意識の仕組みから学ぶおだやかな心とは(超ダイジェスト) - 龍光ブログ

 昨日公開させて頂いた「脳と意識の進化から学ぶ、おだやかな心とは」の資料

「長い!」「文字が小さい!」

とのことで、やはり頭でっかちに盛り込みすぎたと反省し

超ダイジェスト版を用意してみました。

(約70枚のスライドを3枚に😅)


脳は、各部位で様々な情報処理を並列に行っているそうです。

五官(目、鼻など)からの情報、体内(心拍、腹の調子など)からの情報…。
その把握、解釈、など。

これらは、同時多発的に並列に起きており、互いに影響もしあい、状況も刻々と変化し続けている。

その状態の全てを観察し、把握するには整理もされておらず、情報量が多すぎて、そのままでは理解ができません。

多人数の飲み会で、全ての席で起きている会話を理解しようとするようなイメージでしょうか。






脳の各部位が行った「解釈」や「意見」は、互いに影響をあたえながら、主張しあっているような状況のようです。

多人数の飲み会での、局所的な会話や、言い合いや、黙ってる人もいれば、離れた席どうしの掛け合いもあれば…が常にガヤガヤしているといったイメージでしょうか。

この状態は、まとまりが無いので、理解できません。
生き物としては、それでは、生き延びられません。
外界で何が起きているのか、自分の身体がどういう状況なのかを正しく把握し、対応しなければいけませんので。

なので、脳は、これらのバラバラに処理され生まれる「主張」を「選別し、理解できる一つの繋がったストーリーとしてまとめる」プロセスをしているそうです。
ですが、このプロセスは、我々には自覚できない(無意識)で行われている。

我々が自覚し体験している"意識"は、この無意識のプロセスでまとまった後の「ストーリー」を「自分で感じた/思ったこと」として知覚する体験である。

ここが、なかなか掴みにくいポイントと思いますが…。

イメージとしては、
多人数の飲み会の状況を、要約したものを見聞きしている。各所のバラバラな会話の集まりを、うまく辻褄をあわせて、一連のストーリーかのよう要約したものを「見て聞いている」。その「見聞き」してると"感じている"体験が、"意識"と呼ぶ体験。

要約の編集作業は、断片的な意味不明な会話や場面の情報にあふれていて、仮に見えても理解できる内容ではない。だから、理解できるように、各情報をうまく拾い集めてしまおう。これが無意識で起きている「要約のプロセス」。

そんな感じでしょうか。

自分が意識できてないプロセスがある事に違和感を感じる方は、今この瞬間も、心臓や腸や免疫システムなど、実に様々な「無意識で処理されているプロセス」にあふれているかを思い出してみるとよいかもしれません。呼吸も、その一つですね。

ここで、大切なポイントは、
自分が「こうだ」と思い、感じている"意識"は、「理解しやすいように、自分なりのつじつまをつけられた状態の解釈」であるという点です。

もっというと"意識"として現れている内容は、「自分にとって都合よく感じる解釈になっている」ものである。

「自分が見たい世界だけを見ている(見たくないモノの存在は無意識に流しながら)」。


つまり、そこには、事実と違う誤解や錯覚も多分に含まれている可能性があり、
また、その「解釈」意外の解釈も、自分の脳内にあった可能性があるということです。

どれだけ「自分は絶対にこうとしか感じられない」という"意識"でも、
それは「そう解釈する方が、過去の経験や知識的に、整合性がとりやすい」という無意識のプロセスが「そう感じさせている」という事です。


そして、もう一つ大切なことは、我々は、自分の”意識"に流されうる。ということです。
"意識"は、無意識なプロセスを経て「次々と(勝手に)流れてくる」のです。

いま「正しい」と信じてやっている行動や、「正しい」という考えも、
無意識なプロセスで生まれたものです。

実は「正しい」というのは、「都合のよい解釈」により「錯覚」しているだけで、
実際には、違う可能性を求めている自分(の脳の一部)がいたかもしれない。

何かに追い回されるように生きていて、違和感を感じる方は、
今信じている行動の信念(という意識)は「錯覚」かもしれない。

自分(の脳の他の部位)が本当に求めているものは別なものかもしれない。
そう疑ってみてもよいかもしれません。

脳神経細胞は、それぞれが「生き残る」ために、常に適度な刺激を欲しがる生き物です。

退屈が怖くて、何か刺激をほしがるように感じるのは、
「脳細胞に自分の意識が乗っ取られている」のかもしれません。


じゃあ、どうするか?

自分なりの一つの答えは、

一拍、呼吸を置く、事です。

プチ瞑想でもよいのですが。



瞑想についてはこちらでも、自分なりにコチラで詳しく書いておりますが、

つまるところ「息の出入り(鼻腔に空気が通る感覚)」に集中する作業です。
(瞑想では、息の出入りに加え、五官からの感覚にも集中していきます)


脳が一度に"意識"の流れに載せられる情報量は限られてます。

脳だって、スマホと同様、計算処理のスピードにキャパがあるのです。

なので、"意識"の流れを「息の出入り」(や五官からの感覚)で埋め尽くして、

脳内の様々な「ガヤガヤ」を"意識"の流れから締め出してしまうのです。


これにより、無意識に次々と生まれてくる脳内の主張や、

その主張が正しい「都合のよい解釈」も一旦流してしまう。

意識の流れを、いちど静かにしてみるようなイメージです。

雑音は聴こえてきますが、飲み会で遠くで誰かが話している事、のように、

そこに集中せず、解釈しようとせず、ただBGMにしてしまう。


この作業を置くことで、一旦、自分のアタマをスッキリさせて、

もしかしたら「錯覚」させられてたり、流れに流されそうになっているかもしれない

自分の"意識"の流れをリセットできる。

そして、様々な感情の浮き沈みも、同様に、一旦リセットできる。

そうすると、心穏やかな時間を得られやすい。

そんな風に考えております。


心乱れたり、何かに流されそうになっていたり、

何か落ち着きを感じないような時は、

一旦、呼吸に意識を向ける時間を持ってみる。


たったこれだけですが、日常で訓練していくと、

とっても効果的では、と思っております。


ということで、超ダイジェスト版でした。

といいつつ、やはり文字を重ねすぎてしまいましたが😅。


元の資料は下記ですが、

こちらでは、なぜ、このような仕組みの脳が生まれてきたのか、という点や

「なぜ」という問いをしてしまう理由や、

より具体的なケースでの「解釈の仕方」なども加えております。

スマホで文字が小さい場合は、縦画面ロックを解除し、スマホを横向きにしてご覧くださいませ(指でズームも可能なはずです)

なぜヒトは「答え」を求めるのか〜脳と意識の進化から学ぶ、心おだやかな生き方をめざして〜 


ということで、

お付き合いくださり、有難うございました。


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