「縁ある人生を生きる」という選択 - 龍光ブログ


我々が"こころ"と呼んでいる、不可思議なモノ。

それらの根底にある(のかすら、分からないけれど、それっぽく名付けている)

"意識"と呼ばれるモノ。


それらが、生命の進化の過程で、どのように生まれてきたのか

なぜ、我々は、このように"言語"を扱い、

"思考"というものをアタマの中でもつようになったのか。

そして、さまざまな"こころ"や"感情"を感じて生きているのか。


その背景を学ぶことで、我々の"こころ"が日常で感じさせる

様々な悩みや苦しみに対して

もう少し、"かしこく、うまく"付き合えるようになれれば…。


そんな思いで、ここしばらく、"意識"、"こころ"といった分野の学びを続けてます。

ある程度学んでから、まとめたものをブログでも紹介させて頂こう…と考えつつ、

難解な本たちの前に、うすっぺらな表面を削るだけのような作業が続くなか

「まとめる前に、そもそも理解できてるのか?」「いつになったら、この本読み終わるんだ?」

そう、アタマから煙が出そうな毎日なので、

「キリがないから、うすっぺらな学びがらでも、少しずつでも吐き出す機会を作ろう」

と、ペラッペラな内容を吐き出すのが、このブログの内容でございます。

皆様に、中途半端なモノでお付き合いさせてしまい、

まことに申し訳ございません。

ハゲてます。スミマセン🙏。


さてさて…。とはいいつつ、賢い皆様には「当たり前」の事ばかりなのですが…。

以下…。


さまざまな生物が誕生してきた地球上の生命史の中で、

特にヒトの能力として特徴的なものに、"想像力"というものがある。
(なぜヒトは、この能力が長けているのかという説明は、今後に回させて頂くとして)


ヒトだけではなく、例えばお犬様にも想像力はあるだろう。

日の出が近づくと

僕のところに来て、僕の動きを観察しながら、

「そろそろ散歩連れて行くんだろオマエ」など

彼なりの"想像力"があるのでしょう。


でも、まさか僕がネ申から

「早朝の決まった時間に散歩に行ける!というルーティンをイヌに覚えさせると、

オマエが居なくて、ワタシが一人朝寝てたい時にイヌに叩き起こされるから、

わざとルーティンを崩して!!」

と、ご神託を頂いており

「今日は日の出の時間を過ぎてから散歩に連れて行こうか。

明日は日の出前の暗いうちから外に連れて行ってやろうか。」

など、アレコレ画策していることまでは、彼(イヌ)は想像できていないだろう。


でも、ヒトは「あいつは何か企んでいるのでは?」とか

「明日はこうしようか」など、

実際には事実かどうかも分からないことや、

まだ目の前に起きているわけでもないことなどの

「想定上のなにか」について、思考をめぐらせられる。

そんな、すぐれた"想像力"を手に入れた。


これが、今起きている様々な文明や科学の発展に繋がっているのだろう。


そして、ヒトは、あまりに「想像」上のモノに囲まれすぎて

それが「想像上のモノ」であったことすら忘れて生きてしまっている。


こう言うと、にわかに信じがたいかもしれないけれど

"虹"も、"愛"も、"法律"も、"貨幣"も、"国境"も、

実はすべて、ヒトが"名前"をつけているだけの"想像"上の現象や概念。

そこに、なにか確かな実体があるワケではない。


「虹は見えてますよ。そこに」

でも、"虹"として認知しているのは、

ヒトの視覚には、七色の半円状のモノとして「見えている」けれど、

ヒトの視覚からは「見えてない」赤外線や紫外線のように、

ただ、そこにある"状態"でしかない。

そもそも「色」という概念自体が、

ヒトの認知力の範囲より、名前を付けた"状態"でしかない。


事実、イヌの視覚(意識)にとっては「虹」も「色」も、

ヒトのレベルと同じようには存在してない。
(犬が感知できる色には限りがあるし、人間が見えている"色"で見えてない。と、ヒトによって想定をされている。)


