯覚であろう。

なぜなら、ヒトは同じ刺激にも慣れて飽きていくもの。

すると、退屈が苦痛になって、

もっと楽しそうな"刺激"を求め、苦しみさまよい続けてしまう。

その間も、我々は着々と老いと死に向かって事実に気が付かずに。


…なんだか、くらーい始まりになってしまったらゴメンなさい😅。


なんだか、とてもイケてない姿として表現してしまっておりますが、

心地よい刺激に身を委ねてポカーンとし続けたくなるのは、

だれしも強く持つ、ヒトの本能の欲求でもあると思っています。


ですが、もし、違和感を感じて「変えたい」と願うなら、どうするか。

どうすればそこから抜け出せるのか。


ブッダ先生の答えは、ズッコけるくらいシンプルでして、

「智慧」を磨き「精進」(努力)せよ

と説いています。
(厳密には他にもありますが、ここでは重要な2つに絞って…)


まず、我々が感じている「自分」の存在は「錯覚」である事に気づきなさいと、

彼は説きます。


我々が感じる「意識」というものは、

五官(眼、耳、鼻、舌、身)から、それぞれ途切れることなく入ってくる刺激と、

心から途切れることなく湧き起こる情念という刺激と、

計6種類の刺激に「次々と意識が引っ張り回され続けている状態」

という事実を自覚しなさい。と。
(瞑想など、自身の内部に意識を向け自身を観察すると、それに気が付きやすい)

それに正しく気がつけている状態が、「智慧」ある状態だと。


そして、次々と途切れなく入る情報に都度、

次々と意識がもっていかれ反応してしまわぬよう、

意識を集中し、それら刺激は「ただの情報」

「心地よさをキリなく欲しがり続けているだけ」として観察し受け流し、

一旦、自分の意識の束を、自分の手に取り戻しなさい、と。


そうしなければ、様々な刺激の中から

「心地よさ」を感じる刺激ばかりに意識が次々と飛び回り続けてしまう。

今の「心地よくありたい」瞬間の心が、次も「そう有り続けたい」心を

因果により生み出していくのだから。

それが連続していくのだから、どこかで止めなければならない。


でも、「心地よく有り続けたい」のは、

一体何が悪いのだろうか。

「心地よく有り続けたい」心が続いていくと

常に「心地よさ」ばかりに満たされたい心が育っていく。

それは、時に「心地よさ」が乱される状況に

敏感に反応してしまうことにもなり、怒りが生じやすくなる。

時に「心地よさ」が途切れたり薄まりそうな状況に

敏感に反応してしまうことにもなり、不安にさいなまれやすくなる。

なにより、今の「心地よさ」に慣れて飽きて

「もっと!」と我がままになり、ときに周囲を損ねていく。

そして、「もっと」とハマっていくことに気が付かず、

自分がコントロールしにくい状態となる(中毒的になる)。

そんな状態の連続の先は、

はたして、心おだやかな未来と言えるのだろうか。

今は「心地よさ」があるとしても…。


だから、その状況から抜け出しなさい、と。

その状況の先は「心地よさ」が永遠に続く未来ではない。と。

かえって、苦しむ未来に繋がってしまうのだ、と。


そして、そこから抜け出したいなら、「精進(努力)」しなさい、と。

一時の「心地よい刺激」ばかりに囚われずに、

自身の意識を取り戻すべく、集中力を鍛える「精進(努力)」をしなさい。と。

つい「心地よい」方向ばかりへ流されがちな自身を客観視するスキルを訓練を

日々、精進しなさい、と。


物事の本質を見極める「智慧」を持てるよう、

「その情報に反応する意味は、あるのだろうか」とか

「それにすぐ反応することにより、どのような結果が生まれるだろうか」とか

考える癖を身につける。

そして、なにより、刺激に流される前に「考える」一泊を作れるよう、

自身の心を鍛えるべく、精進する。

智慧も精進も、どちらも訓練により、誰でもうまくなれるが、

訓練しないといつまでも育ちにくい。と。


それは、日常でも、いつでもできる小さな「精進」の積み重ねから訓練していける。

「心地よさ」ばかりに流されない自分を、少しずつ意識できるよう、

訓練していけば良いのだ。


それは、ささやかな、小さな精進(努力)だっていい。


ちょっと苦手だけど30分早起きするようしてみたり、

1駅くらいは歩くようにして、歩く機会を増やしてみたり、

エスカレーターより階段を使うよう、自分に課してみたり、

めんどくさく感じる時でも、元気な挨拶を心がけてみたり、

ついつい食べ過ぎそうになる自分に気づき、自分をとどめてみたり、

日常の、実に小さき「ラクしがちな自分にちょっちケツを叩いて頑張らせて」みることで

心は磨かれ、強くなっていく。


その努力の内容は、他人と比べなくたってよく、

自分なりの「ラクちんの、ちょっちセーブ」だけでも、十分。

小さき精進(努力)の積み重ねの先に、強い心は育っていく。


そうして、次々湧き起こる刺激に流されてばかりでない、

「自分の意思で自分の人生を生きている」実感に喜びを感じる自分へと

自身の生き方を変えていける。

今日が、最期の日だったとしても、悔いなき毎日を重ねられる生き方へと

向かっていける。


大丈夫。どんなマッチョだって、生まれた時は貧弱だったハズ。

地道な努力の末に、マッチョになれたハズ。

心も筋肉同様、地道でも、鍛え続ければ必ず育っていくもの。


でも、それって、大変そう…。自分、続けていける…?

大丈夫。だって、ブッダだって、

ときに怒っちゃったりする時だってあったのです。
(経典にも、そんなシーンあります)

誰だって、「人間だもの」。

時に流されつつ、たまに精進を重ねつつ、

少しずつ鍛えていけば良いじゃないか。と。


とはいえ、ずーっとサボりつづけたら、

育たないどころか、退化が進むのも事実。

そして、明日は今日の連続でしかない。

「だったら、いつやる? 今でしょ!」と。


…あ、すみません。途中から、出しゃばって、

ブッダだけじゃなく、自分や、いろんなヒトの言葉が出てしまっていたかもしれません…。

精進不足です…😅。


ですが、趣旨は概ね、ブッダ先生のおっしゃる内容です。


ブッダブッダと言っておりますが、

僕もブッダ先生に会ったことはないですし、

「有名人(?)だから、彼の言うことが正しい」というつもりはありません。


が、彼の教えにより、生き方を大きく変えて頂けた一人として、

感謝と敬意を込めて、勝手ながら自分なりの意訳しお伝えさせて頂きました。


ということで、今日もお付き合いくださり、有難うございます。


では今日も、それぞれ精進、

あ、いや、「ラクちん、ちょっちセーブ」

重ねていきましょう🙏


※もし瞑想にご興味ある方は、

少し古ぼけ始めてはおりますが、小生の

「瞑想について」のブログをご笑覧くださいませ。






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