"愛"とヒトが呼ぶ、こころの働きはどうだろう。

犬にだって"愛情"はあると思いたい。

でも、その"愛情"はヒトと同じものなのだろうか。

実は、犬にとっては、

ヘラヘラして尻尾触って、身体をスリスリすれば

メシやサンポなど、欲しいものがもらえる延長線上のものとして

そういう現象を見せているだけかもしれない。
(すくなくとも、ネ申のお犬様の僕に対する態度はそうであろう😅)


ヒト自身ですら「愛」というものが、

具体的に、何をもってそう呼べるのか、分かっているのだろうか。


自分にとって「それは愛」でも、

他人にとってはで「それは違う!」と言うことも起きる。


自分にとっての「愛情」が、

時に、相手を甘やかしてダメにするものもあれば、

時に、相手を苦しませてしまうものもある。

相手(ヒトや犬のような他の生き物)によって、

「愛」の解釈も、感じ方も違うものでしかない。


「愛」と聴いて感じる何か、も

「カネ」と聴いて感じる何か、も、

それらは、自分にとってしか「確かに何かを感じさせるモノ」でしかない。

それは、他の誰かにとって、共通した「何かを感じさせる」とは限らない。


犬にとっては、1万円札など、噛みちぎるおもちゃ以上の価値などなく、

ひとかけらのクッキーのほうが、よっぽど嬉しいように。



このように、実にヒトの日常は「想像」の産物にあふれている。

「愛」や「カネ」や「虹」といった、

ある程度の範囲で「一定の集団に一定の共通した概念」をもたらす"想像上の産物"はあるけれど

ヒトによっては解釈が随分異なる「正義」や「成功」といった"想像上の産物"もある。

だからこそ、国境線の争いのような「異なる正義」のぶつかりとして、戦争も起きている。

だからこそ「カネを稼ぐことこそ成功」というヒトもいれば「幸せを感じる生き方こそ成功」といったように

異なる価値観も生まれる。


結局、自分にとって「確かなモノ」は、

いま、自分が、実感として感じられている何か、でしかない。

自分だけの、体内で起きている現象でしかない。

それは、他のヒトや生き物にとっても「確かなソレ」とは限らない。

なぜなら、互いの「想像上」のモノだから。


目の前に転がる犬の💩のほうが、よっぽど

犬にとっても(ほぼ全ての)ヒトにとっても

「たしかに、💩だ」と言えるものかもしれない。

正義やら成功やら、よりも、よっぽど「確かなモノ」かもしれない。


…。いかんいかん、脱線がすぎました。

成功など意味が無いとか、愛などまぼろしみたいに聴こえてしまったらスミマセン。

なんだか、味気ない、「世知辛い」お話をしたかったワケではなかったのです😅。

なぜ、ヒトは、このように「想像」をたくましくするのか、といった話しは、

また機会を見つけてまとめてみるとして、

でも「実は、想像上である」という理解があると

「生きやすさ」をもたらしてくれるのでは。

そう考えて、少し脱線させて頂きました。


「愛だの成功だのは、想像上のモノと理解したほうが生きやすいって、

どういうこと?」


今日、お伝えしたいのは、

「縁ある人生を生きるって良いのでは」

という一つの価値観について、なのです。


ヒトは"想像力"を手にした。これは有り難く、素晴らしい。


でも、その力は、時に宇宙の向こうまでも、

際限がないかのように膨らませてしまえる能力がある。

だからこそ、時に

「実体があるのかないのか分からない"想像"上の概念」を

どう扱えばよいのかわからなくなり、

苦しくなるかもしれない。


自分の存在という不安、

未来という(未だ来てないから分かるはずもない)未知、

死という概念、

自分は愛されているのか、

自分は求められている存在なのか、

他人からの評価という「想像上の」概念、

自分の生きる意味という何か、

などなど…。


我々の想像力がたくましいからこそ、

あるようで触れない、掴みどころのないナニか

が自身の中で生まれ続けており

それが苦しみを起こしているのでは、と。


じゃあ、どうするか。


だからこそ、

目で見える、手の届き触れる、匂いを嗅げる、温かさを感じられる

「五官で感じられる存在こそ、頼りにしては」という考えです。


自分の周りに、縁あって、観れる、聴ける、嗅げる、味わえる、触れられるナニか

こそ、頼りになるのでは。と。


何よりも、自分が確かに感じられる五官を通した実感。

そして、自分なりに「感謝」とか「友情」とか「愛」だとか解釈し、

それらの感情を感じさせてくれる、

自身が出会うことのできる、誰か、何か、との「縁」

「つながり」という実感。


それらは、少なくとも自分にとっては

「たしかな実感」ではある。


時に「世界のヒトを救う」とか「より多くのヒトに価値あることを」

という考えも素晴らしいけれど、

「世界のヒト」とも「より多くのヒト」とも、実際には

人生で出会えるかはわからない。


我々が生きている限られた時間で物理的に(眼や耳や匂いや肌感で)

認知できるヒトの数は限られている。

ソレは、実際には地球上に今いる誰かかもしれないけれど、

自身が認識できてない時点で、

「想像上の誰か」なのか、AIなのか、まぼろしなのか、わからない。

「居ないヒト、手あげて」というようなモノで、

上がるワケないし、上がってる手が見えたら、

ソレはソレですごいし怖いけど😅。


「想像上の誰か」のための何か善きことをする生き方も素晴らしいのだけれど

それ以上に、まずは、自分自身のために生きる。

いま、ここにいる、自分が実際に五官で感じられる、

確かな存在である自身というものに向き合って生きてみる。

そして、同じく自身の五官や、こころで

実感をもって認識できる「縁ある周りの誰か」のために生きる。


まず、それが大切なのではないだろうか。


その上で、会ったことも認知できるかもわからないし

想像上かもしれない「誰か」のための何か善きことも目指していく。


平たく言うと、自分と、縁あって袖触れ合える人にこそ、

まずは向き合って生きるのが、良いのでは。と。


長々と小難しい事を連ねましたが、

結論は、どこにでも転がっているような

言われつくされた、あまりに当たり前の事です。


でも、繰り返しですが、我々は、本人が認識できなくなっているくらいに

「想像上のモノ」に囲まれ、それに価値観を縛られ生きているかもしれない。

だから、生きづらさになっているのかもしれない。


たとえば、お金や、将来。

いつ、どのように、誰につかうかわからない、

そして、価値も変わらず存在するのかすら、

誰も保障していない「未来使うかものカネ」や「未来の来るかもの時間」に

今こころ奪われてしまっているとしたら。

それは、今はまだ「想像」上の概念だけでしかないのに、

今しかない時間や、今のこころをすりつぶしてしまっているとしたら。


そして、評価や肩書。

いつ、どのように、誰の役にたつわけでもなく、

自身の一時的な「満足感」のためでしかなく、

しかも、それはやがて「慣れ」て「物足りなさ」を生んで

もっともっとと苦しめるものかもしれないのに。

実体の存在は何もない「想像」上のモノなのに、

手にしてしまったがゆえに

「失う恐ろしさ」に怯えるだけかもしれないのに。

それに、今こころを奪われてしまっているとしたら。

そのために、(存在しない)見栄を膨らませて

取り繕う生き方で、今のこころをすりぶつしてしまっているとしたら。


もし、そう苦しんでしまうのだとしたら、

それは、「想像上のものだ」と気づいて

「ありのままに感じる世界」に眼や意識を向け直していくのはどうだろう。


自分の五官を通して感じる、自分の生きている実感や

周囲の縁ある人との触れ合いの実感に

意識を向け直してはどうだろう。


鳥の音、太陽の輝きや熱、雨の匂い、ご飯の美味しさ、空気の清々しさ、

誰かの「有難う」という笑顔。


それは、確実に、そこに「ある」と感じられる

確かなモノかもしれない。

だって、それは、そこに、「ある」と認識できているから。

想像上のモノではないから。


それが、縁ある人生を生きるということなのでは。


そんな内容をダラダラと書き連ねました。


もうすこし、学びを重ねて、まとめてみたいと思います。


今日もお付き合い頂き、有難うございました。






このブログの人気の投稿

瞑想について - 龍光ブログ

はじめに - 日常で役立つ やさしいブッダの教え1

アメリカ最大級のホームレス地域を訪れて - 龍光ブログ